虹の中に飛び込んだみたいで、くらくらする。
龍麻の黒く磨かれた石のような瞳は、小さなクリスタルガラスを何万と連ねたシャンデリアの輝きに魅せられたように注がれていた。
あまり見つめすぎたせいか、頭が揺れてきたような気がして目を逸らした。
しかしそこもまた、色彩の渦だった。様々な色に身を包んだ人々が真紅の絨毯の上を滑るように動いてゆく。
目の前がちらちらするのは、先ほどの残像だけではない。
シャンデリアに劣らない光を放つ豪華な装飾品、隙のない身のこなし、品の良い囁き声と笑い声。スピーカーごしではない本物の弦楽の調べ。
仕方がないので座った自分の身体に目を落としたが。
まず、目に入ったのは紅い宝石を連ねた首飾り。
少々淋しい胸元を補うようにふんわりと豪奢に垂れたレース。
薔薇色の薄い布地が幾重にも重なり合って、まるで本物の花びらのように華奢な靴をはいた足元にまで流れている。
顔の半分を覆う仮面のせいで、視界が悪い。
つけ毛の頭を振ると宝石と金が耳元でぶつかり合って、ちりんと澄んだ音をたてた。
別に、ここにいても何ら恥じることのない姿なのだが――――ある意味では。
(・・・・・・・・・。)
しかし疑問は晴れない。
何故一介の庶民にすぎない自分が、こんな場所にいるのだろう。
しかも、よりにもよって――――女装姿で。
<マスカレード>
唸り声をあげそうになったその時、白い手袋をはめた手がついと差し出された。手は、透き通った液体を満たしたグラスを握っていた。
「あ、ありがとう壬生。」
「どういたしまして。」
礼を言われた壬生はチンとグラスを合わせると、中身に口をつけた。
渡されたのが大ぶりなワイングラスだったので一瞬躊躇したが、果汁の爽やかな香りに龍麻は安心して飲み干した。緊張からか、随分喉が渇いていたのだと自覚する。
手間をかけてくれなくても、5,6歩も歩いた所に飲み物や食べ物を山ほど積んだテーブルがあるのに、と言う龍麻に、壬生は嫣然と微笑んだ。
「君は今レディなんだから。座って僕の奉仕を受ける権利があるんだよ。」
「れ、レディだあ・・・・?」
壬生の言い草の恥ずかしさに、龍麻はボワッと赤くなった。
いつもよりも柄の悪い言い回しが口から飛び出すのは、反動だろうか。
龍麻は辺りをはばかるように見回すと、いささか姿に似合わない乱暴な仕草で壬生の胸倉を掴んで引き寄せ、彼の耳に向かってボソボソと囁いた。
「なあ壬生、ここまで来といて今更なんだけど。」
「何だい、龍麻?」
「俺がこんな格好するのが、何でお前の任務の手伝いになるんだ?」
ぴらりとドレスの裾を摘まんでみせた龍麻に、壬生はいとも簡単に答えた。
「会場に入るためさ。」
ここは、とある大物政治家の私邸。
この屋敷の主は巨額の脱税やその他諸々の不正行為に関わった疑いをかけられていたが決定的な証拠が無く、本人もそれを盾に国会や警察への出頭を頑なに拒みつづけていた。
ところが何を思ったのか、彼はこのような時期に不敵にも大掛かりなパーティを開いた。
日頃から派手好きで知られていた政治家が、自分の存在を誇示するための催しだと思われていたが、実はこのパーティのどさくさに紛れて国外逃亡を目論んでいるらしい。
それを未然に阻止し、ターゲットの身柄を確保するのが今回の任務なのだ。今回は壬生一人の仕事ではなく、会場のあちこちに拳武館の者が彼と同様、招待客や使用人に混じって散っている。
「目立たないように紛れ込むには、招待客になるのが一番だからね。ここでは僕は父親の名代で出席したさる会社の跡取息子、君はその婚約者。」
「こっ?!」
面白そうにちらりと見やった壬生の前で、龍麻はパクパクと口を開け閉めした。
「ま、まさかそれって、鳴瀧先生がお膳立てしたのか?」
「館長はそういう事務仕事に関わるほどお暇な方ではないよ。」
「ああ、そ、そうか。そうだよな。てっきり先生がふざけてやったんだと思った。」
(逆だよ。)
胸を撫で下ろした龍麻に、壬生は内心で突っ込んだ。
今回の任務について、現在海外出張中の鳴瀧が知るはずもない。
もしも彼が知っていたなら、たとえ偽名を使っていても誰が相手でも、龍麻の身分をそのように公称することを断じて許しはしないだろう。
「――――まあ、この人数ではそんな設定、誰も気にとめやしないから。」
「確かにそうだな。」
