【五、 虚夢】



 いつものように、途中にある公園を抜けて帰ろうとした時のこと。

 痛む身体を引き摺り、歩いていると…ふと、誰かの泣き声が聴こえた。



 ――――気持ちわりィやつ、こっちくんなッ!

 ――――こいつ、そこにない物が見えるんだってよ!ヘンな奴〜ッ!!

 ――――や〜い、ウソつきっ!!



 …ウソじゃ、ないもん…。

 どうして…どうして、みんな信じてくれないの?

 あたし…ヘンな奴なんかじゃ、ないのに…。



 何故、声をかけようと思ったのか――自分でも、判らない。

『――君…どうしたの…?』

 近寄ると、砂場に座り込んだ小学生くらいの女の子は涙と砂で汚れた顔を上げた。

『…みんな、行っちゃった。あたし…ウソなんか、ついてないのに…』

 他の子供たちが駆け去った方向を見る彼女の目から、次々と大粒の涙が溢れ出す。

『……いじめられたの?』

 そう訊くと、女の子は泣きじゃくりながら頷いた。

『あたしに見える“ひと”たちが、他のみんなには見えないの…みんな、あたしのことウソつきだ、って…』

 ああ…そうだ、この子も……。

『一人ぼっちなんだね…。ねえ、君の名前は?』

 真っ直ぐ自分を見つめ返した瞳に――ズキンッ、と頭の芯が痛んだ。

『――――まいこ』

 以前にもどこかで、この少女に遭っている…そんな気がした。







 ――都立・東白髭公園。隅田川沿いに長く伸びた敷地内には、芝生や遊具広場はもちろんテニスコートや野球場まであるという、かなり大きな公園である。

「やっと着いたねェッ。ここが、白髭公園よ〜」

 高見沢の先導でようやく目的地に着いた湧たち。…が、ここに来るまでに随分寄り道があった気がしないでもない。

「なんだか、振り回されっぱなし…緊張感も何も、あったもんじゃないよ」

「そ、そうか…?俺はここに入った時から、どうも寒気がするんだが…」

 ぼやくように言った小蒔に対して、醍醐の方は何やら顔色が悪かった。

「ふふッ、大丈夫だってえ。怖い事なんかないも〜ん。ねッ、石動くん?」

「?あァ、うん。俺は別に…?」

 見た目は普通の公園と『怖い事』の繋がりが、湧には解らない。

 解らないが、湧がとにかく頷くと高見沢は嬉しそうに笑った。

「わあ、やっぱり男らしい。わたしのお友達にも、後で紹介するから〜」

 そう言って先頭を歩く彼女は、ふと立ち止まると笑顔で話し掛けた。

「こんにちは〜ッ。ふふッ、元気よ〜ッ。あ〜ッ、久しぶりね〜ッ」

 ――虚空に向かって。

 目を凝らしても辺りを見回しても、高見沢の周囲にいるのは自分たちだけだ。

 だというのに、彼女はあらぬ方向に視線を向け、にこやかに挨拶を交わしている。

「……ええっと、誰に挨拶を…?」

 奇矯な行動に戸惑って京一が訊くと、高見沢は笑顔のままで、言った。

「ふふッ、この辺りを漂ってる幽霊さんたちッ」

「あァ、そうなん……なにィッ!?」

 それはあまりに平然と、当たり前のように言われたので一瞬聞き流しかけたのだが。

 京一がひっくり返った声をあげ、醍醐は全身音を立てそうな勢いで固まった。

 湧や小蒔も口を開け、目を丸くしている。

「ほらッ、あそこにもおばあさんと女の子が…」

 驚いた様子の湧たちに気づかないのか、高見沢は話し続けた。



「――この辺りはね…東京大空襲のときに爆撃されて、たくさんの人が犠牲になったのォ…。今もね、戦争が終わった事も判らないまま苦しみ、彷徨い続けてる人たちがいっぱいいるの…」

 哀しげな表情をちらりと覘かせると、すぐに高見沢はほんわりとした柔らかい笑みを周囲に投げかけた。

「だからね、時々ここへ来て、みんなとお話するの。いつも…楽しいお話だけッ」

 その笑顔や、幽霊を『ひと』として扱う口調はとても自然で。

 本当に、哀しい想いをした隣人を慰め、力づけるのが彼女にとって当たり前の行為なのだと悟り、湧も思わず微笑んでいた。

 と、湧の笑顔を誤解してか高見沢が不意に口をつぐんだ。

「あッ…ねェ、わたしって…ヘンじゃないよね?」

 僅かに怯えるような眼差しでおずおずと話し掛けてきた彼女に、湧は微笑んだまま首を横に振る。

「いや?ちょっと驚いたけど…不思議だな。高見沢が言うと、隣りの爺ちゃん婆ちゃんを励ましに来てるみたいで、ちっとも変じゃないや」

 高見沢は安心したように、ぱあッと顔を綻ばせた。

「よかったあ〜。石動くんは、わたしの事を解ってくれる人〜。嬉し〜なッ」

 よほど嬉しかったのか、湧の手を取って飛び跳ねる高見沢。引っ張られた湧がよろける。

「おッ、おいッ」

 それまでどんな反応をしていいのか判らず呆然としていた小蒔が、二人の様子を見て漸く我に返った。

「…高見沢サンが人とは違う《もの》を持ってるって、院長先生が言ってたけど…このコトだったんだね」

 納得、といった表情で頷く。

「とッ…ともかく、君が優しいのはよく判った。ぼッ、僕たちは先を急ごうじゃないか」

 そう上擦った声をあげたのは醍醐である。ついでに、歩き出した足と手が左右同時に出ている。

「今度は醍醐クンがヘンだよ…大丈夫?」

「もッ、もちろんだッ。……湧、ちょっと来い」

「あッ、醍醐クン…」

 心配そうな小蒔を尻目に、醍醐は少し離れた街灯の下まで湧を引っ張って行く。

 訳が判らない小蒔と高見沢の後ろでは、京一がニヤニヤしながらそっぽを向いていた。



 醍醐が重い口を開くまでには、数秒かかった。

「……湧。お前を信用して、お前にだけは話しておく。俺は、その…」

 グッと顔を近づけ、余人に聞かれるのを警戒するように声を潜める。

「…幽霊だとか、お化けだとかいうのは、どうも…苦手というか。つッ、つまり、余り得意な分野ではないという事だ。肉体のない相手には、何をやっても通じないからな…」

 強力無双で鳴らした猛者としては、こういう弱点を晒す事に多大な抵抗があるのだろう。

 どもりながらも懸命に婉曲的表現を使う彼を見れば、次の台詞もだいたい予想がつく。

「…………すまんが、その…皆には黙っていてくれないか?」

「ま、いいけどな。信用して打ち明けられた話を言いふらす趣味はないし」

 湧の返事に、醍醐は満面の笑顔を見せた。

「そうかッ!俺は本当にいい友を持ったよ。すまんな、湧ッ」

 安堵のあまりかバンバンと両肩を叩く巨漢を見ながら、湧はぼんやり考える。

(俺は言わないけどさ…京一は多分知ってるよな。美里は気づいても言わないだろうし、桜井はニブいから大丈夫としても…問題は部長だよなァ…)

 他のクラスメイトは意外すぎて気づかないようだが、近くで行動を共にしていると醍醐の態度は結構あからさまである――霊研や旧校舎内の様子で湧が察する程度には。

 普段あれほどの洞察力を発揮する杏子が、醍醐の弱点を知らないとも思えないが…。

(…派手に記事書かれでもしたら可哀想だし、そのうち釘刺しておくか)

