いつまでも、どこまでも……




 雨の匂いがした。
 天候は、雨。明日は晴れると、ニュースキャスターが笑顔で言っている。でも、きっと晴れない気がする……そんな複雑な思いをしながら、見上げる空だった。
 空は、どんより曇り色。
「やな天気」
 つぶやいて、顔をしかめる。
「なんで、雨なんて降るかな」
 縁側に座って、軒下に零れ落ちる雨のしずくを眺めていた。
 雨は屋根にあたって、屋根は小さな明るい音を立てた。
 雨は庭の花たちにぶつかって、小さくはじける。
「……」
 ひよりはそんな雨たちを眺めて、1回ため息をついた。
 洗濯物は全部家の中に干している。じめっとした空気は、部屋の中いっぱいに広がっている。気がめいる。正直。
「……」
 蹲って、空を見上げる。
 何のあじけもない空をしばらく眺めてから、ひよりはまたため息をついて、膝に顔をうずめた。



 そうか。
 なんとなく気がめいると思っていたら。
 よくこんな雨の日を、一人で過ごしたんだった……。








「20歳になったから、酒もOKか」
 小さな居酒屋に、懐かしげにつぶやく声。
 仕切りのない座敷に、むさくるしい男どもがいる。
「そうだな」
「高校の間はずっと、お前に「酒は駄目だ。酒は駄目だ」っていわれつづけてきたからなぁ……まさか、お前とこんな風に酒を飲み交わすことになるなんて想像もしてなかったぜ?」
 おかしそうに笑うのは、京一だった。
 醍醐も苦笑して、
「そうだったな。もう、ずっと昔のような気がするよ」
「ずっと昔って、おい。まだ2年ぐらいしかたってねぇんだぜ?」
 あきれ気味につぶやいて、
「でもよ……たく、首尾よく行きやがって」
 手の中のコップに注がれたビールを半分ぐらいのみ干して、京一が言う。
 机の頬杖をついた姿勢で言う彼に、隣の醍醐は苦く笑う。首尾よくといわれても、彼自身こうなる今が不思議なぐらいにおかしくて、笑うしかない。
「ははは」
「……ひよりもどうして、こんな格闘オタクが好きになったんだろうな……」
 物凄く真剣に聞こえる京一の声に、
「ははは、どうしてだろうな」
「なんだよ。わかってねぇのかよ」
「さあな」
 適当な言葉でにごすと、京一は顔をしかめた。
「……おいおい」
「どうしてひよりが俺の事を好いてくれるのか、それはわからないが、俺がひよりを好きな理由はわかってるつもりだ」
 言う醍醐に、京一はおかしそうに笑って、
「そりゃ、自分の気持ちもわからないんじゃ、それは駄目だろ?」
 言われて、醍醐は苦笑する。
「そうだな」
「しっかりしろよ。大将」
 おどけてつぶいてから、
「今度からは……お前があいつを護るんだからな」
 真剣な口調で告げる。
 醍醐が気づいて京一を見据える前に、
「でも、ひよりのウエディングドレス……に合うだろうな」
 また一人おどけるようにつぶやく京一に、醍醐は笑う。
「そうだな」
「たく、やっぱ羨ましいぜ……」
「ははは」
 笑うと醍醐はふいに笑いを止めて、窓を見た。
「雨が降ってるな」
 醍醐の言葉に、京一も窓を見る。
「あ、そうだな……」





 雨の日には、悲しい思い出が多い。
 自分を傷つけて。
 誰かを傷つけた思い出ばかり。

 暖かい思い出なんてない。

 雨の日は大抵、
 心をえぐったような記憶ばかりを思い出して、
 胸を押さえて、蹲っていた。





「……」
 雨の音を聞いていると、
「まあ、いろいろあったけどよ」
 ビールを全部のみ干して、京一は空のコップを見据えた。
 醍醐が京一を見る。
 京一は醍醐のそんな視線に気づいて、笑った。
「幸せになれよな。お前たち」
 優しい言葉。
 手向けれる言葉に、醍醐は少し目を丸くしてから、小さく笑った。
「ああ。わかっている」




