行く手に淡いオレンジ色の光が見えて、龍麻はホッと息をついた。もうすぐだ。

それでも扉を開けるまでは安心できないような気がして、足を速める。

周りは大きな筆にどっぷりとインクをつけ、思い切り塗り潰したような闇が横たわっている。他には何も存在しない。

歩みと共に近づいてくる明かりだけが、龍麻と『そこ』との距離を表していた。






<ミュージック・オブ・ザ・ナイト>








「お客様、困ります。――――お客様。」

扉に手を掛けられる距離まで近づいた時、店の中から慌しい物音が響いたと思うと、扉が中から勢い良く開いた。

光が外に射し、そこだけいきなり暗闇が切り取られた。

「あっ!」

滑り出てきた黒い人影に危うくぶつかりそうになり、龍麻は危ない所で脇に飛び退いた。

黒い帽子を目深に被り、長いマントですっぽりと体を包み込んだ人物は顔すら隠すように首を竦めていたが、すれ違い様にマントが揺れた。

(―――――――――!)

その顔は。

白骨の―――――白。

だが、くりぬかれた部分からぎょろりとこちらを見た眼の動きに、紛れもない生き物の気配を感じ、龍麻は胸を撫で下ろした。

(何だ、仮面か。)

異様といえば異様な風体だが、『ここ』ではそれほど気にする事ではない。

「お客様、お待ちを―――――。」

開いた扉が自然に閉じきる前に、細い手が中から伸びて押し戻した。

真っ白いエプロンに紺色の裾の長い服、足首までの黒いブーツと、まるでどこかの少女小説から抜け出してきたような出で立ちの若い娘が顔を出し、外に向かって呼びかけた。

だが、黒ずくめの人影は既に遠くに去り、外の暗闇と見分けがつかなくなっていた。

フウ、と嘆息した少女は、そこで脇に立っていた龍麻に気付いた。

「まあ、緋勇様。」

「こんばんは。」

にこりと笑った龍麻に、少女は慌てて深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ。お一人なのですか?よくご無事で。」