 しかし、そんな二人の横から声がかかった。

「――そっか〜。醍醐くんって、幽霊さんが怖いのね〜ッ」

「うわッ!!…き、聞いてたのか?」

 いつの間にか近づいていた高見沢は、跳び上がった醍醐を安心させるように微笑んだ。

「うふふッ、大丈夫。あたしも誰にもいわな〜いッ。あッ、そ〜だッ」

 彼女は胸ポケットから小さな瓶を取り出すと、醍醐に手渡した。

「これねェ、あたしが作ったんだァ。すっごく、効くんだから」

「あッ、ありがとう…」

 瓶のラベルには、手書きの丸っこい文字で《舞子特製ドリンク》とあった。

 ニコニコと期待するように見つめられ、醍醐は恐る恐る蓋を開けた。

「(……飲んでも大丈夫だろうか?)」

「(仮にも看護婦さんだし、毒じゃないだろ。せっかくの心遣い…お前、無駄に出来るか?)」

 醍醐は暫し瓶を睨みつけると、口を付けて一気に飲み干した。

「…もしかしたら、彼女みたいに幽霊が見えるようになるかもな」

 囁かれた湧の言葉にむせ、派手に咳き込む。

「ごほッ、ごほッ…お前なァッ!!」

 狙ったかのような台詞に怒鳴りつけようとした時、痺れを切らした京一が声をかけた。

「おいおい、お前ら。いつまでも何やってんだよ?とにかく、先へ進もうぜ」







『――ねェ、おにいちゃんは笑わないの?まいこのこと、ヘンな奴だってゆわない?』

『言わないよ。…ボクも、ずっと一人だったから。君の気持ち、よく解る』

 彼女は急に押し黙って、こちらを見つめた。

 何故だか、その瞳は実際よりもずっと…大人びて見えた。

『…おにいちゃんは、だァれ?』

『ボク…?ボクの名前は――――』







 ――都営・白髭東アパート。白髭公園に寄り添うように建てられた13階建てのビル群。

 20棟近くあるだろうそれが延々と連なって続いていく威容は、まるで巨大な壁である。

 その壁の根元を、とある高校生の一団が歩いていた。

 …それも、かなりの早足で。

「――おい、待てよ醍醐ッ。まったく…お前の幽霊嫌いも筋金入りだな」

「ふッ、ふんッ。よけーなお世話だッ」

 呆れたような京一の揶揄に図星を突かれ、醍醐は憮然とした顔になる。

「ほんとに…お前、こんなに足速かったっけか?」

 白髭公園からずっと醍醐を先頭に、殆ど競歩のような速度で歩いてきたのである。

 あのドリンクがそんなに効いたのだろうか?と少し馬鹿な事を湧は考えた。

「デカイ図体して、肝っ玉のちーせェ奴だぜ。…どうよ、湧。大将のコレは、新聞部員としちゃスクープじゃねェ?」

 醍醐が言い返せないのを良い事に、からかいの声を投げる京一。

 二人を見比べると、湧は少し意地の悪い笑みで応えた。

「書いたらウケるんだろうけどなー、内緒にするって約束しちまったし。…それより俺としちゃ、京一おまえの方が気になるんだけどな?」

「…は?俺?」

 目を瞬いた京一に、ずいと詰め寄る。

「お前の師匠の事とか、岩山先生の事とか…。特にッ!お前と岩山先生との間にナニがあったのか、是非とも具体的に聞かせちゃあもらえませんかね、京一クン?」

「う…ッ!?」

 満面の(邪悪な)笑顔で迫る湧に、京一は引き攣った声を洩らした。

 視線を向ければ、さっきのお返しとばかりに醍醐は知らぬ顔を決め込んでいる。

 思わぬ所で藪をつついた京一の危機を救ったのは…。

「ちょっとォ…もォ、なんで走ってくのさッ。はぐれたらどーすんだよッ」

「わ〜いッ、やっと追いついた〜」

 いきなり速度を上げた男たちに引き離されていた、二人の少女たちだった。





「――フフフッ…待ってたわよ。あんまり遅いから、もう帰ろうかと思ってたけど」

 案内の済んだ高見沢を帰す帰さないで言い合いになった矢先、ビルの陰からその少女は現れた。

 少女、と言っても成熟した身体や大人びた雰囲気は、セーラー服を着ていなければ大学生で通用しそうなほどである。

 シャギーの長髪をかき上げ、濃いルージュのひかれた唇を開いて、彼女は名乗った。

「あたしは、墨田覚羅かぐら高3年の藤咲亜里沙ふじさき ありさ。あんたたちは、そっちから…桜井小蒔、醍醐雄矢、蓬莱寺京一に…石動湧。どう、当たってるでしょう?」

「醍醐や京一はともかく、俺を知ってるって事は…犯人か、その仲間と考えていい訳だな?」

 新宿では名を知られた二人と違って、湧の知名度は低い。

 醍醐と決闘して破った事は仲間以外には秘密にしてあるため、真神学園から出れば湧の名前を知る者は、ほぼ皆無と言っていいだろう。

 にも関わらず、自分を知っているというならば…つまり、そういう事である。

 鋭く切り返した湧に、僅かに目を瞠ると藤咲は口端をつり上げた。

「…ふふん、潔い男は好きよ。人間、諦めが肝心ともいうしね」

 余裕たっぷりに挑発するが、まるで表情を動かさない湧に苛立ったのか吐き捨てるように言った。

「それにしても…あんたたち、みんなイカレてるわ。あんな何の面白味もなさそうなお嬢サマを助けるために、わざわざこんな所までくるんだもんね」

「なんだとッ!!葵はボクたちの大事な友達なんだ。葵を悪くいう奴は許さないッ!!」

 今にも弓を引きかねない剣幕で怒鳴る小蒔を、藤咲は小馬鹿にするような目で見た。

「ト・モ・ダ・チ?くくくッ…あーッはははッ!」

 顔を仰け反らせて一頻り哄笑すると、聞こえよがしに呟く。

「くくッ…麗司も、とんだ読み違いをしたもんね。こんな青春バカに、あたしたちが負ける筈ないのに」

「その麗司って野郎が主犯か。今までの事件、全部そいつの仕業だな」

「なんで、こんなコトを…」

 藤咲は急に眦をつり上げると、言い募る醍醐や小蒔を睨みつけた。

「ガタガタうるさいんだよッ。あんたたちみたいな甘ちゃんに、あたしや麗司の想いは解らない。――あの女を助けたいんだろう?…だったら黙ってついて来な」

 言い捨てて、さっさと歩き出す。

 湧たちは不意討ちを警戒して、藤咲の数m後ろから歩くことにした。



「あいつらが、葵を苦しめてる奴らなんだ…。ボク、絶対に許さないッ!!」

 藤咲の背中に怒りの篭った視線をぶつける小蒔の袖を、高見沢が小さく引っ張った。

「…あのォ〜。あの人を、あんまり嫌いにならないであげてね?」

「なッ、なに言ってんのさッ!!あいつ、悪い奴なんだよ!?麗司とかいう奴とグルになって、葵を…殺そうとしてるんだ」

 いまだ昏睡状態の親友を思い出し、小蒔は涙が滲むのを唇を噛んで堪えた。

 しかし、高見沢は藤咲に目を向けて呟く。

「でもォ…あの人を救けてって、みんなが言ってるのォ…」

「みんなって…まさか、霊じゃねェだろうな?」

 胡乱げに訊いた京一の言葉を、あっさりと肯定する高見沢。

「そうよォ。特に、あの人の後ろにいた小学生くらいの男の子。よく判らないけどォ、なんだか凄く悲しいの…。悲しい氣が満ちてるの…」

 自分まで本当に悲しくなったのか、彼女はクスンと鼻をすすり上げた。

「…まァ、何にせよ案内してくれるってんだ。手間が省けて助かったぜ」

 京一は湿っぽい空気を振り払うように軽い声を出すと、少し離れて後ろを歩く湧の傍に来た。

「どうしたよ?さっきから黙ってっけど…お前、高見沢の言うこと真に受けてんのか?」

「……疑う理由は、ないけどな」

 そう答えた湧の表情は、しかし全く興味がなさそうに見える。

