久遠刹那 第零話
【序、幻視】
――――紅い、残像。
押し潰され、引き裂かれる身体…不思議と、痛みは感じなかった。
瞑い空間の中で、ただその紅だけが見えた。
禍々しい、紅色の闇が。
闇は云った…その言葉は、深い怒りと苦渋に満ちて。
「――たかが、ヒト如きが…ッ!!」
それは、見知らぬ光景――なのに『私』はそれを知っていて。
叩きつけられる憎悪と絶望に、気が遠くなる――。
――――緋色。
目の前に広がるそれは、濃い鉄の臭いを放っている。
「――おとうさぁん…おかあ、さぁん…」
煙にむせながら両親を呼ぶ幼い声は…多分、『俺』。
「――ゆうくん?」
――ミオ姉ちゃん。
「もう、大丈夫よ」
伸ばされる手に、深い安堵をおぼえる。
擁かれることの温かさに、涙が出た。
と。
不意に、身体が離れる。
…どうして?もっと縋っていたいのに。
「……湧くん…」
顔に、温い水が掛かる感触。
「湧くん、逃げて……」
掠れて、苦しげな声。
姉の顔を見たくて、眼に入った水を拭う。
鉄臭いその水は。
「――――うあァああァァッッ!!!!」
鮮やかな緋色だった――――。
偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜
第零話 龍之刻
「――――…うくん、湧くん!」
――身体を揺り動かされ、湧は眼を覚ました。
「う…ん、……あれ…姉ちゃん…?」
やれやれ、と微笑む姉――石動澪――の顔が目に入った。
「――やっと起きた。…ひどい顔よ、大丈夫?」
悪い夢でも見たみたい。そう言われ、曖昧に笑ってごまかすが…右目が痛む。最近、夢を見た後はいつもだ。
しかし、姉には言えなかった。ここのところ毎晩悪夢にうなされている、などと言っても心配させるだけだから。
「――ん、へーきへーき。それよりどしたの?朝っぱらから」
時計を見ると、いつも起きる時間より30分も早い。
「…忘れたの?『今日は日直だから、弁当早めに頼む』って言ってたじゃない」
――忘れていた。綺麗さっぱり。
表情から考えを読んだのだろう、澪は呆れたように笑って
「ご飯、もうできてるから、さっさと着替えて食べちゃいなさい」
と言うと部屋を出て行った。
大欠伸をしながら起き上がる。壁にかかる鏡を見ると、目の周りが涙の痕でぐしゃぐしゃだった。
「ばれてる、かな。こりゃ…」
もともと鋭い人だから。判っていて逆に気を使わないよう振る舞っているのかもしれない。
溜息ひとつ。湧は制服をハンガーからとると、着替え始めた。
「――ご馳走さまッ!行って来ますッ…とっと」
ダイニングを出て行きかけて、立ち止まる。
棚の上に置かれたフォトスタンド――二組の仲睦まじげな男女が映った古い写真に、湧は笑いかけた。
「行って来ます、父さん、母さん――姉ちゃん、行ってきまーすッ!」
返事も待たず慌ただしく出て行った弟に、澪は苦笑を漏らした。
「――まったく、もう……誰に似たんだか」
【一、邂逅】
1997年12月15日
熊本県立明日香学園高校2−C――朝
――――眠い。
一時間目は何とかやり過ごしたものの、押し寄せる睡魔に湧は机に突っ伏していた。
「――石動、…いーすーるーぎ!」
「……んあ?」
ふあーあッ、と欠伸をしながら顔を上げる。
「次、生物室だろ?とっとと行かねーと遅れるぞ」
先行くぜ、というクラスメートを見送る――――かったるい。
フケようかな、といささか不届きな事を考える湧の耳に、なにやら揉め事らしき声が聴こえた。
「――ちょっとあんたッ!何じろじろ見てんのよッ」
そちらを見ると、教室の入口でクラスの女子が、バンダナを巻いた少年に突っかかっている所だった。
バンダナ少年の事は知らないが、少女の方はクラスの女子の中でも割と姉御肌…というかリーダー格だった筈だ。
