promise




 龍山邸を辞する間際、主に呼び止められて醍醐は戸口で立ち止まった。
「あの子を……響也を頼む。筋違いかも知れんが、誰かが支えてやらねば……」
「先生……」
 誰かが支えねばならない存在だなどと、響也の事をそんな風に思ったことが醍醐にはなかった。いくつか苦しい事件もあったが、その時でさえ響也は頼る側ではなく頼られる側だったと記憶している。
 彼が当事者であった時ですらも。
 醍醐は開きかけた口を閉じてゆっくりと頷いた。珍しい、師の縋る様な視線を受けながらもいつもと変わらぬ礼をし、踵を返して自分を待つ仲間の元へと急ぐ。
「すまん」
「いや。……行こうか」
 表面上はいつもと変わりなく、響也の一声で五人は歩き出した。普段ならば何かと喋る彼らも、今夜ばかりは口数が少なかった。龍山に言われた事が気になって響也を注視していると、皆が皆、彼を気遣う視線を向けている事に気が付いた。
 心持ち目を伏せて歩く響也を、誰もが心配そうな眼差しで見ていた。
 しかし誰も、何も口にすることはなく。
 繁華街に抜けた所で、五人は自然と輪になる。
「もう遅いからな。ここで解散しよう」
 そして醍醐は、何の気無しに響也へ視線を振った。
「響也。お前はどうする?」
 急に話を振られるとは思っていなかったのだろう、きょとんと目を丸くした響也は、しかしすぐに笑みを作って醍醐の肩を叩いた。
「お前と帰るよ。いいだろ?」
「あぁ、構わんが……」
「んじゃ小蒔と美里は俺が送って帰るわ。じゃ、また明日なッ」
 醍醐が女性陣二人をどうするかと言う前に、京一が二人を促していた。瞬く間に人混みへ紛れていく三人を見送って、醍醐は傍らの響也を見下ろした。
 いつものパターンなら、京一と帰ると言い出しそうなものなのであるが。
「何だよ。俺がお前と帰るって言ったらおかしいのか?」
 疑問が顔に出ていたのか、少々憮然とした面もちで響也に指摘され、醍醐は慌ててそれを否定した。
 おかしい――とは思わなくもない。どうして自分を選んだのか、醍醐には理解できぬ事である。しかしそれだけだと言うわけでもない。
 こんな時に自分を側に置いてくれる響也の意志表示が、とても嬉しいものであったのだ。
「……少し歩くか」
 賑やかな街が今日ばかりは少々恨めしく思えてしまう。どちらが先導するでもなくそぞろ歩き、人の流れに紛れようとする。
(響也……)
 醍醐は隣を行く響也をそっと横目で見た。一見すると何ら変わりのない横顔だが、注視すれば僅かな強張りが見て取れる。その胸の内でどのような想いが交錯しているのか、醍醐には知る術はない。
(お前は、お前だろう?)
 一度目を伏せ、醍醐は視線を正面へ戻した。響也は響也なのだ。どれ程重い宿星を背負っていようとも、彼は彼でしかない。醍醐達がそれを信じていればきっと変わらない。
 彼を響也でなくすものがあるとすれば、おそらくそれは自分達だ。
 言い聞かせ、迷わぬ様にと思う今の自分こそが、既に信じられなくなっているのかもしれないが。
「あ……」
「どうした?」
 周囲には興味もない様子で歩いていた響也の足が止まった。今はもう伏せられていない瞳が向けられているのは、すぐ先の店のウィンドウだった。
「悪い。ちょっと見て行っていいか? 外からだからさ」
 醍醐が頷くよりも早く、響也は小走りにウィンドウに近づいていた。
「時計、か」
「あぁ。今使ってるのがとうとう止まっちゃってな。修理するなら新しいの買った方が安いって言われたんだ」
 でもやっぱ高いな。
 吐息混じりに呟いた響也の視線の先を辿れば、落ち着いた雰囲気を持つ腕時計に行き当たった。
 響也はアナログ時計を好む。それも、細目の皮のベルトのものを特にだ。その趣味に、件の時計はぴったり当てはまっていた。
「あれか?」
「そう。前から目ぇつけてんだけど。バイトする暇って、今ないしな」
 時折、日雇いのバイトをこなす醍醐などとは違って、響也は実家からの仕送りのみで生活しているらしい。バイトなどする必要はない、と言われているせいもあるだろうが、大きな要因はやはり巻き込まれた一連の事件だろう。
「ごめん。行こうか」
 我に返った様にさっきまでの表情をかき消した響也に促され、再び歩き出した二人の足は、いつの間にか中央公園へと差し掛かっていた。
 いつもはここで別れる。そしていつもの様に別れの言葉を告げようとした醍醐の頬を、冷たい滴が打った。
 雨だ。
「本降りにならない内に――」
 早く帰った方が良い。
 その言葉は醍醐の胃の中へ飲み込まれた。
 己をじっと見上げる響也の瞳にぶつかっては、そんな言葉を放つ事など出来はしない。
 黙ったまま響也の腕を取り、醍醐は雨がいくらかはしのげそうな大木の元へ響也を誘った。雨よけに、と上着を脱ごうとした醍醐を流石に響也が押しとどめる。
「いくらお前でも風邪引くぞ。俺はそんなにヤワじゃないから」
「すまん」
 動きは止めたものの釦をかけ直すのも面倒で、醍醐はそのまま勢いを増し始めた雨を眺めた。徐々に身体へ冷気が忍び寄ってくる。
 すぐ側で、小さく響也が身を震わせた気配が伝わってきた。
 やはり今からでも帰った方が良いのではないか。
 そう言おうとそちらを振り向いて。
 今度こそ、醍醐は言葉を失った。
「――――」
 唇を噛みしめ、前を見据えている響也はその瞳に宿る意志の強さとは裏腹にとても儚く映った。今にもどこかに消えてしまいそうな、醍醐達の手の届かない遠くへ行ってしまいそうな予感が背筋を掛けのぼる。
「――俺は、一体なんなんだ……?」
 なあ醍醐、と響也は前を向いたまま言った。
「……昔から、音無の家には不思議な〈力〉を持つ者が多く出た。俺の祖父も大叔母様も、兄貴もそうだ。俺の実の父さんも。親父だけは違ったけど、それは修行してないせいだと言ってた。俺も――俺も、そういう音無の血筋のせいでこういったものを持ってるんだと、そう思ってた」
 醍醐は黙って聞いていた。そうする以外、何も出来はしない。
「なのに、何なんだ? 黄龍? 器? そんなの、俺は知らない。誰もそんなこと、一言も教えちゃくれなかった。祖父様さえも――ッ。だったら……だったら俺は。今、ここにいる俺は何なんだ? 今まで生きてきたそれすらも、黄龍の《器》としてしか見られていなかったのか!?」
 初めて醍醐を見た響也の両目からは透明な雫が溢れていた。雨に混じり、しかしその存在を確かに主張している。
 醍醐は無言で響也を抱きすくめた。
「醍――」
 驚いている響也の声も、無視した。はだけたままの上着に包み込んでしまうかの様に、強く、強くかき抱いた。
 言うべき言葉も何も、醍醐には見つからなかった。だから、ただ抱きしめた。シャツを介して伝わる響也の息づかいが、彼がここにある事を醍醐に信じさせた。
 おずおずと響也の腕が醍醐の背に回され、二人は強く抱き合った。
 雨が、止むまで――。