「なんだよ、まさかお前まで『あの人を嫌いにならないで』とか言いだすんじゃねェだろうな?」

 茶化そうとした京一の笑顔が、湧の呟きを聞いて引き攣ったものに変わる。

「別に、好きも嫌いもないだろ?俺たちは美里を助ける、その邪魔をするなら…排除するまでだ」

 1+1は2だろ?とでも言うように、まるで当たり前のような口調で湧は言った。

「……排除…ってな。まァ、どのみち闘う事になるんだろうけどよ…」

 ――ナニカガ、オカシイ。

 妙に喉が渇くのを意識しながら、京一は辛うじて言葉を紡いだ。

「とりあえず奴らに勝ったとして…だ。それからどうする?また記憶でも消すってのか?」

 な〜んてなッ、刹那アイツじゃあるまいし…と続けようとしたのだが。

「そう都合よく出て来ればな。――幸い、今回は邪魔も入らないだろうし」

 今度こそ、京一の表情は凍りついた。

 ――――コイツハ、ダレダ?

 思わず肩を掴み、正面から顔を見つめる。

 覗きこんだ湧の瞳は――いつもの彼と、なんら変わりなかった。



 今まで、訊こうともしなかった…京一を含めた全員が、あの行動を“刹那”の意志だと思っていたから。

 だが、何故思いつかなかったのか…あるいは考えたくなかったのか。

 仲間だと信じてきた目の前の少年が、本当は他人の痛みを歯牙にもかけない心の持ち主だ、などとは。



「――こら、そこッ!なに二人で見つめ合ってんのさッ!!」

 苛立った小蒔の声で、京一は我に返った。

「だ、そうだ。…誤解受けるマネすんじゃねェ、この猿ッ!!」

「デ…ッ!?」

 ガンッ、と向こう脛を蹴られ、京一はたまらず地面に蹲った。

「いやァ、悪い悪い。あのアホがいきなりトチ狂っちゃってさ〜」

 薄情にもさっさと先へ行く湧の顔は、きっと普段通りに笑っているのだろう。

 ――――もしかすると、それさえも見せ掛けに過ぎないのだろうか?

(……なんかの、冗談だろ?)

 僅かな願望と共に見つめた湧の背中が、今は遠くに感じられた。







『――ボクの名前は…嵯峨野。嵯峨野麗司さがや れいじだよ』

『…そう……』

 女の子は何故か戸惑ったような目をすると、唐突に話を変えた。

『ねェ、おにいちゃんは好きな人、いる?』

 こんな小さい女の子でも、こういう話題を好むんだろうか?

 内心首を傾げつつも、首を横に振り…、

『ううん…、――――いるよ』

 いないよ、と言おうとしたはずなのに…違う事を口走っていた。

 彼女は好奇心で瞳を輝かせた。

『いるのォ?ね、ね、それってどんな人?』

 どんな、と言われても…。

『…綺麗な人だよ。見た目もだけど、心が…とても、優しい人なんだ』

 脳裏に少女の姿が浮かんだ。長く艶やかな黒髪、白い肌に映える薄桃の唇…。

 ――どうして“知らない女の人”の顔が、こんなに鮮明に浮かぶんだろう?

『優しくて、きっと傷つきやすい人だから…こんな苦しい世界ところにいちゃいけない人なんだ。ボクが、護ってあげなくちゃ…』

 ――――彼女を汚す、全てのものから…護ってあげたい。

 熱に浮かされるように喋り続けて、ふと気がつくと女の子はどこかへ消えていた…。







【六、 弱者】



 ――乾いた風が吹いていた。うつ伏せた顔の下には、ざらついた砂の感触…口の中にも砂が入っていて、湧は不快さに顔を顰めた。

 やけに頭が痛む…二日酔いにでもなると、こんな感じだろうか?

「…うッ。う〜ん、頭が…いてェ…」

「うゥ…みんな、いるのか…?」

 京一と醍醐が呻いた。…どうやら、自分と似たり寄ったりの状態らしい。

「醍醐クン…京一…。湧クンは…いる?」

「は〜い、こっちにいますよォ〜」

 …返事をしようと口を開く前に高見沢が応えた。

 よっこらせ、と身体を起こして目を開ける。

「…………なんだこりゃ?」

 そこは、見渡す限り一面の砂漠だった。



 藤咲の案内で白髭アパートの使われていない一室に入ったのは、憶えている。

 入って少し経った後、妙な匂いに気づいて部屋を出ようとしたらドアに鍵がかかっていた。

 恐らくは即効性の催眠ガスか何かだったのだろう、慌ててドアを破ろうとした時には身体に力が入らず…目が覚めてみるとこの状況、という訳だ。

 ちなみに京一は木刀を、小蒔は弓矢を持参してきた筈だったが、起きた時には二人とも武器を持っていなかった。



「…まんまと奴らの罠に飛び込んだってわけか……さいてー」

 自分たちの間抜けさ加減を思い出して、湧が溜め息をついた…眠らされている間に命を奪われなかったのは僥倖という他ない。

 もっとも敵にしてみれば、ここからが本番なのだろうが。

「……あの女は、確か俺たちを『麗司の国』へ招待すると言っていたが…」

 醍醐の呟きに応えて、聞き覚えのある妖艶な女の声が響く。

「その通りよ。うふふッ…ようこそ、あたしたちの国――――夢の世界へ」

 振り返ると、いつの間に現れたのか小高い岩場の上に藤咲が立っていた。

「夢の世界?そんな…だって、ちゃんとみんなと話も出来るし、意識だってハッキリしてるじゃないかッ」

 当然ともいえる小蒔の疑問に、芝居がかった口調で答える藤咲。

「夢とは、現世うつしよの出来事にも似た儚ばまほろばのコト…フフフフッ。これで、あんたたちはもうおしまい。だって、これからずっとここにいるんだから…」

 宣告する彼女の傍らに、小柄で顔色の悪い少年が忽然と姿を現した。

「ボ、ボクはただ…誤解を…解きたかっただけなんだ」

 陰気な表情をした少年――詰め襟についた校章からして藤咲と同じ学校の生徒だろう――は、ボソボソと話し始めた。

「ボクは覚羅高校の三年、嵯峨野麗司…。ボクは、葵を苦しめてなんかいない…ボクはボクなりに、葵を見守っているんだ…」

「なにが『葵』だッ、ふざけんじゃねェッ!!美里はなァ、病院で死にかかってんだぞッ!!」

 不快感も露わに怒鳴りつけた京一を、嵯峨野は訳が解らないという表情で眺めた。

「葵が…死ぬ?くッ…くくくくくッ。葵は死んだりしないよ。ボクと一緒に…このボクの王国で、一緒に暮らすんだから。だって、ほら…」

 すっと嵯峨野が手を差し上げると、彼らの背後にぼんやりした影が現れた。

 やがて、はっきりと形を取ったそれは……巨大な十字架。

「――あ…葵ィーッ!!」

 磔にされた親友の姿に絶叫する小蒔。

 何も考えず駆け出そうとする彼女を醍醐が押しとどめた。

 そんな様子を気にも留めず、嵯峨野は語りだした…美里との出会いを。ずっと苛められ続けてきた自分に、彼女がどれほど優しくしてくれたかを。

「――――あの日から、ボクは生まれ変わったんだ。あの日からボクは、本当に生き始めたんだ。葵がいなければ…ボクはもう、生きられない…」



 小蒔は正直、戸惑っていた。彼女の想像していた『親友を害する悪人』と、目の前にいる弱々しい少年とのギャップに。

 確かに、彼には美里への悪意はないのだ…その手段やりかたは許せないとしても。

「……だからって、そんなの…。だいたい、葵の気持ちはどうなるんだよッ?」

 漸う言い返した小蒔に、嵯峨野は自分の正当性を疑わない口調で応える。

「葵を護るのは君たちじゃない、これからはこのボクなんだ。その事を、葵にも解ってもらわないとね」

 美里を護ると言いながら、実際は自分こそが彼女に縋っている事に、彼は気づいていないのだろうか?

