<キミの隣り>





異変に気づいたのは、例によって学校の成績は最悪なくせに妙なところで聡い京一だった。

「よう、美少年。何でそんな隅っこでおしとやかぶってんだよ。」



魔人行きつけのラーメン屋「王華」における5人組の席位置は、ゲストがいる場合を除き、概ね以下のようになっている。



まず、5人連れの彼らに対し王華のテーブル席は4人掛けなので、そこに座ることはあまりない。

よってよほど客がたてこんでいる場合はともかく、大抵彼らはカウンターに一列になって食事していた。

順番は奥から数えて龍麻または京一、醍醐、小蒔、葵。

別に申し合わせて決めているわけではないので若干の変動はあるが、この順番が大体の定番である。

ちなみに小蒔と京一が隣り合う事は決してない。京一は食べ方が汚いので、真神の白いセーラー服にラーメンの汁を飛ばされてはかなわないと小蒔が敬遠するからだ。

(小蒔と京一が隣り合うと必ずくだらないケンカが始まり、あげくラーメン丼や箸が飛び交う騒ぎになるから、という周囲の理由もある。)



だが、この日の王華は。

いつものメンバーに藤咲亜里沙と高見沢舞子が加わって結構な人数であったものの、4人掛けのテーブルが全て塞がっていたので、学生達はカウンターにずらりと並んで座る事になった。