「先に行っているように言われて、これを持たされたから大丈夫。」

龍麻は掌ほどの大きさの、半分潰れた箱を取り出して見せた。あまり上等そうでない煙草の香りが微かに漂った。

「お席はお取りしてあります。奥へどうぞ。」

少女は再度一礼すると、龍麻を深い木の色と紅で統一された店の奥へと案内した。彼女はこの店でただ一人のの女給である。

いつものようにカウンターの後ろにいる主人に会釈すると、こちらをちらりと見て微かに頭を動かした。が、それきり何事もなかったかのようにグラスを磨く作業に戻った。

所々にいる客も、こちらを意識しているのかいないのか、自分たちの話に没頭し、或いは一人で杯を傾けながら物思いに耽っている。

ここは人の世界と別の世界の狭間にある、止まり木のような店なのだ。そして同じ店の中でさえ、空間が分かれているように思える時がある。




「あれは?」

古めかしい椅子に座った龍麻は、隣のテーブルにぽつんと置かれた見慣れない物を指差した。

オルゴールだろうか。装飾の入った箱の上にお世辞にも可愛いとは言いがたい顔の猿が、シンバルを持った腕を広げて腰掛けている。

金襴の服も毛皮もすっかり色褪せて、撫でると指にざらつきそうだが、丹念に埃が払ってある。

「先程出てゆかれたお客様が置いていかれたのです。うちは骨董品店ではないと申し上げたのですが聞いて下さらなくて。」

女給は困り果てたように片頬に手を当てると店主の方を見た。が、店主はグラスを磨きながらひょいと肩を竦めただけだった。

「緋勇様、あまりお近づきにならない方が。」

龍麻が近づいてよく見ようとすると、女給が押し留めた。

「危険な物なのか?そうは見えないけど。」

「何か訳ありの様子でしたけれど、それもお話しにならないものですから・・・・それに。」

彼女は龍麻のテーブルに置かれた煙草の箱をちらりと見た。

「あの方のおられない間に貴方様に何かあると、私がひどく叱られます。」

「え?」

「――――あまり言わせないで下さいませ。これでも本性は嫉妬深い生き物ですから、わたくし。」

女給は珍しく声に刺を含ませ、プイとそっぽを向いた。

訳が分からず首を傾げた龍麻の耳に、不意に銀色の薄板を弾くような音が聞こえた。

振り向くと、猿の人形がゆっくりとシンバルを打ち鳴らすように両腕を動かしていた。その動きにちっとも合っていない単音の曲が流れている。

「あれ?動いてるぞ・・・・・・これ。」

龍麻は思わず手を差し伸べた。

「あ、緋勇様――――――!」

「―――――――?!」


指がオルゴールに触れた途端、セピア色と褪せた紅の風景が、白く吹き飛んだ。


眩い光に照らされた舞台に巨大な象がいる。その周りを回りながら踊る人々の動きがどんどん速くなり、赤と緑の渦になる。

プリマドンナの金切り声が回転と混乱に拍車をかける。

金色のオブジェの上、ひるがえる黒い影。

虹色の飾り石がまぶしく煌く蝶の仮面、白い髑髏のマスク。ありとあらゆる色の洪水、マスカレード。

ぐるりと視界が反転すると、星を従えた太陽の如く輝くシャンデリアが光の粒を撒いて―――――




――――――――――落ちる!












遥か遠くで風の鳴る音と、ひたひたと打ち寄せる水の音。

それがこの世界に在る音の全てだった。



視界が白く霞んでいる。ほかは全くの暗闇だ。何も見えない。

きっと湖にたちこめる霧のせいだと思ったが、目を擦ろうと挙げた手が薄く長い布地を撫でた。邪魔なので頭の後ろに押しやると、さらさらと軽い音がした。

上半身が締め付けられて苦しい。下半身もおびただしい布がまとわりついて重い。

息苦しさを感じて首元に手をやると、指にコツリと硬いものがぶつかった。綺麗に磨きぬかれて複雑にカットされた、大きな石。

胴へと手を降ろすと、触れる感触で自分の身が無数の宝石で飾られていることが分かった。

けれど身に纏っている衣裳の名前にふさわしい物が、ひとつ足りない。


(そうか――――)


とても美しいのだけれど、それはどこまでも冷たくて。


(ここには、花は咲けないから。)


天を仰いでも、そこに輝くはずのものは見えない。同じ色の空気が広がるだけ。

夥しい数の蝋燭が花束のように集められて炎をあげている。けれど、あまりに広く暗いここでは、小さな明かりは幾ら集まろうとも闇に吸い込まれてしまう。

彷徨うように歩き出すと、花嫁衣裳の裾が歩みに少し遅れて音をたてた。

やがて蝋燭の明かりから一番遠い所にわだかまる闇の中、蹲っている人影に気がついた。

近づくと、影は僅かに身じろぎして、呻くような声をあげた。


(行け――――――)


暗闇から手が伸びて、振りやられた。


(出てゆけ。)


拒絶の中に滲む深い孤独と苦悩に、心が震えた。

背後で別の誰かの声が聞こえる。自分を呼んでいる。

本当はそちらへ行かなければならないと分かるのだが、どうしてもその気にはなれなかった。

「―――――行かない。」

心のどこかで抵抗するものを捩じ伏せ、口に出すと覚悟が決まった。

あとにはひけない。

(―――――――?)

腕を上げると、巻きついた真珠の紐が、ちりちりと鳴った。

「できない。あなたを、ひとりになんて。」

龍麻は石よりも眩く白い手を、影を照らし出すように差し出した。

「俺なら、絶対に行かない。」

(オ―――――――。)