「そんなの…間違ってるよ。キミは…葵の優しい心を、踏みにじってる…」

 彼の境遇に対する同情と、それでも『何かが間違っている』という想いから、小蒔は搾り出すように言葉を紡いだ。

 しかし、力無い小蒔の反論を藤咲が笑い飛ばす。

「あーはははッ!こいつは傑作だねッ。ぬるま湯に浸かった嬢ちゃんがキレイ事を言うんじゃないよッ。それじゃあ、踏みにじられた麗司の心はどうなるんだい?」

 まるでこちらが憎い仇でもあるかのように睨みつけると、藤咲は怒りを込めて一気に捲くし立てる。

「イジメなんてヤる方もヤられた方も悪いなんていう奴もいるけど、それはヤられた事のない奴が…力の強い奴が言うセリフさ。ヤった奴のどこかに、一生消えない傷が残るかい?ヤられた方は、一生消えないこころの傷を…十字架を背負って、生きていかなくちゃならないんだよッ!」

 理屈で言えば、それを言われるべきはイジメの犯人であって自分たちではない――ましてや、美里が捕らえられなければならない理由はどこにもない筈だ。

 けれども、小蒔には言い返すことが出来なかった。いじめられた経験のない彼女にとって、嵯峨野のような境遇は今まで他人事でしかなく…彼らの気持ちを推測でしか考えられない自分に、罪悪感さえ感じていたのだから。

 と、激情のままに言い放った藤咲の表情が不意に歪む。

「そうじゃなきゃ、弘司だって…ッ!!」

 この場にいない人物の名を、彼女は呼んだ――涙を堪えるように。

 だが、それを訝しく思うよりも先に、嵯峨野が問答を遮った。

「いいんだよ…別に、なんだって…葵さえ、ボクの傍にいてくれれば」

 もはや美里以外の全てに興味を無くした様子で、最後通牒を突きつける。

「どうせ君たちは、この世界ではボクに敵わないんだ。どうだい?葵をボクに譲ってくれるなら、君たちは無事に帰してあげるけど?」

 欲しい玩具をねだるような口調で言った嵯峨野に、笑いながら応えたのは…湧だった。

「…それで?美里は婆ちゃんになるまでお前に付き合って、病院でずうっと寝たきり生活を送ってメデタシメデタシ…か?――ざけんな、クソガキ」

 貼り付けた笑顔が消え、鋭い眼光が嵯峨野を射抜く。

「美里に付き合ってほしけりゃ彼女が起きてる時に文通でも申し込んでみろ。だいたい美里はモノじゃねェんだ。譲ってください、はいそうですかって渡せるわけねェだろが、ボケナス」

 性別不明の美貌から飛び出すドスの効いた悪口雑言に、嵯峨野たちよりも仲間の方が目を丸くした。

「湧クン、怒ると口悪いね…」

「お前なァッ、この状況であいつら挑発してどうすんだよッ」

「まったく…もう少し他に、言い方というものがないのか?」

 そして、当の嵯峨野は――昏い、昏い瞳で湧を睨んでいた。

「…そ、その自信に満ちた目が嫌なんだ。力ずくで、いつもボクの欲しいものを奪っていく…。でも、ボクはもう譲ったりしないッ!ボクは…生まれ変わったんだッ!!」

 彼の叫びに応えるように、砂漠のあちこちで風が捲いた。

 吹き上がった砂は凝って歪な子供の姿になり、その影から大鎌を持って黒い襤褸を着た死神が現れる。空気の揺らぎは青黒い光を放つ鬼火と化した。

 湧たちを囲む位置に出現した多数の魔物は一様に、深い憎しみの視線をこちらに向けている。

「ねェ、亜里沙…あいつら、ヤっちゃっていいよね?いつもみたいに、ボクをいじめた他の奴らのように…」

 母親に甘える子供のような声で問う嵯峨野に、藤咲は微笑みを返した。

「フフフッ…もちろんよ、麗司。所詮、力のない者は力のある者に屈する運命なの。見返してやりなさいッ、あなたを虫ケラのように扱った薄汚い人間たちをッ!!」

 憎悪に滾る眼差しが、一瞬泣き顔にも似た微笑に変わる。

「…もう、誰にも遠慮なんかしなくていいのよ…」

 その呟きを最後まで聞かずに、嵯峨野は大きく両腕を広げた。

「ははははッ…精神が強力なダメージを受ければ、肉体もまたダメージを受ける。君たちも、ボクが受けた痛みを知ればいいんだッ。さあみんな、ゲームを始めるよ…」

 主の合図に従い、夢の魔物たちは一斉に牙を剥いた――。







『――ぐすッ…ひっく…。…おにい、ちゃん…』

 学校帰りに再び遭った女の子は、また泣いていた。

『どうしたの…また、いじめられた?』

 彼女は首を横に振った。

『ちがうのォ…。いじめっ子、死んじゃった…』

 予想しなかった返事に戸惑う。

『どうして…それで君が泣くの?もう、いじめられなくなったんじゃないの?』

 そう訊ねると、彼女は泣き腫らした目を上げて、ボクの手を引っ張った。

『こっちに来て…おにいちゃん』

 引かれるままについて行くと、知らない家の前に来た。――喪中らしく、塀に白黒の垂れ幕がかかっている。

 少女は、その家に入っていった。

『ちょ、ちょっと、勝手に入っちゃ…』

 思わず追いかけた家の中で、焼香に訪れた誰かの話し声が聴こえた。

 ――――受験ノイローゼですって?母親思いの、いい息子さんだったのにねェ…。

 ――――母一人子一人だったのに、これからどうするのかしら…。

 …なんだか、厭な気分だった。

 早くここを出たくて、あの少女を捜す――と、喪服を着た女の人に呼び止められた。

『あの子のお友達?こちらへどうぞ…』

 通されたのは、仏間だった。…焼香の客と間違えられたらしい。

 今さら違うとも言えず、仏前に進んで写真を見る――見覚えのある顔だった。

 知っているはずだ、それは――――ボクをいじめた奴らの一人だったから。



 ボクは、悲鳴をあげて逃げ出した。



“――――ほんとうは、なにがしたかったの?”