王華は規模の割に繁盛している店なので、それ自体は別に珍しくない。問題はその順番だ。

奥から順に醍醐、龍麻、京一、藤咲、舞子、葵、小蒔、となっていたのである。



「何だよッ、ボクがどこに座ろうとボクの勝手だろ。」

「いつもだったら『醍醐クンといると、沢山食べても目立たないからv』なんつってちゃっかり隣に陣取って大盛りバカスカ食ってるくせに、妙だと思ってよ。」

下手くそな口真似付きで問う京一を、小蒔がいまいましげな目付きで睨みつける。

京一は、すぐさま跳ね返ってくるであろう口答えまたは実力行使に向けて油断なく構えをとった。

が、小蒔は急にプイと顔を背けた。

「ぐ、偶然だよ偶然。成り行きでここにいるだけじゃないか。」

「・・・・・?」



否定する小蒔の言葉に龍麻はひそかに首を傾げた。

小蒔が店に入ったのは龍麻に続いて2番目だったのを覚えている。にもかかわらず、小蒔は回れ右して店の中をわざわざ逆行し、葵の横に陣取ったのだった。

それはとてもさりげなかったので、他の面々が覚えているかどうかは定かではないが・・・・・。



「それよりほらっ、注文注文。おじさーん、ボク塩ラーメンね!葵は?」

小蒔の快活な―――――快活すぎる声にひきずられたわけではないが、学生達は当初の目的――――空腹を癒しに来たことを思い出した。そういえばそろそろ店員の視線が痛い。

「え、ええ、私も塩・・・・・。」

「俺はいつものやつな。」

「俺、今日は醤油。」「あたしも。」「ん〜と、舞子はァ・・・・。」

一通り注文が出揃ったが、一つ足りない声がある。

その方向、カウンターの一番奥に自然と注目が集まったが、本人は壁にかかったメニューに顔を向けたまま身じろぎもしない。

よく見れば、その目はメニューよりも遥か遠くを見詰めていた。

「醍醐、お前は何にするんだ?」

龍麻が声をかけた。

「・・・・・・。」

「だ・い・ご!!」

肘で強く突付くと、醍醐はようやく目の焦点を合わせた。

「あ?ああ、どうした龍麻。」

「俺じゃなくてお前の事。ラーメン何にするんだ?」

「あー、いいじゃん。どうせいつものカルビラーメン大盛りだろ?」

京一の口出しに、しかし醍醐は目を伏せた。

「いや・・・・。」

「んだ?チャーシュートッピングも付けるのか?それともライスか?」

「・・・・醤油ラーメン。」

「スペシャル大盛りだよな。」

「普通でいい・・・・・。」

「醍醐。」

龍麻は目を見張った。

カウンターの中で今まさに麺を湯の中へ投入しようとしていた店主すらも、ちらりと目を上げて手を止めた。

ちなみに、醍醐がこれほど控えめな注文を出すのは王華に通い始めて以来の出来事である。

「・・・・・雪が降るにゃ、まだ早ええよな。」

京一はのれんを透かして、夏の眩しさが残る往来に目を向けた。

「醍醐君、どうしたの?」

「お前、具合でも悪いのか?だったら無理して付き合うことないんだぞ。」

「醍醐、あんたダイエットでもしてんの?」

「醍醐ク〜ン、どこか痛いんですかぁ〜?」

「いや、べ、別に。」

口々に心配する仲間に醍醐は首を振って否定したが、その語気はいささか歯切れが悪かった。

「お、俺にだってたまにはこういうこともあるさ、うむ。」

「へい、お待ちっ。塩のお客さんはどちら?」

勝手に自己完結してしまった醍醐にそれ以上話しかけ様がなくなったところへタイミングよくラーメンが届いてしまい、何となく話が続かなくなってしまった。

―――――だが。

龍麻の優れた動体視力は見逃してはいなかった。

そして、おそらく京一も。

どこか虚ろな醍醐の視線が、ほんの一、二度だがちらりと動いた事と、その方向に。



((ふーん・・・・・・。))



一方、反対側のやりとりに素知らぬ振りでラーメンを啜っていると見えた小蒔も、時折チラチラと目を上げていた。

その視線の行方に気付いたのは、女子の中で最も目端の利く女、藤咲亜里沙と、ぼんやりしているようでその手の機微には妙に鋭い高見沢舞子だった。



((なるほどねえ・・・・・。))











「さて、と。」

どこか調子が狂ったまま進んだ食事が終わった頃、すっぱりと席を立ったのは藤咲だった。

「あたし達、これで失礼するわ。」

「そっか、じゃあ藤咲サン、また・・・・。」

笑顔で手を振りかけた真神組の少女達に向かって、ぴしりと声が飛んだ。

「美里、桜井、あんた達も付き合うのよ。」

「え?」

「えへへっ、行こ行こ〜v」

「あっ、舞子ちゃん!」

有無を言わせない勢いでそれぞれ葵と小蒔の腕を取った藤咲と舞子は、頭の横にすちゃりと手刀をかざした。

「じゃっ、またね。」「まったね〜v」

「いいけど・・・・・どこへ行くんだ?」

「そりゃあ勿論、決ってるじゃない。」

声をかけた龍麻に向かって、藤咲はお色気たっぷりに片目をつぶってみせた。



「女の子同士の、お・は・な・し。」







「――――――何だありゃ。慌しいな。」

少女達が出てゆくと、店内は魔法が解けでもしたかのように急に殺風景になった。

くるりと龍麻が向き直る。

「まあいいだろう。これで話が出来るよな―――――醍醐。」

「む・・・・・・。」

女子連――――特に小蒔の姿が消えて心なしか緊張が解けた様子だった醍醐の表情が、再び強張った。

まず詰め寄ったのは京一だった。

「おい大将、小蒔の奴とケンカでもしたのか?最近変だぜ。」

「べ、別に俺は何も・・・・・。」

「嘘つきやがれ。」

らしくなく口篭もる醍醐に、容赦ない声が飛んだ。

「何事もありませんってな顔して一緒にいるだけはいるくせに、顔を合わせりゃ隅と隅でシカトし合いやがって。見え見えなんだよ二人とも。」

続いて龍麻が口を挟んだ。

「最近・・・・というか、正確にはお前が『白虎変』を使えるようになってからだな。」

「――――――!!」

あまりに正直な顔色の変化に、龍麻はやれやれと首を振った。

「やっぱり何かあったんだろ、ケンカとは言わないまでもさ。一人で悩んでないで話してみろよ。」

「・・・・・いや、これは俺の問題だ。」

太い眉に苦悩の色をはっきりと滲ませながらも頑なな醍醐に、龍麻は溜息をついた。

(しょうがない。)

この、どこまでも真っ正直な男に対しては少々気の毒な戦法だが、城本体を攻撃しても埒があかないなら、堀を埋めてしまうしかない。

龍麻はス、と息を吸った。

「いいか、龍山先生が言ってた封印の摩尼が五色なら、珠はあと一つ。たったの一つだ。つまり鬼道衆もそれだけ追い詰められて何をしでかすか分からない。今がそういう時期だというのは分かってるな?」