影が、歓喜に震える声を絞り出した。


龍麻は影に手を引かれるまま、共に進んでいった。湖の中へと誘われてもなお、微笑さえ浮かべてそれに従った。

――――――だが。

湖に一歩踏み込んだ途端、足に我慢できないほどの痛みが走った。

今までに感じた事のない切り裂くような痛みにもがき、岸に上がろうとしゃにむに足を動かしたが、濡れた裾の長い服が邪魔をして思うように動けない。

一方、逃すまいとする手は龍麻の足を掴もうとしたが、これも重く纏わりついた布地に阻まれた。

右手で突き出た岩をとらえ、平衡をとろうと無意識に振り回した左手に湖面から突き出た青白い手が伸びた。

無我夢中で振り回すことで手を掴まれる事は避けられたが、腕に巻きついていた真珠を捕まえられた。

「あっ!」

岩を掴んだ手が滑る。爪と石が擦れて嫌な音を立てた。

そのまま引っ張り込まれると思った時、何者かが龍麻の胴を支えた。



「ここまでくると、もはや体質だな。」



耳元で響く聞き慣れた声と覆い被さる体温に、一気に現実感が戻った。

闇と同じ色の服を身につけながら、闇よりもたしかな輪郭を保つその姿。


「――――先生?!」


犬神は答えず、龍麻の体に回した腕に力をこめた。

「痛ッ――――――!」

圧倒的な力の差で真珠を繋いでいた糸が千切れ、珠が弾け飛んだ。

糸で引き切られた龍麻の腕から血が溢れ、純白の袖がみるみるうちに紅く染まる。

手は切れた真珠の紐を掴んだまま、ゆっくりと湖に沈んでいった。

ばらばらに落ちた真珠の粒がそれを追うように揺れながら沈み、最後はほの白い光の欠片になって水底へ消え失せた。

「俺は―――――。」

我に返った龍麻は、消えてゆく光の粒を食い入るように見つめると、声を震わせた。

「俺、何てことを。」

水しぶきをあげて後を追おうとした龍麻を押さえつけ、犬神は叱り飛ばした。

「おい、まだ寝ぼけているのか。」

「でも、でも、あの人―――――!」


あんなに、ひとりで長い間。

こんなに、暗い所で。


「いちいちあの手合いに地獄の果てまで付き合うつもりか。体と命が幾つあっても足りんぞ。」

「でも!」

暴れる龍麻に業を煮やした犬神は彼の両手首をつかみ、その泣き顔にぐっと己の顔を近づけた。

闇の中でも青銀色に光る瞳が、龍麻を貫いた。

「――――――― 一体、あれに何を重ねていたのだ?」

「・・・・・・・・。」

ふ、と脱力した龍麻を抱き止めると、犬神は更に岸の上へと引き摺っていった。

「だからあれほど言ったろう。あの店では俺のいない時に無闇に見知らぬものに手を触れるなと。」

「あ・・・・の、オルゴール?」

「あそこは見た目よりも不安定な『場』だ。水が高い場所から低い場所へ流れるように、強い力や想いにた易く反応する。特にお前のように力の割に自覚に乏しい奴には、尚更危険だ。」

手を離されると、龍麻は濡れたせいで更に重くなったドレスの裾に引っ張られてぺたりと座り込んでしまった。

犬神はその側に片膝をつき、首からネクタイを引き抜くとそれで龍麻の血に染まった腕を縛った。犬神の手の動きに、されるがままの体ががくがくと揺れた。

「俺の到着はほんの一瞬遅れたようだ。あの娘があれほど取り乱すなど、実に百年ぶりの見物だったぞ。」

「怒らないであげて下さい。彼女はちゃんと警告してくれたんですから。」

「ああ、俺が悪かった。何でもかんでも手を出しては巻き込まれるお前の性質をよく考えずに、あんな場所へ一人で行かせた俺の失態だ。」

「・・・・・・。」

言い返せない龍麻は、かといって犬神の意地悪な言い草に素直に謝る気にもなれず拳を握り締めていた。が、やがてその目は湖に吸い寄せられた。

「――――幽霊とも、怪人とも言われた男がいた。」

犬神が、物問いたげな龍麻の目に答えるように呟いた。

「二目と見られぬ醜い顔を持って生まれ、天才的な音楽家であり建築家であり、サーカスの見せ物でありペルシアの王に篤く用いられた貴人だった。」

湖に霧が流れる。

犬神は照らす光もない湖面を、その果てを知るかのように遠く視線を向けていた。

「人にあるまじき姿と人を超えた力ゆえに何処にも安住の地を見出せず、命を奪われかけ、追われてこの地底に辿り着いた。しかしなお彼は、美しいものに焦がれ、自分の理想とするもので満たされた天国を夢見ていた。」