龍麻は素直に頷いた。
私邸とは思えない広さの会場には、政財界の関係者を主とした人々で埋め尽くされている。
「しかし仮面舞踏会とはよく考えたものだ。これなら顔は分からないし、いざとなれば似た体格に似たような格好をさせた人間を用意しておけば目眩ましにもなる。ボディガードも何人混ざっているか見当もつかない。」
「そこまで考えている奴相手に、うまくいくのか?」
「拳武館の手が伸びている事までは気付いていないはずだよ。それに彼は、大層自己顕示欲の強い人らしいから、もしかすると予測より簡単に終わるかもしれない。」
「・・・・・?」
壬生の意図する所が今一つよく分からない龍麻は小首を傾げていたが、遠慮がちに話題を戻した。
「あの、ところで未練がましいんだけど、そういうことなら俺、別にお前と同じ格好でも良かったんじゃあ・・・。」
「女性とペアの方が目立たないんだ。男一人で来ると、相手探しと思われて何かと声をかけられやすいから。」
壬生の台詞に大した他意はなかったのだが、龍麻はさもありなんと思った。
仕立ての良い燕尾服の上に羽織った襟付きの長いマント―――――有名な歌劇の登場人物の扮装が、姿勢の良い長身に良く映えている。
頭にはつばの広い帽子を目深に被り、顔の右半分と目元は白いマスクに覆い隠されていたが、これで顔を露わにしていたらたちまち任務どころでなくなったのは明白だ。
「なら、れっきとした女の子を連れてくればよかったのに。お前と一緒なら断る相手はいないと思うけど。」
「女の子の仲間を危険に晒せと言うの?」
「あ、そうか。」
龍麻は花飾りのついた自分の仮面を押さえて苦笑した。
「よかった、仮面舞踏会で。」
「・・・・・僕も、そう思っていた所だ。」
ドレスは少しも大胆なデザインではないが、僅かに覗く足首のラインを一目見ただけでも、その中に隠されているほっそりとしなやかな体つきが想像できる。
唯一見える艶やかな唇と鼻筋が、仮面を剥ぎ取って全てを見たいという衝動を掻き立てる。
だが龍麻は自分の姿を見回すと、壬生の視線の意味をすっかり誤解してシュンと項垂れた。
「あ、やっぱり不自然?そうだろうな。」
「龍麻、そうじゃなくて―――――。」
「――――――そうだ!」
壬生が反論するより早く龍麻はポンと手を打った。
「如月ならもっと似合うのに!そう思わないか?」
「――――――ッ。」
龍麻の爆弾発言に、丁度飲み物を含んだ所だった壬生はたまらず中身を噴いた。
「あああ、壬生ったら。大丈夫か?」
飛び散った飛沫を拭こうとして、咄嗟に出したハンカチがレースだらけで全く実用に向いてないことに気付き、龍麻は顔を顰めた。
「君は・・・・・何て命知らずな事を言うんだ。」
壬生は龍麻の手を制し、すかさずウェイターが差し出したナプキンを使った。
「だって如月、すごく綺麗な顔してるじゃないか。怒られるかもしれないけどちょっと中性的な感じだろ?」
「・・・・・・。」
あっさり言ってのけた自覚の無さに、壬生は沈黙するより他になかった。
「それに腰なんて俺と同じ位細いし。あいつの方が俺よりばれにくいよ、きっと。」
「・・・・・あのプライドの高い人にそんなことさせるのかい?」
「あ、確かに・・・・。」
「僕はまだ滅殺されたくないからね。」
ゲホ、と咳き込みながら辛うじて言った壬生の言葉に、龍麻は納得した。
ならば自分のプライドは?という問題は、お人好しの龍麻の頭には浮かばなかったらしい。
「だから龍麻、僕の側を離れちゃ駄目だよ。」
「ああ、うん、分かった。」
もしかして、また壬生の良いように言いくるめられてしまったのかと思ったその時、複数の気配が近づくのを感じた。
顔を上げようとした途端、不意に腕を掴まれ、立ち上がらされた。
「壬生?」
「全く、主が最低の人間なら、客も無作法者揃いだ。」
壬生は吐き捨てると、仮面の下からでもそれと分かるほどの冷ややかな一瞥で、龍麻に近づこうとした男達を凍りつかせた。
「無作法って?何?今の人達。」
「いいからほとぼりが醒めるまでこちらにいよう、龍麻。」
自分が一際明るく開けた場所に連れて行かれるのを悟って、龍麻は青くなった。
「壬生!俺、社交ダンスなんか全然・・・・。」
「平気だよ。僕の手をしっかり握って一緒に歩いてれば、それらしく見えるから。」
「け、けどさっ・・・・!」