「・・・・・勿論だ。」

「敵ももう、俺達が何処の何者なのかを知っている。これから先は仲間内の誰が狙われるか分からない。俺達は力の真っ向勝負なら負けなくとも、一人一人の心の隙を突いた攻撃には―――――悔しいけど、弱かった。」

そう、あっけないほど脆かった。

あの事件は≪力≫の意味を改めて問われたのと同時に、互いを仲間として信じ抜く事の大切さと、その難しさをも突きつけられた。

いかに超人的な≪力≫を振るおうと、普通より少しばかり個性的であろうと、自分達は些細なきっかけで不信に傷つき仲たがいもする、ただの高校生にすぎないのだという事を思い知らされた出来事でもあったのだ。

「お前一人では戦い抜けなかったのと同じように、あの時俺達もお前抜きでは戦えない事を知った。だから、もう一人で問題を抱え込むのはやめてくれ。」

「・・・・・・。」

かつて己が犯した愚行を思い起こし、醍醐が息を詰める。



もう一押し。



仲間曰く『まともに見ると吸い込まれそう』らしい黒い瞳に力を込め、龍麻はわざと正面から醍醐の顔を見据えた。



「もう一度しか訊かないぞ――――”何があったのか、話してみろ”」







「あ、あのう・・・・・・・・。」



「なあに〜?」

「うふふっ、どうしたのかしら?」



「こ、この体勢は、一体・・・・・。」



さて、またもや席割りの話で恐縮だが。

喫茶店に四人で入ったとする。普通ならば四人掛けの席にぴったりおさまるわけだから、当然座るべき場所に一人ずつ座るものだろう。

だが少女達は戸惑い顔の葵を一人向こう側の椅子に残し、反対側のベンチ状になった席に小蒔を真ん中に挟んだ格好で着席していた。



それは良く言えば(少々倒錯的だが)両手に花。

悪く言えば、逃亡を許さない連行スタイル。

――――――話の内容も、まさに尋問であった。



「ねーえ、何かあたし達に隠してる事、あるでしょ。」

「でしょ?」

「・・・・・・・。」

「醍醐がいなくなった騒ぎがおさまってやれやれって思ったのに、一番接近した筈のあんたたちが揃って変なんだもの。どうも気になるのよねえ。」

「さ、さあ。ボクには何の事かさっぱり・・・・・。」

どこまでもそら惚けようとする小蒔の不自然な笑顔に、藤咲の目がキラリと光った。

「舞子。」

「はあ〜いvv」

「う、うわ、舞子ちゃん何するんだよッ!!」

背後から羽交い絞めにされた小蒔の前に、藤咲が身を乗り出した。

「正直に言わないと。」

藤咲は華やかに彩った爪で小蒔の顎をクイ、と持ち上げた。赤い唇がニイッと吊り上がる。

「ムチの味を、教えちゃうわよ?」

「・・・・・ヒィィ?!☆」

花の如き微笑にそれ以上の本気と危険を察知して青ざめた小蒔を、舞子がグイと自分の方に引き寄せた。

「亜里沙ちゃ〜ん、乱暴はいけませえ〜ん。小蒔ちゃんが可哀想でしょ〜?」

「そそ、そうだよ!だからもうやめようよ、ね、舞子ちゃんも、藤咲サンも!」

「だからね。」

がし。

「・・・・・・・・・え?」

「くす。」

救いの神に縋りついたつもりがより一層固く拘束されてしまった小蒔。

うろたえる暇もなく舞子の十指が怪しく蠢いた。



こしょこしょこしょ



「こ〜ゆ〜ふうにすればぁ、痛くないでしょお?」

「ひゃ、ひゃはは、くすぐったいよおぉ!」