共に同じ方向を眺めていた龍麻がふと気づくと、犬神の顔がこちらを向いていた。

「出会った歌姫の愛を得ようとするあまり、人を殺め、拒む彼女を攫い、またも追われてここまで来た。そして歌姫を助けに来た若い恋人を捕らえ、選択を迫った。」


私を選ぶか

こいつを選ぶか


「それで・・・・・・?」

言葉を切った犬神に、龍麻は続きを促した。

「闇に生きる者の末路は、皆似たようなものだろう。」

犬神は龍麻の黒く光る瞳から視線を外すと、口元を歪めた。

「―――――帰るか。店の連中が心配している。」

龍麻は何も言わずコクリと頷くと、歩き出した犬神の後を追った。だが、間もなく濡れたドレスに足をとられて進めなくなった。
悪戦苦闘していると犬神が戻って来て、龍麻の体をかさばる衣裳ごと抱き上げた。

「先生、重いですよ。手を引いてくれるだけで大丈夫だから。」

「黙っていろ、この方が早・・・・・・・。」

「あ―――――。」

犬神と龍麻の行く手に、鬼火のような光が小さく灯って闇を照らした。

淡い光は、すらりとした女性の幻に変わった。龍麻と同じ白い衣裳の裾を長くひいている。

顔立ちは霞んでよく見えないが、俯いた顔を上げたその目に龍麻は見覚えがあった。

「あの時の・・・・・。」

龍麻が小さく声をあげた。

「そうか――――店に来たのはお前だったのか。」

犬神は龍麻の体を下ろすと、女性に歩み寄った。

女性は何をするでもなく、ただ立ち尽くしている。

「なぜ彷徨う。お前はあの時選んだのだろう。彼の言葉に従い、人の世界へ帰る方を。」

(むかしは)

ようやく振り絞った力で、彼女は呟いた。

深い悲しみに沈んでもなお、人の心をひきつける可憐な音色だった。


「後悔か?」


(むかしは、心捧げた――――)


「―――――同情か?」


(―――――)


「もう、いい。終わった事だ。全て、終わった物語だ。」


(――――――――)


女性の口が再び動いた。だがもう声にはならなかった。

「そうか。言霊を手掛かりにしなければ、どこへも行けぬか。」

一つ息を吸い込んだ犬神の声が、調子を変えて朗々と響いた。

「”行け””出てゆけ”――――――そして忘れろ。この地獄の全てを。」


(――――――――)


光が消えた後には、一輪の薔薇の花が横たわっていた。

龍麻が身を屈め、そっと拾い上げると、花から露が一滴落ちて足元の闇に消えた。

「――――――許してあげて下さい、先生。」

龍麻は薔薇の花を両手で包み込んだ。

「あのひとは人間だったんだから。」

「分かっている。ここは人の住むべき場所ではない。だからお前も早くここを出た方がいい。」

行くぞ、と龍麻の手を取ろうとしたが、それに応える細い手はいつまでたっても犬神の手に触れなかった。

振り返ると、龍麻が不思議な微笑を犬神に向けていた。

「でも、俺は本当に『人』かって訊かれると、あんまり自信ないですから。」

真紅の花を胸に抱いて、白く佇む龍麻を犬神はしばし無言で見つめた。

「・・・・・そうか。だが一つ忘れてはいないか。」

「・・・・・・・?」

龍麻は、犬神の視線を追って湖を見た。

「あれもまた、人だった。だから彼女を解放した。己の気持ちを犠牲に、人の住む世界へと帰した。いかに人ならぬ能力を持とうと、つまりは紛れもない『人』であったからだ。――――だが。」

言うと、犬神は大股に近づいた。

その目に宿ったいつになく激しい光に龍麻は思わず一歩引いたが、あっという間もなく強い力で腕を捕えられた。

「だが人ならざる者は違う。追う者を悉く屍にし、白骨の山を築き上げ、湖の水を全て真紅の血に入れ換えようと、ようやく手に入れた光を手放すものか。」

ギリ、と力を入れると、傷口から新たな血が零れ出て龍麻の手を濡らした。

「それが魔だ。全てを喰らい尽くす、俺達のやり方だ。それでも覚悟を決めたのならば。」

紅いものがしたたる指先に唇を近づけ、犬神は言った。



「誓え―――――お前は、俺の獲物だ。」





繭さま、嗚呼、繭さま…。
何故にあなたの書かれる文章世界はこうも美しいのでしょうか…(嘆息)。
素敵すぎて私ごときがコメントするのはもはやおこがましいとしか…。
お持ち帰り自由との事で早速戴いてしまいました(^^)。
繭さま、ありがとうございます〜!!

賜り物部屋へ