「――あうッ!」

 背後から死神に斬りつけられ、小蒔が呻いた。

「大丈夫か、桜井ッ!?」

「う…うん、平気…」

 苦痛を堪える小蒔に、高見沢が駆け寄った。

「痛いの痛いの、とんでけェ〜ッ」

 気の抜けるような掛け声だが、癒しの《力》でみるみる傷が塞がっていく。

「桜井と高見沢は俺たちの中央に来いッ。――っと、京一は…」

 木刀が無かった、と言いかけた湧の目前で、京一が死神に突っ込む。

「剣掌…旋ッ!!」

 吹き荒れた暴風が魔物を蹴散らす。…いつの間にか、京一は愛用の木刀を握っていた。

「京一…その木刀、どこから…?」

「へッ?あァ、そういや……夢だからじゃねェの?」

 つまりは何も考えずにやったら出来てしまったらしい。

「さすが…本能で動く男」

 呆れ半分で呟く湧。と、小蒔が気合の声をあげた。

「よォし、ボクもッ!」

 目を閉じ、弓道の試合を想像する――呼吸を整え、精神を集中し…再び目を開く。

「できたァッ!!」

 使い慣れた弓と矢の感触…だけではなく、服装も弓道部のそれに変化していた。

「なんで服まで変わってんだよ…?」

「桜井は部活に熱心だからな。お前も見習え、京一ッ!」

 醍醐は言いつつ発剄で鬼火を吹き飛ばした。

 これで戦力的には、ほぼいつも通り…だが。

「…決定打が無い…な」

 唐栖の時と同じ状況――雑魚一体一体は自分たちより弱くとも、数で押してくるため親玉に攻撃が届かない。

 その上この世界全てが嵯峨野の夢なら、恐らく魔物の数も無尽蔵だろう。

「持久戦が無理なら…一気に懐まで飛び込むしかないか」

「湧?何を…」

 醍醐が湧の呟きを聞きとがめる。しかし、彼は無視して精神統一に入った。

 湧が知る限り、《刹那》に変わったのは過去4回――いずれも変わる途中の記憶プロセスが曖昧なため、未だに自力での制御は出来ないでいる。

 だが、逆に言えば“変わった後の記憶”は鮮明に残っているのだ。

(…夢の中が“何でもあり”なら…出来るッ!!)

 強く念じた瞬間、湧の姿は掻き消えた。







 ――――ボクは必死で逃げていた。

 何故あの少女まいこがボクをあの家に連れて行ったのか、何故いじめっ子が死んでいたのか判らないまま、ただどうしようもないほどの恐怖に駆られ逃げていた。

 と、いきなり何かに躓いてボクは転んだ。

『…よォ、嵯峨野ちゃん。元気してたァ?』

 顔を上げると、そこには見知った――いつもボクをいじめている連中が立っていた。

『いい所で会ったなァ、嵯峨野。俺たち金なくってさァ、カンパしてくんない?』

 そう言って胸倉を掴み上げたのは、さっきの写真と同じ顔…ボクは混乱する思考の中、抵抗の意思を放棄し…、

『――やめてッ!!』

 涼やかな声に目を向けると、そこにいたのは――ここにいるはずのない、あの人だった。



 ――――う・そ・だ――――



『…美里、葵…』

 知らないはずの彼女の名前を、ボクは呟いていた。







 その影は、風よりも迅く疾り抜けた――進路上の敵を紙のように引き裂いて。

 魔物たちを瞬時に塵へと還した人物の姿に、その場にいた全員が目を瞠る。

「……湧…いや、刹那…か?」

 右目を金色に染めた彼は、間違いなく刹那だった…が。

「刹那クン……その恰好…」

 彼が纏っているのは見慣れた学生服ではなく、白い道着と袴…腕には革手袋の代わりに古風な意匠の手甲が嵌められている。

「ふ…ん、なるほどな。まだ“この姿”の方が馴染み深いわけか」

 自分の装束を見下ろして呟く刹那。――と、彼の周囲に新たな魔物たちが生み出される。

「そ、それくらいの数を斃したからって、いい気になるなよッ…ここはボクの世界なんだ、お前たちはもう、助からないんだよッ」

 上擦った声で言い募る嵯峨野に、刹那の冷ややかな一瞥が飛んだ。

「精神が強力なダメージを受ければ肉体もまた、ダメージを受ける…だったな。その言葉、お前にそっくり返してやろう」

 無造作に右手を振り上げ…振り下ろす。

「――――《円空破》」

 耳を聾する轟音と共に、刹那を囲んでいた魔物は一匹残らず消滅した。

 のみならず、彼の周囲の砂漠が…いや、空間自体が抉れて黒い虚無と化していた。

 湧が修得した《発剄》の発展技とはまるで違う、桁外れの威力である。

「…う、あァ…ッ!」「麗司…?どうしたの、麗司ッ!!」

 突然胸を押さえ苦痛の声をあげた嵯峨野に、藤咲が血相を変えて駆け寄る。

「あ…あんた、いったい何したのさッ!?」

「ここが、嵯峨野の夢だと言うなら…この世界そのものを破壊すれば、彼自身もダメージを受けるということだ。――私をここに招き入れたのは、失敗だったな」

 言われた事を理解するにつれ、藤咲の顔が蒼褪める。

 彼女は知っていた…夢で殺された人間たちが、現実世界でどうなったかを。

 そして、この世界は“嵯峨野が見ている夢”でもあるが故に――嵯峨野自身は、ここから決して逃げられない。

「解ったなら、美里を解放する事だ。さもなくば…力ずくで取り戻す」

 聞いている者たちの耳に、それは死刑宣告のように響いた。



「…醍醐タイショーは、小蒔と高見沢を護っててくれ」

 隣の親友に、京一が低く囁いた。

 どういう事だ、と目で問う醍醐に応えず駆け出す。

「――剣掌ッ!!」

 立ち塞がる魔物を蹴散らしつつも、見据えていたのはただ一点。

 厳しい目つきを向けるのは敵ではなく…友人と信じた、少年の背中。

(……アイツは…もしアイツが奴らに容赦しねェつもりなら、俺は…止めなきゃなんねェ)