抗議した途端、手を握られたままクルリとターンされ、転びそうになった龍麻は慌てて壬生の肩にしがみついた。
「あまり声をたてると、ばれるよ?」
「・・・・・・!」
何がばれるのかを素早く察した龍麻は、手の平で口を覆った。
「頼むよ、任務終了まであまり騒ぎを起こしたくないんだ。」
コクコクと首を何度も振って頷く龍麻を、壬生は微笑みながら見下ろした。
「でも靴・・・・踵が。脚、挫きそう。」
「大丈夫。僕に任せて。」
言いながら、壬生は巧みな脚捌きで踊る人々の間を抜け、時には他の客にぶつかりそうになる龍麻の肩を引き寄せてかばう。
安心した龍麻の体から徐々に緊張が抜け、壬生の動きに逆らわなくなった。
そうして壬生の動きに合わせていれば、それなりに踊るのも意外に簡単な事だと気付いた。
「――――お前、本当に何でも出来るんだな。」
「全て任務に必要だから身につけたまでだよ。こういう場に潜入するのも、これが初めてじゃない。」
「壬生・・・・・。」
「でもね、龍麻。」
「何?」
「身につけておいても悪くはないと思うようになったよ。ついこの頃だけど。」
そつの無い会話の運び方。悪目立ちしない程度の嗜み。
人に紛れ、人を欺き、近づき―――――そして殺すために身につけた技能。
(でも今、君とこうすることができるなら。)
と、壬生の肩に置かれた龍麻の手に、力が込もった。
「あの、さ。壬生・・・・。」
薄紅色に塗った唇が、壬生の耳元に近づいた。
「え?」
「・・・・・任務って、いつ遂行されるんだ?」
見下ろすと、至って真剣な目がそこにあった。
彼らしく色気のない質問に壬生は苦笑し、首を横に振った。
「潜入に協力してもらっただけで充分だよ。あとは僕達の仕事だから。」
「でも――――ぅわ。」
いきなり働いた遠心力に視界がブレた。
やや大げさなターンの途中で、壬生の手が振り回された龍麻の身体を一瞬強く抱きしめた。
「その気持ちだけで十分だよ。」
「またそうやってごまか・・・・ッ。」
つい声が大きくなりかけて、またも龍麻は唇を噛み締めた。そしてからかうように微笑む壬生の口元を睨みつけたが、やがて諦めた様子で彼のリードに身を委ねた。
「――――なあ、壬生。」
しばらく踊りつづけていた龍麻が不意にクスリと笑って、フロアの端を頭の動きで示した。大分余裕が出てきたらしい。
「見ろよ。仮面舞踏会なのに、ちっとも仮面じゃない人がいる。」
龍麻の視線の向こうに、長い柄の先についた仮面を顔の前に掲げている婦人がいた。
彼女はいかにも手が疲れそうな姿勢を保っていたが、飲食やおしゃべりの合間に、すっかり手が留守になっている時の方が多い。
「自分が誰だか人に知れないと気が済まない人もいるのさ。きっとこの日のために、衣裳に趣向を凝らしたんだろう。」
大きなざわめきが起こり、ちょっとした笑い声の渦に変わった。
思わずそちらを見ると、きらびやかな人々の輪の中心で仮面を取って得意げに笑う男の姿があった。
龍麻にもどことなく見覚えのあるその男は、上等だがどうということのない礼服姿だった。地味な姿で客の間にさりげなく混じり、いきなり正体を現しては驚かせるという趣向なのだろう。
「あれは、もしかして。」
「やっぱりね。」
「―――――。」
瞬間、空気が冷えたような気がして龍麻はハッと顔を上げた。
その、声。
今まで自分に向けられていた、静かだが微かな温度を帯びた声とは違う響き。
「この勝負、仮面を被りおおせなかった者の負けだ。」
そう言うと、壬生は顔だけをあさっての方向に振り向け、帽子のつばを指で僅かに上下させた。
と同時に広間のあちこちから、鋭い気配が剣を抜き放ったように幾つも立ち上がった。
龍麻の背筋が凍りついた一瞬のうちに、壬生は龍麻を広間の隅へと攫った。
「壬生?」
「龍麻。人の素性を隠す仮面には二つの種類があると僕は思う。醜いものを隠すためと、もう一つは美しすぎるものを隠すため。」
壁際に纏められた重い緞帳の陰に龍麻を隠すように押し付け、壬生は早口で囁いた。
「これを預かっていて。」
何かを握らされて顔を上げようとすると、手袋を嵌めた手が龍麻の目を塞いだ。
「でも君は、決して仮面を外してはいけないよ。闇の中で晒されるべきなのは、醜く歪んだ顔だから。」
「壬生、何を―――――。」
「―――――仮面舞踏会で、よかった。」