「小蒔ちゃ〜ん、ほんとのこと言わないとぉ、ずうっとこのまんまですよ〜〜。」

「たた助けて〜〜あ〜〜お〜〜い〜〜っ!!」

最後の頼みの綱に助けを求めた小蒔だったが、果たして返ってきたのは、美しくも限りない悲しみを秘めた視線だった。

「小蒔・・・・私達親友でしょ?隠し事だなんて、とっても淋しいわ・・・・。」

「ひ、ひいいぃぃぃ〜〜〜ん(泣)」



かくして孤立無援の小蒔が陥落するのに、時間はかからなかった。



―――――――合掌。





「えェ〜〜〜〜〜〜?!小蒔ちゃんが、醍醐クンとぉ?!」

「何だ、そんな事か。もっと凄い事ヤッたのかと思ったのに。期待して損したわ。」

「こ、小蒔、小蒔・・・・・・・。」



口の中に拳を詰め込んだ舞子、いかにも物足りなさげに鼻を鳴らす藤咲、我が事のように真っ赤に染まった頬に両手を当ててひたすら目を見開く葵。



話を聞いた三人が三様の反応を示す中、哀れ小蒔はボロボロになってテーブルに倒れ伏していた。

「なあるほどねえ、それで決まり悪くて醍醐を避けてたの。」

「ウフッ、小蒔ちゃんかっわゆ〜い。」

「だ、だって、だって、あの時は夢中だったし、醍醐クンほんとに酷い状態だったから、見てらんなくて。あの、醍醐クンがだよ、あんなにやつれてたんだから・・・・。」

呻く小蒔はトマトのようになった顔を両腕で囲んだ。

「何を言っても届かないみたいだったから、ボク、せめて・・・・・・。」

「うっふふふふ、そりゃあいい刺激になったでしょうとも。ね、美里。」

「・・・・・・・・。」

余裕たっぷりの笑みを向ける藤咲だが、葵は話を聞き終わったときの姿勢のまますっかり固まっていた。

「でもォ〜、小蒔ちゃんが前みたいにお隣に座ってくれないから、醍醐クン随分落ち込んでたみたいだったよ?」

「よねェ。」

「・・・・・そうなの?」

小蒔の顔が突っ伏していた腕の中から少し浮上した。

「あんた醍醐の顔すらまともに見てなかったじゃない。」

「で、でも、いくら勢いでもあんな事しちゃって、きっと退かれてるって思ったら・・・・・。」

小蒔の葛藤と恥じらいに動じたり同情するほど純情ではない藤咲は、カラリと笑いとばした。

「でも、ま、一応おめでとうって言わせてもらうわ。なかなかいい男ひっかけたじゃない。あんた見かけに寄らず見る目あるわよ、桜井。」

「だーかーら!そういう意味じゃなかったんだってば・・・・・。」

ぴた、と振り上げた拳が止まった。

醍醐を表現するにはあまりに聞き慣れない形容詞を耳にしたような気がしたからだ。

「・・・・・・藤咲サン、今、何て言った?」

「あら、カレ『いい男』よ。あんたもしかして知らなかったの?」

「そ、そうなの?」

「そうよ!」

「・・・・・・?!」

こと男に関しては恐ろしく点の辛い藤咲の断言に、小蒔は思い切りたじろいだ。

「ちょっと頭が硬くて古臭いのはあたしとしちゃいただけないけど、面倒見はいいし、頼りになるし優しいし。」

「・・・・・・・・。」

並べ立てるたびにちゃくちゃくと折られてゆく藤咲の指を、小蒔は声もなく見詰めていた。

「ルックスだってレスラー系にしちゃ悪かないわよ。ただのデブだか筋肉だか分からないむさ苦しいのが多いけど、その点あいつは首は長いし身体は筋肉質で引き締まってるし。」