傍にいるおとなしめの少女が止めるのも聞かず、「いやらしい」だの「気持ち悪い」だのと言葉をエスカレートさせていく。
そこまで言わんでも…とか思うのだが、見ているとその少年は先刻から一言も喋っていない。まるで、値踏みでもするかのように少女を眺め回すと、
「――――くくくッ」
と嘲笑ってきびすを返した。
「…なッ、何よ、あいつ…」
その不気味な雰囲気に意気も萎えたのか、少女は行きましょ、と友人を促して教室を出た…が、その様子には明らかに虚勢が見て取れた。
――――行くか。
そろそろ休み時間が終わる為、教科書その他を持って教室を出る。
…もっとも、眠気は依然ピークの為に目蓋は閉じかけ、半分寝たような状態で歩いている…器用なものである。
しかし、そんな状態で周りが眼に入っている筈も無く――――。
「ブッ?!」「きゃッ!?」
…ちょうど教室前を通りかかった女子と――正確には彼女が抱えていた大荷物とまともに顔をぶつけてしまった。
「ごめんね、大丈夫?」
慌てて謝る少女。…大荷物のせいで前が見えなかったらしい。
「い、いや…大、丈夫」
実は思いっきり鼻をぶつけたのだが、悪いのはどう考えてもこちらなのでとりあえずそう言った。
ついでに、さっきまでの眠気はズキズキ痛む鼻のおかげで消えうせている。
「良かったあ」
心底ほっとしたように笑う少女――と、重心が崩れたのか荷物を落としそうになる。
咄嗟に支える湧…ちょうどその時、予鈴がなった。
「――あッ…あたし、もう行かなきゃ。これ、クラスまで運ばなきゃならないの」
その少女は荷物を抱えなおそうとし…またもやバランスを崩しかけた。
「危なっかしいな…手伝うよ」
湧は半ば強引にその荷物を受け取った。
「あッ――ありがと…」
最初は遠慮していた少女だったが、湧に押し切られ、はにかんだようにそう言った。
「いえいえ、美人のお役に立てるならば、本望デス」
赤い鼻でおどけて見せる湧に、彼女は声を立てて笑った――。
「あたし、A組の青葉さとみ。ブルーの青に葉っぱの葉、平仮名のさとみ。あなたは?」
長い黒髪を黄色のカチューシャでまとめた、なかなか可愛い少女はそう名乗った。
「俺は、石動湧(。石が動くって字に湧き水…湧水の湧」
こちらも愛想よく答えた。ちなみにこの苗字、いちいち注釈をつけないと読めない人間が多いのが困りものではある。
「――石動くんか。……でも、不思議ね。あなたみたいな人がC組にいたら、気づきそうなものだけど…」
…そんなものだろうか?湧自身はあまり他人に関心を持たないため、そういった事はよく解らない。
「うーん、でもホラ、俺も君のこと知らなかった訳だし?」
おあいこおあいこ、と流す湧にさとみは笑って、
「教材を運ぶように言ってくれた先生に感謝しなくちゃね…違うクラスだけど、仲良くしましょ?」
――よろしくね、と言った。
2−Aの教室に着いたところでさとみに荷物を渡す。
礼を言って教室に入ろうとするさとみ…と、いきなり出てきた男子にぶつかり、
「きゃッ!――あッ…荷物が」
…見事に荷物を床にぶちまけてしまった。
ぶつかったのはさっきのバンダナ少年だった。
彼は不愉快そうにさとみを一瞥し、そのまま立ち去ろうとする。
「――おいッ、ちょっと待てよッ」
それを見て、教室内から別の男子が出てきた。茶色がかった髪を短く刈った、体格のいい快活そうな少年だった。
「ぶつかっといて、謝りもしないのかよ?え、莎草――」「あッ、比嘉くん、あたしは大丈夫だから」
落ちた荷物くらい、拾ってやってもいいんじゃないか?と言いつのる男子と、それを止めるさとみ。
莎草と呼ばれた少年は二人を不機嫌な顔で睨みつけていたが、やがて嘲るような笑みを浮かべると、そのまま立ち去った。
「あッ、おい…なんだ、アイツ…」