瞼に温かなものが封印のように押し付けられ、フワリと離れていった。
龍麻の手に、仮面だけを残して。
「壬生!」
緞帳を掻き分け抜け出すと、一度に視認しきれないほどの色彩に、くらりと視界が揺れた。
道化や王様、別の誰かに変装した人、人でないものに身をやつした人。
滑るように人の波をすり抜けてゆく黒い後ろ姿が、様々な色の渦に巻き込まれて見えなくなる。
どこかの誰かが背中に流している蝶の薄羽が、フワリと光って視界を塞いだ。
「くそっ!」
邪魔な仮面を剥ぎ取って投げ捨てようとしたその時、何の前触れも無く照明が消え、周囲が暗転した。
小さな悲鳴や息を呑む音が辺りを満たした。
「壬生ッ―――――!!」
音も無く激しくぶつかり合う殺気と殺気が身体を刺す。
気配だけで人を避けながら、龍麻はなりふり構わず声をあげた。
一分もない空白が永遠にも感じられた時、何か大きな布で全身を包み込まれた。
それは振り払ってきたはずの緞帳ではなくて―――――黒いマント。
手に握っていた仮面がヒョイと取り上げられた。
「お待たせ。任務完了。」
「壬生!」
頭の上から降ってきたのは、いつもの壬生の声だった。
会場の照明が復活し、色彩が戻った。
一時動きが止まった広間に、突然の停電に対する謝罪のアナウンスが流れた。
裏の事情を知るものにはそれが果たして本物の運営スタッフの声なのかどうかは疑問に感じる所だったが、何も知らない招待客たちの安堵の溜息がさざ波のように空気を揺らした。
ほどなくして笑い声と音楽が再び蘇り、広間は何事もなかったかのような喧騒に溢れた。
一隅でわあっと歓声が上がって振り向くと、仮面を取って悠然と微笑む壮年の男性がいた。
男性は一礼すると再び顔を仮面の陰に隠し、人波に消えていった。
「あれは拳武のメンバーが変装しているダミーだよ。本物のターゲットは明日の朝――――警察が礼状を取るまで拳武館の施設でお休みいただく。」
先ほどの再現のようなその光景を思わずまじまじと見つめていた龍麻に、壬生が言った。
彼は再び仮面をつけ、帽子を被り直していた。
「・・・・・怪我は?」
「大丈夫だよ、ありがとう。」
礼を言う壬生に少し微笑んだ龍麻の肩が、フ、と落ちた。
「やっぱり駄目だ、俺。」
「龍麻?」
物言いたげな壬生を制するように、龍麻は無言で首を振った。
「俺がいきなりでしゃばったら、手伝いじゃなくて乱入になるところだった。」
宴はたけなわで、高揚した笑い声が絶えず空気を震わせていた。
そろそろ酒を過ごした者も出始めたようで、誰かの肩に寄りかかって密かに退場する者がいた。
不思議な事に、同時に潰れた人数が妙に多く、しかも彼らは揃って似たような服装をしていた。
だが、退場はとても素早く行われたので、気付く者はいない。
周到に罠を張り、息を潜め、闇と同化して獲物の隙を窺い、一気に狩る。
大声で指示を飛ばし、得物を派手に振り回し、《力》の光を撒き散らすいつもの闘いとは全く異なるものが、そこにあった。
「急に真っ暗になっただけですっかり動揺して、忘れてた。お前なら何処にいたって分かるはずだったのにな。」
龍麻は壬生の胴に両手を回し、胸に顔を押し付けた。
「ほら、お前の氣。・・・・・俺の、もう半分。」
仮面も
そして素顔すら必要ないのに。
「修行しなきゃ。」
壬生の両手が、そっと龍麻の肩を包み込んだ。
「言っただろう?その気持ちだけで充分なんだって。」
二人は目を見合わせ、そして微笑み合った。
顔の半分は仮面で覆われていたけれど、近づけば互いの瞳がよく見えることに、その時気付いた。
「―――――あ!」
突然龍麻がピクリと目を見張ると、身を引き剥がすように壬生から飛び離れた。
「龍麻、どうしたの?」
「だって逃げないと!まずいんじゃないのか?」
「僕達の撤退は一番最後。いっぺんにお客がいなくなった方が怪しまれるよ。」
「じゃ、じゃあどうするんだ?」
「決まってるだろう、せっかくだから楽しむのさ。」
壬生は余裕の口調でそう言うと龍麻の胴に手を回し、明るいフロアに導いた。
「それにまだ、君に言いたかった台詞があるんだ。」
「え?」
目を見張った龍麻の目の前で、壬生は少し後へ下がると足をひき、小腰をかがめ、そして典雅な仕草で手を差し出した。
「――――――踊っていただけますか?」
賜り物部屋へ