「そうねェ〜、体脂肪率も適正そうだし〜、お医者さんいらずな人って舞子だあい好きv」

舞子が少しズレた相槌をうった。

「・・・・・・・。」

「カレ、プロレスラー志望なんですって?あれは絶対、デビューしたら人気出るわよ。覚悟しとかないと。」

「・・・・・・・・・・・・。」

まじまじと見つめる小蒔の視線に気づいた藤咲は、「あら」と綺麗に描いた眉を上げた。

「安心しなさいよ。今のはあくまで公平な目で審査しただけの話。あたしとしてはもうちょっと細身で今風なのがタイプだから、別にあんたから取りゃしないって。」

藤咲は嫣然と微笑み、小蒔の細い肩を応援するようにポンポンと叩いた。

「と、取るって、ななな、何の・・・・・!」

「そうそうッ、亜里沙ちゃんはダーリンみたいなのがいいんだもんねぇ〜。」

藤咲は真っ赤になった。

「こ、こらバカ、舞子ったらそんなこと大声で!」

「えへッ、舞子とライバル〜。」

「だからっ、あたしは何も言ってないじゃない。なんであんたとライバルなのよ、もう!」

「負けないぞぉ〜。」「だから、舞子!」

真っ赤に茹であがった小蒔の叫びは、二人の脱線に押されて聞き届けられなかった。

呆然としているうちに、どうにか舞子を押さえつけた藤咲が話を元に戻した。

「けどね、気をつけなよ。このあたしがタイプじゃなくても及第点をあげてるのよ?ああいうのが好きな女にとっちゃ、もうたまんないに違いないんだから。」

「ボ、ボクは醍醐クンをそんな目で見たこともないし、そういう仲でもないよ!!」

「ああら、ならいいけど。早めに仲直りしとかないと、後悔するかもよ?」

何もかもお見通しといわんばかりの藤咲の揶揄するような目に、やられっぱなしだった小蒔の胸にむらむらと反抗心が沸きあがった。

「――――――とにかく、ボクには関係ないんだからッ!!」





「あら、ら。ちょっとからかいすぎたかしら?」

まだ硬直したままの葵を引き摺って足音も荒く店を出て行った小蒔を見送って、藤咲は悪びれた様子もなく肩をすくめた。

「でも、ま、あれだけ煽っとけば少しは自覚ってものが育つわよね。」

してやったりと会心の笑みを浮かべる藤咲の服の裾を、つんつんと引っ張る指があった。

「ねえねえ、亜里沙ちゃん。」

「何さ?」

振り向くと、「んー」と首を傾げた思案顔の舞子が、ピンク色の頬に人差し指を突っ込んでいた。

「あのね、醍醐クンは小蒔ちゃんが来るまでずーっと意識不明だったんだよね。」

「それがどうかした?」

「で、小蒔ちゃんが呼んでもなっかなか起きなかったんだよね。」

「だから何よ。」

「醍醐クンの方は、小蒔ちゃんにキスされた事、ちゃんと覚えてるのかしらぁ?」

「・・・・・・☆」











さて一方、男三人が残された王華では、うって変わって深刻なムードで話が展開していた。





密談用にテーブル席へと場を移し、ようやく腹を決めたらしい醍醐は重い口を動かし始めた。

それは彼が≪白虎≫の力に覚醒した時にまで遡った。

あの夜、佐久間との決定的な決裂と急激に目醒めた≪力≫の暴走によって起こった惨劇。彼自身の失踪―――――。

それは龍麻も京一も既に知っている事だが、彼の気持ちの整理のため、黙って耳を傾けていた。



「己を恥じ、≪力≫を怖れ、他人も、他人をとうとう理解してやれなかった自分も信じられなくなって。」

醍醐はその時の苦悩を思い出したように、水の入ったコップを握り締めた。

「所詮俺には人を傷つけることしかできんのなら、いっそこのまま己の中の暗い欲望に身を任せてしまえば良いのではないかと思ったこともある。俺にはそれしか出来ないのだと・・・・・。」

かつての闇を覗き込むような醍醐の言葉を、凛と通る龍麻の声が断ち切った。

「――――でも、お前はそうはならなかった。そんなものはお前の内になかったからだ。」

「そうかもしれん。だがあの時は分からなかった。何もかもが分からなくなっていた。そんな時に飛び込んできて、必死に俺に呼びかけてくれたのが、桜井だった―――――それなのに。」

心の檻から抜け出した醍醐は、再び白虎変を使った。

それは龍山を庇いつつたった二人で相手の戦力に対抗するためと、己の≪力≫にもはや怖じないという彼なりの決意表明でもあった。

が、同時に醍醐が仲間の前から姿を消すきっかけとなった恐ろしい姿を――――佐久間を引き裂いた獣の姿を、小蒔の前で二度も晒してしまった。



「あの時は夢中で何も考えていなかったが、おかげで彼女をすっかり怖がらせてしまったのではないか、と・・・・・。」

その証拠に、あれ以来小蒔は醍醐を避けている様子ではないか。

出来るならば必要以上に小蒔と同席する事は避けたかったが、同じ学校、同じクラスにいる以上無理な話である。

多少の居心地の悪さは自分の落ち度だから辛抱するにしろ、沈む気持ちは押さえられなかったというわけだ。



「・・・・・・それだけか?」

「う、うむ。他に思い当たる節がないからな。」



言いながらも、当時の事を思い起こす醍醐の脳裏に、ふと蘇ったものがあった。

闇から湧き上がり精神を絡め取ろうとする蟲惑的な声、それを遮る龍山の呪言、炎角の嘲笑、嵐のように飛び込んできた小蒔の、命がけの叫び。

それら全ては醍醐の耳に聞こえてはいた。が、己の内に閉じ篭っていた時間が長すぎたのか、声は闇の中にたゆとう水のように醍醐の心を流れ過ぎるだけで、何も見えず、指一本動かす事も出来なかった。



ところがある瞬間を境に、それまでの懊悩の方が幻であったかのように光が戻り、体の感覚が戻り、元の世界に――――大切な仲間を護るための闘いに、戻る事が出来たのだ。



胸の内が震えるほどに柔らかく暖かな、そして甘いような感触――――――――



――――――――あれは、何だったのだろう?