 閉めきった病室に、生命維持装置の稼働音だけが響いている。危険な状態を逃れたとはいえまだ予断を許さぬ状況だというのは誰の目にも見て取れた。
「醍醐……」
 響也を案ずる仲間達の為、特別に病室への立ち入りは許可されている。それでも中に入る勇気が出ずに廊下で壁に凭れていた醍醐は、親友の呼ぶ声に視線を上げた。
「京一」
 響也がここへ運び込まれた夜、壁を殴りつけた拳には白い包帯が巻かれていた。止めた醍醐自身も同じ気持ちだったことなど、この男にはお見通しなのだろう。
「入んねェのか?」
「あァ。なんとなくな……入りづらい」
 正直に答えれば、苦笑した京一がすぐ隣にポジションを取った。
「俺も、な。あいつに顔向けできねェ気がしてよ」
 お互いに同じ事を考えていたのだと、醍醐も頬に苦い笑みを刻んだ。
 護られることなど、響也は誰にも頼みも望みもしていないのに、自分達は。
「お門違いだと、響也は怒るだろうな」
「違いねェ」
 けれど二人とも、動かない。
 醍醐はぼんやりと、悪夢の様な一夜を思い出していた。
 一瞬の出来事。辺りを吹き荒れた禍々しい《氣》。振り向いた時には血の華が咲いていた。目を閉じて崩れる響也の髪にも頬にも飛び散った鮮血は後から後から溢れては響也を汚し。
 彼を運ぶ為に使った己の上着もまた血にまみれた。
 誰かが冷静であらねば。
 咄嗟にそう判断できた自分が、今では信じがたい。真っ先に動いた京一ですら、我を忘れていたのだから。
「大丈夫だよな……?」
 普段の彼からは想像もつかない程弱々しい声に、醍醐は京一をまじまじと見下ろした。俯いている為にその表情はわからない。
「あいつ、どっか行っちまわねェよな? 俺達に黙って、いなくなんねェよな? だってよ、俺達これからじゃねェか。これからだろ。もっと仲良くなって遊んでバカやったりしてよ……それが、その為に俺達は闘ってんだろ? なのに何でこんな――ッ」
 そうだ。
 これからだ。
 このまま何もないまま、終わるわけがない。
 醍醐は静かに上げた拳を、軽く京一の頭上へ振り下ろした。
「当たり前だ。相棒のお前が信じてやらなくてどうする。あいつが俺達に黙って遠くに行くわけがあるか。俺はまだあいつと再戦する約束を果たしていないし、他の皆もそうだろう。――あいつは、あいつだ。俺達がそう信じていればいい」
 そう。あの時言えなかった言葉が、今なら形になる。自分は、響也がどこかへ遠いところへ行ってしまうのではないかと不安を感じていた。それと同じぐらいの強さで、彼は彼以外の何者でもないのだと、信じようとしていた。
 自分達の知る彼が、そんなことをする人間ではないのだと。
 目を見開いた京一が醍醐を振り仰いだ。徐々に、表情に生気が戻ってくる。
「……ったく。お前の方があいつをよくわかってんじゃねェか」
 お返しとばかりに軽く打たれた拳の重みを、醍醐は静かな笑みと共に受け入れた。