 幸せになろうと思う。
 君とふたりで。
 君の幸せに僕が必要なら。
 僕の幸せには君の幸せが必要だから。

 ふたりで幸せになれるのなら。
 どこまでも、幸せになれるから。



 君がここにいるから、僕はここで微笑む。




 居酒屋を出たのは、夜の7時だった。
 雨はまだ降っていた。
 家に着いたのは、夜の8時。
 家には電気がついていない。
「ひより、もう寝てるのか?」
「時間的にまだ早いと思うが……」
 家を眺めた京一は、しばらくしておかしそうに笑った。
「小さい家だな。ひよりの趣味だろ?」
 訊ねられて、醍醐は頷く。
「ああ」
「ひよりらしいよな……小さいけど、暖かそうな家だ」
 京一は目を細める。
「この家で、明日からひよりは暮らすんだな……」
「ああ」
「普通の女の子やって、いつか子供産んで……おばあさんになって」
 どこかさびしげな言葉に、醍醐は何も言わない。
 京一はかさの向こう側の家を見据えて、
「……美弥に、なるんだよな」
 つぶやくと、うつむいて笑った。
 傘がゆれて、雨が落ちる。
「よっていくか?」
 言う言葉が見つからなかった。思いついて訊ねると、
「さすがに俺も、結婚前の男と女のいる家にはあがりこめないな」
 京一はおどけて言う。
 醍醐は、
「別になにもしていないぞ」
「馬鹿。気持ちの問題だよ。女心がわかんない奴だな」
 少し大げさにため息をついてから、京一はきびすを翻した。
 傘の上の雫が拍子に落ちる。
「じゃあな、明日、楽しみにしてるから」
 京一の背中を見送って、醍醐はふと不思議な気持ちになる。
(みんな、変わっていくものだな)
 京一の背中を見て、思う。
 変わっていくもの。
 京一も、ひよりも、きっと自分も……。
 これから身長も伸びるかもしれないし、心も成長するかもしれない。
 自分の考えがおかしく思えて、醍醐は笑った。
 雨の中、微笑んだ。




 雨を。
 痛みだと思わなくなったのは、いつからだったか。
 季節も場所も忘れてしまったけれど、

 君がきっかけだったということだけ、
 僕ははっきりと覚えている。




 玄関で、傘たてに傘を入れた。
 居間に続く扉を開けて、醍醐は立ち止まる。

 雨の匂いがした。

 居間にある、庭に続く窓は全開になっていた。
 そこに、うずくまるように、彼女がいた。
「……」
 なぜか不思議なぐらいに愛しくて、醍醐は微笑んだ。
 洗濯物の間から見える彼女は、どうしようもなく不思議なぐらい愛しかった。
「ひより」
 名前を呼ぶと、彼女は驚いて振り返った。
 物思いにふけっていたのかもしれない。物凄く驚いた顔で。
「醍醐さん!?」
 ひよりの驚いた声がどこか心地いい。
「どうしたんですか?京一さんは?」
 肩越しに目を向けたまま訊ねるひよりに。
「ああ。さっき帰ったよ」
 答えて、
「何を見ていたんだ?ひより」
 訊ねると、ひよりは少しだけ納得できないような顔をしながらも、しばらくして微笑んだ。
「雨を見ていたんですよ」
「雨?」
「そう」
 目を空に戻す目には、軒下に落ちる雨が見える。
 醍醐も雨が落ちる空を見据えて、ゆっくりとひよりを見る。
 しばらくして、ひよりは苦笑する。
「?」
「京一さんも一緒に家に上がればよかったのに」
 言葉に、
「ああ。「結婚前の男と女のいる家にあがりこめない」らしい」
 醍醐が京一の言葉を代弁する。
 ひよりはまた笑って、
「変ですね。京一さん、私たちに気遣うなんて」
「そう思うか?」
「はい」
 でも、と彼女は付け加える。
 ゆっくりとした言葉と、口調で。
「人間って、そういうものかもしれませんね。変わっていく生き物なのかも」
「そうだな」
 頷いて、ひよりの隣に座る。
 庭に落ちる雨が、雨と土の匂いを運んでくる。梅雨の季節の空気の匂い。
「醍醐さんが出かけた後、家の掃除をしてたんです」
 ひよりがつぶやく。
 表だって汚れてはいないけど、仕切りの着いた部屋にはまだまだ開封されてないダンボールが山積みになっているし、洗濯物は居間にでんと干されている。
 はじめてこの家に上がったときの、開放感はもうこの家にない。
「ちょっといろいろ考えてたら、悲しくなって嬉しくなって、変な気持ちで、でもやっぱり嬉しくなりました」
「?」
「これからはずっと、醍醐さんと一緒にいられるんだな……と思って」
 開けた好きな人のダンボールの中には。
 自分は知らない昔の思い出がたくさん詰まっているし、きっと自分のダンボールもそうなんだろうけど。
 ふと悲しいと思えば、明日からふたりで築くと思うこの家での思い出は今までお互いに知らなかった昔よりも長いはずだと、思って喜ぶ。
 雨の音に気づいて、昔を思い出して悲しくなっても。
 こっちが今なのだと、教えてくれるような優しい自分の名前を呼ぶ声に振り向いて、微笑むことが出来るから。
「なんか、幸せだな」
 ひよりは笑う。
 きっとこの幸せは、明日から突然訪れるものではなく、今も昔も存在していたものだけれど。明日になれば、本当に永遠にこの幸せが続くような気さえする。
 もう、孤独に雨の降る空を見上げることもないのだと。
 微笑むひよりの笑顔を醍醐は見据えて、そっと体を引き寄せた。
 はじめ恋人になったときは、こんな恥ずかしいこと全然出来なかったし、出来てもものの一秒も持たなかったけれど、今はひよりは笑って頭を醍醐の胸板において、彼の顔を仰ぎ見る。
 見下ろす目を醍醐は空に向ける。
 照れ隠しだ。なにげなく抱きしめることは出来ても、目を合わせることはまだ難しかった。
 ひよりは気づいて笑う。
「醍醐さん、緊張しすぎ」
「……そうだな」
「明日から、夫婦になるんですよ?大丈夫ですか?」
 おどけて訊ねるひよりに、
「……大丈夫、だとは思う」
 やけに慎重に答える醍醐。
「目もあわせられないのに?」
「……」
 からかって訊ねてよこすひよりに、醍醐はおずおずと視線をよこす。
 下ろす目に向けられる、まっすぐな視線。
 いつから、この視線をまっすぐ受け止めることが出来るようになったのか、醍醐は覚えていない。ただ、まっすぐすぎるその瞳から自分の思いを隠すように目をそらしていた時の事は、克明に覚えているのに。
「すこしずつ、慣れていくさ」
 醍醐はまた、視線をそらして言う。
 はがゆいままの気持ちは同じ。はがゆさは心がすれ違う感覚ではなくて、もっと互いに触れ合えないことのはがゆさににている。
「結婚しても恋人同士でいようって、私たちのためにあるような言葉のような気がしてきます」
 ほんの少しだけあきれたように言うひよりに、醍醐は訊く。
「……嫌か?」
 訊ねられると、ひよりは笑う。
「全然」
 笑ったまま醍醐から離れて立ち上がった。
「私たちらしくて、いいんじゃないですか?醍醐さん、はじめっから奥手だったし」
「……」
 黙りこむ醍醐にひよりは少し困った笑みを浮かべる。
 浮かべてから、優しくもう一度笑って、
「雨の日って、嫌いなんですよ」
 ふと、ひよりは言う。
 醍醐が見上げると、見えたのはひよりの背中。
「ひとりで、雨の音を聞いてたときのことを思い出すから」
「?」
「でも、今は嫌いじゃありません。醍醐さんがいるから」
 うつむいておかしく笑うと、肩越しに醍醐を見やる。
 目が合って、ひよりはもう一度微笑んで、醍醐の前にしゃがんだ。
「初めてすきだって言った時も、キスした時も、ふたりとも緊張して全然ムードなんてなかったじゃないですか」
「……」
 醍醐は何もいえない。
 ひよりはわらったまま。
「でもそれでも幸せだったから、今までどおりでいいんですよ」