「本当に?」

「・・・・・本当だ。」

彼の心の内を読む術など持ち合わせない二人は、それで納得したようだった。

「ま、確かになかなかインパクトあるもんな、虎の大将は。」

「確かに、いつも見慣れた人間が獣みたいに変身したら、びっくりもするだろうけど・・・・。」

小蒔は並みの女性より気丈だと思っている龍麻は首を捻った。が、こちらの勝手なイメージで彼女の心中を決め付けるわけにはいかないだろう。

「あーあ、何だよ。俺はてっきり極限状態のお前が血迷った挙句に美少年趣味に目覚めてあいつに妙な事をやらかし・・・・いでっ。」

「それどころなわけなかっただろ、馬鹿。龍山先生だっていたんだぞ。」

龍麻は二杯目のラーメンを啜りつつ言う京一を、チャーハンのレンゲで小突いた。

「全く駄目だな、俺は。」

「醍醐・・・・・。」

何か言おうとした龍麻を手で制し、醍醐は頭を掻いた。笑って言ってみせたものの、その笑顔は痛々しいほど力ない。

「己がどうなろうと、どう思われようと構わない。今度こそ力の及ぶ限り大切なものを護ってやらねば、と思いながら同じ事を繰り返してしまったとは。」

「――――――ったく、相変わらずでけェ図体で無駄にウジウジ思い詰める野郎だぜ。」

醍醐の言葉を聞いていた京一はいきなりフンと鼻を鳴らすと、安っぽいビニール張りの椅子にぐっと背を預けた。

「おかげであんだけの修羅場をくぐる羽目になって、ちったあ肝が座ったかと思ったのによ。学習能力あんのか、てめえは。」

随分乱暴な言い草だったが、これは京一流の激励だ。

付き合いの短い龍麻でさえ分かっているのだから、醍醐もやや元気はないものの苦笑をうかべるに留まった。

「なあ、いっそのことなら、避けたきゃ避けさせといてりゃいいんじゃねえの?」

京一の思わぬ提案に、二人が注目した。

「別に悪いもんじゃなし、変生したら誰彼構わず襲い掛かるわけじゃなし。戦いの最中に怖いだのなんだの言ってるようならあいつもそこまでだ。」

「だが・・・・・。」

「お前が気にかけてるのが見え見えだから向こうも逃げつづけるんだ。女なんざそんなもんだろ、なー、ひーちゃん。」

「俺に聞くな。」

「そう・・・・なのだろうか。」

「おうよ。」

普段何かと自分に説教を垂れている兄貴分がいつになく弱気なのに勢いづいたのだろう。京一は一層深く椅子にそっくり返った。

「男ならどーんと構えて、逃げた女房にゃ未練はねェってとこ見せてやれよ。そのうち勝手に戻ってく・・・・・おわっ?!」

いきなり正面から伸びた逞しい腕に吊り上げられ、京一の視界が急上昇した。

「だだだ、誰が誰の逃げた女房だっ!!」

「そ、そりゃもののたとえだろ・・・・ぐ、ぐるじい・・・・・って、何でそんな耳まで赤くなってるんだよ醍醐!へへッ、さては図ぼ・・・・・・はぐううぅぅっ!!!」

「俺はッ!俺は人をそのような話題のエサにする事が嫌いなだけでっ!!」

「煽るな京一!醍醐っ、言ったそばからこんなとこで白虎変する奴があるかっ!!」

「ロープ、ローーーープ!!」

じたばた、どたばた。

呆然とする客や従業員を観衆に店の片隅で繰り広げられる乱闘を横目に、カウンターの中の親父は青春だねぇ、と呟きつつ、いつもの熟練した手捌きで麺を茹で上げているのであった。




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