 それが出来なかったら、自分はかけがえのない何かをなくしてしまう――そんな気がした。







『――やめて下さい…どうして、あなたたちはこんな事が出来るんですか?どうして…?』

 愁眉を顰め懸命に訴えかける彼女に返されたのは、下卑た薄笑いだった。

 奴らは、数人で彼女を取り囲み…パンッ、と乾いた音が鳴った。――奴らの一人が、彼女の頬を平手で叩いたのだ。

 口の中を切ったのか、紅いものが一筋流れる。しかし、彼女は毅然と顔を上げて奴らを見つめた。

『…こんな事をして、楽しいんですか?傷つけられた人の気持ちを、あなたたちは考えないの?あなたたちだって同じ事をされたら痛いし、悲しいでしょう?』

 駄目だよ…奴らにそんな事をいったって、聞くわけがないのに…。



 ――――違う…こんなはずじゃない、こんなはずじゃ…。



『葵…駄目だ、逃げて…』

 呟いた途端、腹をしたたかに殴られた。身体を折ったボクを地面に放り出し、そいつも彼女を取り巻く連中に加わる。

『――ムいちまえ』

『?!…いやあッ!!』

 彼女は数人掛かりで押さえつけられた。激しく抵抗するが、敵うわけもない。

 スカートをたくし上げられ、ストッキングに包まれた太腿が露わになる。

 胸元の布地を引き裂かれて、白い肌が羞恥に紅く染まった。

 ボクは…ボクは、怖くて動けなかった。



 ――――どうして…?ここは…ここは、ボクの世界なのに…。



 ふと、こちらを見た彼女と目が合った。

 それは助けを請うような目……では、なかった。

 陵辱される恐怖と羞恥に顔を歪め、涙を零しながらも…彼女は唇を動かしたのだ。

『に・げ・て』――――と。

 頭の中が、真っ白になった。







 次々に生み出されては襲ってくる魔物たちを、刹那は雑草でも刈るように屠りながら悠然と進み続ける。

 目指すは嵯峨野一人…だが、彼らの間に鞭を携えた藤咲が立ち塞がった。

「やらせないよ…絶対に」

「――どけ」

 彼女は無言で鞭を振るった。風を裂いて飛び来る錘を、刹那は首を傾けるだけで躱す。

 だが、藤咲が手首を返すと鞭の先端は空中で翻り、後ろから延髄を貫こうと――。

「邪魔だ」

 目と鼻の先で囁かれ、彼女は戦慄した。

 瞬きするほどの時間で、至近距離まで近づかれていた…鞭が戻るよりも遥かに迅く。

「…あ…」

 鳩尾に当てられた掌から重い衝撃が放たれ、藤咲は物も言えずにくずおれた。



「…あとはお前だけだ、嵯峨野。もう一度だけ言う…美里を、解放しろ」

「い、嫌だッ。ボクは決めたんだ…葵を護るって!第三幕、第三夜…行けッ、白鷺ッ!!」

 白い光が変化した巨大な怪鳥を、刹那は手刀の一閃で両断した。

「あ…あァ…ッ!?」

「終わりだな…嵯峨野」

 怯えて後退りする嵯峨野に向かって一歩を踏み出す…と、その時。

「おいッ、やめろよッ!そんなことで助かったって、美里が喜ぶわけねェだろがッ!?」

 そう叫んだのは京一だった――彼は途中の魔物数匹と切り結んでいる最中で、こちらには近づけずにいる。

 更に後方にいる醍醐たちは、散発的に襲って来る魔物を迎撃しつつ、事情が呑みこめない顔で様子を見ていた。

 ――――――――ドクンッ

 仲間たちに視線をやった刹那の身体が、僅かに震えた。金色の瞳が不安定に揺らぐ。

 引き剥がすように彼らから顔を背けると、緩慢な動作で嵯峨野に手を伸ばす。

「よせェッ!!――湧ゥーッッ!!!!」

 ――ドクンッ

 京一の叫びが場を貫いた瞬間、刹那の姿はブレて掻き消え…《石動湧》に戻った。

「な…ッ?!」

 呆然と立ち竦んだ湧に、嵯峨野が破れかぶれで《力》を放つ。

「あァあァァァッッ!!永遠の悪夢に溺れるがいいッ、《夢十夜》ァッ!!!!」

 嵯峨野が全力で放ったそれ――彼の受けた苦痛や憎悪などの膨大な《負の思念》――は一瞬にして湧の意識を飲み込み、喰らい尽くした。



(――――何故…?どうして、彼らは……)







『わあァァあァァッッ!!!!』

 背中を向けていた男に、ボクは身体ごとぶつかった。



 ――――ボクはそれを、動けないまま見ていた…。



『葵を…離せよォッ!!』『なんだッ!?コイツ急に…』

 ただ我武者羅にしがみつくボクを、奴らは力ずくで引き剥がそうとした。

 腹を蹴り上げられ、顔面を何度も殴られる。



 ――――彼女を、護りたかっただけなのに。この世界なら、安全だって…。



 殴りつけてくる腕を掴み、指に思いっきり噛み付いた。

『痛ェッ!!離せ、コイツッ…ギャアァァッ!!?』

 離すもんか、絶対に…。ボクは、彼女を“助けに来た”んだから…ッ。



 ――――護れると、思ったのに。どうして…どうして“ボク”は見てるだけなの…?



『――あなたは、何をしたかったの?』

 不意に少女の声が聴こえたのを訝しく思うより早く、反射的に答えが浮かんだ。

(彼女は足手纏いにならないと言った…だったら、一緒に頑張ろうと思った…)

現実むこうは…とても辛いから。葵は優しすぎて、耐えられないと思ったんだ…』

 声のする方に目を向けると、そこには…動けずにこちらを見ていただけの“ボク”がいた。



 いつしか、世界は全ての動きを止めていた――――ただ、“ボクたち”を除いては。

『葵は闘いなんて望んでなかった…君たちがいるから、巻き込まれるんだと思った…』

『彼女は弱いよ、暴力に晒されれば容易く屈する。だけど、それでも傷つく誰かを放って置けないくらいには…心が折れてしまわない程度には、強いんだ』

 《ボク》の呟きにボクが答える…それはとても奇妙な光景なのに、不自然ではなかった。

『…護りたかっただけなんだ。何も傷つけるもののない場所で、一緒にいられたら…って』

 《ボク》が向けた視線の先に、豪奢な部屋の中で眠る美里の姿が浮かんだ――それは多分、嵯峨野ボクから視た彼女の現状――けれど、囚われている事には変わりない。

『彼女は…逃げたりしないから。人の心を傷つけて、自分だけ安全な場所に閉じこもっても幸せにはなれない事を知っているから。…心が、死んでしまうから』

 ――――アア…ダカラカ…。

 唐突に悟った。

 ――――ダカラ、彼ラハ怒ッタンダ…。

 それはとても、簡単なこと。

 ――――ダカラ、彼女ハ哀シイ瞳ヲシテイタンダ…。

 あの時《刹那》が壊そうとしていたのは、唐栖の記憶――彼の“心”。

 ――――心モ命モ同ジ…自分ボクハ彼ヲ、殺ソウトシテイタ…!



『――あなたは、だあれ?』

 現れた少女――《まいこ》はボクらを交互に見て、訊いた。

『あなたの“名前”は…なに?』

 《ボク》が先に答える。

『ボクの名前は…嵯峨野麗司』

 もう、ボクも解っていた…本当の答えを。

『ボクは…いや、“俺”の名前は――――石動湧』



 永い悪夢は、終わりを告げた。







【七、 悔悟】



 気がつくと魔物たちの姿は既になく、嵯峨野が目の前に立っていた…涙を零しながら。

「…やっぱり、ダメなんだ。ボクなんか…生きていても…」

 彼が絶望の呟きを洩らした瞬間、世界が鳴動した。

 地面に岩に空に無数の亀裂が走り、虚無の傷口が世界全てに拡がっていく。

「ダメ…麗司ッ、やめてッ!!」

 起き上がった藤咲の叫びに、嵯峨野は力無くかぶりを振る。

「いいんだよ…もう、ボクは疲れたんだ。生きることにね…」

「ダメよッ、そんなこと言わないで!!生きて…生きて、あんたをいじめた奴らを見返してやるのッ!そのための《力》じゃないッ!!」

 半狂乱になった彼女は周りが見えていないのか、覚束ない足取りで嵯峨野の方へ歩き出す。

「藤咲サン、危ないッ!!」「…えェい、くそッ!」

 地割れに落ちかかった藤咲の身体を、辛うじて掴む京一。

「自信を持ってよ、麗司ッ!!生きるのに疲れたなんて、そんな…あの子みたいなこと、言わないで…ッ」

「藤咲、お前…?」

 落とすまいと抱き寄せた京一の腕の中で、藤咲は声を震わせ…泣いていた。

「!見てッ、嵯峨野クンが…」

「よせッ、嵯峨野ァッ!――湧ッ!?」

 亀裂の中に身を投げた嵯峨野の腕を、湧が掴んでいた。

「ふ…ざけんなッ、てめェッ!!」

 崩れゆく地面に足を踏ん張りながら、怒鳴りつける。

「美里を護りたいんじゃなかったのかよッ!?自分から全部放り出してどうするッ!!お前はまだ生きてる…まだ、何も終わっちゃいないだろうがッ!!」

 嵯峨野は暫し湧の顔を見つめ、何事かを囁く――――そして、腕を打ち払った。

 虚無に呑まれる間際、彼が見せた泣き笑いにも似た表情の意味は…誰にも解らなかった。





(――あァ…まただ…。あたしはまた、あの子を護れなかった……)

 崩壊し続ける世界ユメから出る方法が判らず慌てる京一たちを、藤咲はひどく投げやりな気分で眺めた。

(もし、ここで死んだら…あたしは、あの子に逢えるのかな…?)