 明るい笑顔。
 こんな笑顔に何回助けられたのか、数えようといてやめた。
 きっと、計算できる量ではないから。


「でも、キスぐらいははずかしがらないでできるようにならなくちゃいけないですよ」
 言って、ひよりはふと気づいて空を見上げた。
 雨がやんでいた。
「あ、雨、やみましたね。太陽も出るかな」
「ひより」
「はい?」
 醍醐を見る。目が合う。
 そのまま醍醐はだきすくめた。
 けれど、結局目が合うのは少しの間で醍醐はすぐにひよりの首筋に顔をうずめた。ひよりはすこし黙ってから、楽しそうに笑う。
「駄目でしたね、醍醐さん」
「……すきなんだが……どういうわけか」
「出来ないことを無理にしても、私は嬉しくありません」
 やんわりといって、ひよりは嬉しそうに頬にあたる醍醐の髪の感触に目を閉じた。
「それに、結婚したって、何かが劇的に変わっていくわけではなんです」
 確かに、幸せにはなるだろう。
 でもその幸せは、明日突然出来上がるものではなく、むかしから……もしかすれば彼とであったときからはじまったものかもしれない。
 その幸せが、ただずっと、続いていくだけ。
 特別なことは何もないけれど、少しずつ。
 もう、ひとりではないから。
 きみとふたりなら、きっと。

 いつまでも、どこまでも……。

 雨が降っても。
 ふたりで眺めて、微笑んでいられるだろうから。

「醍醐さん」
「……なんだ?」
「最初は、目を合わせたまま抱き合うところからはじめましょうか?」


Fin...


お題は『醍醐とひよりの結婚前夜』でした(^^)。
辛い事、哀しい事が一杯あって、全て吹っ切れた訳じゃないけど
それでも二人は歩き始めます…一緒に幸せになるために。
平凡な日常の続き、それこそが彼らの欲してやまなかったものなのかもしれません。
ともあれほかげさま、素敵なお話をありがとうございました!

賜り物部屋へ