 まだ入院しているはずの彼から急な電話を受けた醍醐が、指定された場所に訳も分からず到着したのはすっかり夜になってからのことだった。
 万全でない体調の響也を待たせるのは悪いことだろうと思いつつも、醍醐が遅くなったのには少なからず理由があった。
 今日が何の日か。
 出かける間際に見たカレンダーでそれを思いだし、醍醐は待ち合わせ場所とはほぼ逆方向へ走る事になったのだった。
「よ! 悪いな、呼び出して」
 白い息を吐き出し、笑みを浮かべた響也の顔は、やはり普段よりは幾分色を失っている。
 コートのポケットに突っ込んだままの両手は、おそらく冷たくなっているだろう。
「いや。すまんな、退院したばかりだというのに待たせてしまって」
 何故、自分なのだろうと思う。
 何故、響也は自分を呼んだのだろうかと、醍醐は幾度となく己に問いかけていた。
 それは多分、自分が響也の電話を受けてから走った理由と同じなのだろうと願いはしていたが。
「俺もいきなりだったからな。外出てから気づいたし。今日がクリスマスっての」
 言葉と共に吐き出される白い息が、不思議と暖かく見えた。
 生きているという単純な事。それがどれ程愛しいか。
「だから、ごめんな」
 その言葉が何に関するものかわからずに、醍醐は首を捻った。遅れた事に自分が謝りこそすれ、響也に謝られる様なことなど、何もないはずだ。
「プレゼント。用意してる暇、なかった」
 本当は何か用意してから連絡するはずだったのだと、どこか悔しそうにうち明ける響也を、醍醐は己の腕の中にそっと閉じこめた。
 贈り物など、目の前に最初から用意されているのだ。
 これ以上何を望めと言うのか。
「お前がここにいる。それだけで俺には充分だよ、響也」
「醍……ッ」
 声を詰まらせた響也が、咄嗟に醍醐の肩口にしがみついた。震える背中をゆっくりとさすってやる醍醐の耳に、くぐもった言葉が届く。
「俺……ッ、俺、すげぇ怖かっ……!」
「響也?」
「このまま死んだらどうしよッ……か、めちゃくちゃ色々かんがぇ……ッ!」
「……響也」
 こんな風に縋る響也を見るのは初めてで、けれど戸惑いも幻滅も何も、醍醐には生まれなくて。
 ただ、宥める様に背中を叩いた。
 冷たさを増す風に、自身も軽く身を震わせながら腕の中の存在を想う。
 上着のポケットに入っている包みは家へ戻ってから渡すことにして、醍醐は響也を包む腕に力を込めた。柔らかな黒髪に頬を寄せる。
 何もかもが愛おしい、生きている者の温もりがあった。

お題は『雨宿り(弐拾話)〜クリスマスを醍醐ルートで』でした(^^)。
好きなんですよ、このシーンvvv
彼の優しさ・頼もしさ全開!って感じで。
元はこれ、サイト『天球儀館』の【迷走惑星】シリーズが気に入って
番外リクエストで戴いた物です。
秋川さま、本当に有難うございました!


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