 そう思えば、笑みさえ浮かんでくる…それは、とても虚ろな笑みだったけれど。

「…しッ!何か聴こえる。これは…犬の声、か?」

 醍醐の言葉に、全員が黙って耳を澄ませた。

 ――――ワンッ、ワンッ!ワオォォーンッ!!

 激しい鳴動の中、聴こえてくるこの声は確かに…。

「……エル…?エルだわ、あたしの犬…」

 耳に馴染んだ声を聞いて、藤咲の顔に生気が戻る。

「エルッ…エルーッッ!!!!」

 無意識に伸ばした手の方向から――――光が、溢れた。







 目が覚めると、そこは薄汚れた部屋の中――ガスで眠らされた、アパートの一室だった。

「…よしよし、やっぱりあんただったのね。ありがとう…エル」

 ボクサー種らしき犬を撫でながら、藤咲が初めて見せる柔らかい微笑み。

 まるで全ての出来事がうそだったかのような――ある意味ではそうだが――しかし、現実ほんとうだった証拠は少し離れた場所に倒れていた。

「嵯峨野は…大丈夫なのか?」

 看護婦らしく彼の脈を取っている高見沢に、醍醐が容態を尋ねた。

「大丈夫で〜す。ちゃ〜んと、生きてますよォ〜!」

 ホッと息をついた一同だが、藤咲は物憂げに呟いた。

「大丈夫…か。でも……もう、意識は戻らないかも知れない…」

 どういうことだ、と聞く京一を見ずに、答える。

「麗司の心は、夢の世界に…それも、ずっと奥の方に閉じこもってしまったから。現実から…いじめられる毎日から逃げて、自分だけの楽園くにへ行ってしまったのよ。……あの子と…あたしの弟と、同じように…」



 今はもう、どこにもいなくなってしまった彼女の弟――――藤咲弘司こうじ

 このビルの屋上から飛び降りて死んだんだ、と彼女は言った。

 原因は…学校で受けた陰湿ないじめ。

 メモ書きのような遺書には、たった一行――『生きていくのに疲れました。お姉ちゃん、ごめんなさい』…ただ、それだけが書いてあった。



「――まだ、小学生だった。あたしは弟をいじめた奴らを捜し出して、一人ずつ半殺しにしてやった。…けど、あの子が受けた心の傷はそんなもんじゃないッ。十歳そこらの子供に、生よりも死を選ばせるくらいだからね。だから…だから、あたしは…ッ」

 どんな手を使ってもいい…やられた事は倍以上にして返してやれ、そうけしかけた。

 それで相手が死んだとしても自業自得、麗司が生きる張りを取り戻せるならそれで良かった。

 死んだ弟の轍を踏ませたくなかった――せめて、麗司には生きていて欲しかった…。

「だって、そうじゃないかッ!!自分を殺すくらいの勇気と強さがあるなら、それをやった奴に向けてやればいいッ!…そうじゃないかッ」

 おそらく彼女は弟を失ってから、そうして生きてきたのだろう…やり場のない絶望と悲しみを、怒りの刃に変えて。

 だが…湧は静かに口を開いた。

「…嵯峨野は確かに、復讐を愉しんでたよ。当たり前だよな、あれだけの目にあったんだから……でも、心底喜んではいなかった。本当はただ、安らげる場所が欲しかったんだ…あいつは」

 だからこそ美里の優しさを求めたのだと、湧は思う。

 藤咲に言われるまま、復讐を繰り返しても…彼の心は、決して満たされてはいなかったから。

「なんで…なんでだよッ!どうしてそんなことが、あんたに言えるッ!?あんたに、あの子や麗司の痛みがどうして解るのさッ!!」

 言ってから彼女は気づいた…湧が嵯峨野の《力》に呑み込まれた事に。

 嵯峨野が最も好んだ復讐の方法――それは自分の苦しかった記憶を、いじめた相手に繰り返し繰り返し追体験させる事だった。

 彼らは例外なく辛い体験と孤独感に心を押し潰され、自滅した…はずだった。

「…なんで、あんたは戻って来れたの?麗司の記憶の中じゃ、どんな《力》を持ってたって使えなかったはず…」

 湧は周りにいた一人一人を順番に眺めて、答えた。

「さあ…たぶん、仲間に恵まれたから…かな」

 夢に出てきた少女まいこと微笑む高見沢の顔が、ごく自然に重なる。

 岩山が言っていた、高見沢の《コミュニケーション能力》。

 恐らくそれは霊だけではない、《意思あるものと心通わせる力》ではなかろうか?

 それが《夢の世界》という特殊な環境下で、嵯峨野の《夢を紡ぐ力》に干渉した――。



「……俺は、いじめられた事もないし、誰かをいじめた事もない。だから俺には、こんな事を言う資格は、ないかもしれない」

 口をつぐんだ藤咲に、醍醐が話し掛けた。

「だが、ひとつだけ言えるのは…自分を殺す事に、力の強さは必要ないって事だ。お前も嵯峨野も、強さってもんを誤解してる。本当の強さは、自分の心に負けない勇気なんじゃないのか?自分の心に負けて、なんで他人に勝つことが出来るんだ…」

 ふと、脳裏に甦る記憶があった。

 人間に絶望し、東京中を《力》で粛正しようとした黒衣の少年。

 しかし彼が口にした、人間の持つ醜さや欲望は決して嘘偽りではない…。

「…違うッ!!」

 醍醐は自らの考えを振り払うように叫んだ。小蒔が驚く顔さえ、目に入らない。

「違う…《力》は、そのためにあるんじゃないッ。嵯峨野は、負けてしまったんだ。自分の…心に」

 それはまるで、自分自身に言い聞かせるかのように。ともすれば自分も同じ選択をしてしまったかもしれない事を、否定するように…呟いた。



「――ああ、そうか〜ッ。あなたの後ろにいたのって、弟さんだったのねッ!」

 突然上がった高見沢の素っ頓狂な声が、場の沈黙をぶち壊した。

 目を丸くした一同にはお構い無しに、彼女は喋り続ける。

「ずっと、あなたのこと心配してたよォ?」

 呆然としていた藤咲の頬が朱に染まる…怒りで。

「なッ、なに言ってんだッ!!テキトーなこと言ってんじゃないよッ!!」

 憤然と立ち上がった彼女の様子にも怯まず、高見沢はあらぬ方を見て話している。

「あッ…、もう行くって。石動くんたちに、ありがとうって言ってるゥ。それからあなたには――ゴメンね、って…。もう、僕のために苦しまないで…って」

「ふ…ッざけるなッ!!そう言えば、あたしが改心するとでも思ってんのかいッ!?ふざけ――」

 馬鹿にしたような嘘を吐く看護婦を黙らせようと、平手を振り上げた…その時だった。



 ――――――――お姉ちゃん。



 聞き覚えのある…だが二度とは聞けるはずのなかった声に、藤咲の腕が止まる。



 ――――お姉ちゃん…。



「…こう…じ?……弘司、なの?」

 周囲を見回すが、それらしい姿はない…あるわけがないのに。



 ――――お姉ちゃん…ありがとう…。



「どッ、どうして…?どうして、あんたの声が…まさか…」

 混乱する藤咲を優しく見つめる高見沢の身体から、清らかな蒼い光が発せられていた。

「――あなたは、可哀想な人…自分を傷つける事でしか、人を愛する事が出来ない。だから、教えてあげる…」

 そう囁く声は、いつもの甘く伸ばしたようなそれではなく…鈴を転がすように優しい、澄み透ったものだった。

「わたしの《力》で…。聞かせてあげる…誰もに等しく、愛が降り注いでいる事を…」

 高見沢の手が藤咲の頬に触れたとき、それまでよりも鮮明にその声が聴こえた。



 ――――僕の分まで、幸せに…。



 声だけではなかった。包み込むような暖かい想い、全てを許した穏やかな心…そういったものまでもが彼女に注ぎ込まれ、癒していくのが判る。

「弘司…ごめん…。ごめんね、あたし……」

 涙を溢れさせ声を詰まらせる彼女を、一同はただ静かに見つめていた。

 幽霊嫌いの醍醐までもが、厳粛な面持ちで目を伏せている。



 ――――ありがとう…。



「…あたし…ッ」

 跪いて涙を流す藤咲…と、急にハッと顔を上げる。

「あッ…?」



 ――――バイバイ…。



 声が…弟の存在感けはいが遠ざかっていくのを感じて、彼女は慌てた。

「ちょっと、待ってッ!!まだ、話したい事が…ッ!!」

 それは《力》の限界、という訳ではなかったのだろう。なぜなら…。



 ――――バイバイ…お姉ちゃん…。



 最期に聴こえた声は、とても晴れやかで…優しかったから。

 死んでからもずっと自分を心配し、見守っていた小さな魂が今やっと安らげたのだと…彼女はそう悟った。

「……あたしの方こそ、ありがとう…。さようなら……」

 自分自身の妄執から漸く解き放たれた彼女は…穏やかな微笑みを湛え、清く澄んだ涙を流し続けた。



 湧たちは、誰から言うともなく部屋を後にしていた。

 桜ヶ丘へ運ぶべく、嵯峨野の身体をそっと担ぎ上げて。







 眠っている間にかなり時間を食っていたのか、外に出た時には既に辺りは暗かった。

「なんだかさ…大変な一日だったね。結局、誰が悪いのかよく判んなくなっちゃった」

 そう呟いた小蒔に醍醐が頷きを返す。

「…そうだな。だが時として、よくある事さ。色んな…小さな事が積み重なって、やがて取り返しのつかない事になってしまう。湧にも、そんな経験はないか?」

 黙ったまま浮かない表情で頷く湧に内心首を傾げると、気遣うように続ける。

「そうか…。もしも、もう済んでしまった事なら…あまり気にしないことだ。お互いに…過去に囚われて、未来まえに進めなくならないように、な」

「何だよ、醍醐?そのデカい図体でウジウジしてても暑苦しいだけだから、やめとけって」

 明るく茶化した京一に、醍醐は渋面を作ってみせる。

「…お前なァ」

 それを見て更に笑う京一…実のところ、彼は安心していた。

 湧に対して抱いた疑念が、どうやら杞憂で済んだらしい事に。

 闘いの最中、《刹那》が現れた時はどうなるかと思ったが…少なくとも意識を取り戻した後での嵯峨野と藤咲に対する言動を見る限り、自分が心配するような事はなさそうだと。

 機嫌良く笑って湧の肩を叩こうとした時――後ろから、女の声が聞こえた。



「――待ってェーッ!!」

 追いかけて来たのは…泣き崩れていたはずの藤咲である。

「よかった、追いついて…。ねェ、ものは相談なんだけどさ…」

 かなりのスピードで走ってきた筈の彼女は息も切らさず――その代わりに、なにやら恥らうような表情で――言った。

「あの…あたしもさ、その…あんたたちの仲間に入れてくれない?」

「…はあァ?」

 カクン、と顎を落としたのは京一だった…他の面々も似たようなものではある。

「別に、変な意味じゃないよッ。ただ…あんたたちといると、なんだか楽しそうだし…」

 とてもさっきまで、しおらしく泣いていた少女の言葉とは思えない。

 彼女は艶っぽく微笑むと、湧に向かってウインクしてみせた。

「ねッ、いいでしょ…石動くん?」

 なんで俺に振るんだろう…と思いながら湧は頷いた。

「あー…まあ、友達付き合いは歓迎だけども」

 そう答えると、何故か意味深な視線が返ってくる。

「…そうね。あたしはトモダチからでも構わないわよ。でも、いつか…必ずあたしに、夢中にさせてあげる」

 年齢不相応な艶笑に淡い朱を乗せ、彼女は臆面もなくのたもうた。

「石動くんって、すっごく強くてあたしの好みタイプなのよ。あたし…本気マジになりそう…」

「まじって…マジですか?」

 ひたすら呆然とするしかない湧…《刹那》と混同してるんじゃ?とも思ったり。

「…かァーッ!逞しいねェ、女ってのは。喰われちまわねェように気をつけろよ、湧ッ!」

 やっかみ半分か、京一は湧の首を抱え込んで締め上げた。

「ぐえッ…離せ、このアホ…」

「わ〜いッ、またお友達が増えた〜ッ!わ〜い、わ〜い、嬉しいなッ!!」

 飛び跳ねて喜ぶ高見沢。幼児のようなリアクションに、京一がうんざりした声を出す。

「なんか俺、具合悪くなってきた」

「ははははッ。いいじゃないか、賑やかで。さァ、帰ろう。美里と遠野が、病院で首を長くして待ってるぞッ」

 醍醐が笑い、高見沢はふと思い出したように手を叩いた。

「院長先生もォ、きっと心配してますゥ〜ッ。それとも怒ってるかなァ?わたし、今日サボっちゃったしィ」

「心配御無用、嵯峨野を診てもらうついでに京一このアホを差し出せば、岩山先生もご機嫌さッ」

「てめェッ、湧ッ!!」

 外道な提案をする湧に、再び京一が飛び掛る。二人のやり取りに小蒔が腹を抱えて笑った。

「あははッ。それじゃ、早く帰ろう?」

「ああ…帰ろう。俺たちの新宿まちへ…」

 醍醐は嵯峨野の身体を背負い直して言った。

 一行を包む穏やかな時間――湧は醍醐の後ろに来ると、背負われている嵯峨野の顔を覗き込んだ。



 握った手を打ち払われる直前に、彼が囁いた言葉を思い出す。

『――偉そうなこと言うなよ、君だって…君だって、逃げてるくせにッ!!』

 一瞬の動揺を突いて、嵯峨野は手を払うと自ら虚無に消えた。

 あの時見せた泣き笑いのような表情が、頭に焼き付いて…離れない。

(…俺が、逃げてる…か)

 動揺して思わず力が緩んでしまったのは…それが、真実を突いていたからだろうと思う。

 ――――なによりも…彼らから。

(確かに…逃げてるよ、俺は……)



 知らず深刻な表情になっていたのか、傍に来た高見沢が心配そうに湧の顔を見つめていた。

「――湧くん…どうしたのォ?」

「ん?…何でもないよ。さ〜て、麗しの院長センセの所へ帰ろっか!」

 笑顔の仮面を素早く被りなおすと、湧は道化て片目を瞑った。



 ――――拡がっていく心の罅割れを、隠すように。











久遠刹那 第伍話 了



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