なんとも言えず不快な空気の中で比嘉と呼ばれた男子が口を開く。
「さとみ、大丈夫か?」
そういって落ちた荷物を拾い始める比嘉と、同じくしゃがみこんだ湧の眼が合った。
「――――ん?」「…どーも」
怪訝な表情をする比嘉に、慌ててさとみが湧の事を紹介する。…今まで忘れていたらしい。
「石動…?そういえば、何となく見覚えあるなァ」
まあ、普通他のクラスの、それも同性に対する認識などこんなものだろう……しかし。
「なんか、近くで顔だけ見ると、女子と間違えそうだな?きれーなツラ」
――――初対面の男を相手にそれは無いのではなかろうか。
「…おい」
さすがにジト目で睨んでしまう。それで無くとも女顔は密かにコンプレックスなのだ。
しかし比嘉はまるで意に介さなかった。
「よォ、俺はさとみと同じA組の比嘉焚実(…焚実でいいよ。あ、そうそう、さとみとは幼馴染って奴さ」
いわば、腐れ縁ってやつね…と余計な一言を付け加えた為、さとみにも睨まれる比嘉。
「はははッ。――ところでさっきの奴も、うちのクラスなんだけどな」
誤魔化すように笑って話をすり替える。
「莎草覚(っていって三ヶ月くらい前に転校してきた。東京都内に住んでいたらしいんだけど、今はどこに住んでいるか、誰も知らないって話だ」
そんな事が話題になるのも、珍しい転校生ならではだろうか。
「友達もできないみたいだしね…ちょっと、心配だわ…」
そう言って、心持ち沈んだ表情をするさとみ――責任感が強いのだろう。
そのまま暗くなりかけたムードを吹き飛ばすように、比嘉は笑った。
「…はははッ、なんか湿っぽくなっちゃったけど、石動っていったっけ?よろしくな」
「――ああ、よろしく」
と、教室内が慌ただしくなってきた。――そろそろ教師が来る時間だ。
「…おッと、さとみ、早く教材持っていかないと。――じゃあな、石動」
「石動くん、またね」
今度、一緒に遊びに行こうという二人に軽く頷くと、湧は歩き出した――生物室とは反対の方向へ。
ふあーあッ、と欠伸が漏れる。ついでに独り言も。
「――やっぱ眠いわ、うん…フケよ」
…次の授業はサボる事に決めたらしい。湧の足は屋上へと向かっていた。
ちなみに、湧が授業に復帰したのは五時間目…昼休みの終わった後だった。
――――放課後。片手でメモらしきものを広げつつ、下校する湧の姿があった。
「…えーと、今日の特売はナスとピーマンと卵…肉は3日前のが冷蔵庫に…」
えらく家庭的な独り言ではある。今夜は姉が仕事で遅くなる為に湧が食事当番で、材料の調達も彼の役目だった。
「――石動湧――――」
「――キャベツと青梗菜買って野菜炒め…」
「石動湧君――」
「…いや麻婆豆腐も捨てがたい……え?」
ようやく自分を呼ぶ声に気づいて辺りを見回す。
「――石動湧君…だね?」
そう声を掛けてきたのは、190センチはあろうかという長身を仕立ての良いスーツに包んだ、壮年の男だった。
肩まで届く緩やかに波打った長髪と、顔の下半分を覆う手入れされた髭…まっとうな職業には見えないが、かといって卑しい雰囲気も無い。
長身の割に少しも鈍重そうに見えない、引き締まった体躯と隙の無い物腰は――武道家、という言葉が頭に浮かんだ。
と、湧は先ほどまでの自分の姿に気づく――名前を呼ばれていたにもかかわらず、メモ帳片手に家庭料理の献立をブツブツ呟きながら歩く自分……。
サッ、とメモ帳持ったままの右手を背中に隠す。
「はいッ!なんでしょうかッ!」
照れ隠しに満面の笑みを浮かべ、必要以上に元気よく答える湧。それを知ってか知らずか、男は穏やかに微笑んで言った。
「はははッ――私とは初対面の筈なのに、随分と友好的なんだな、君は。…だが、気に入って貰えたようで光栄だよ」
そして、何気ない世間話でもするかのように話し出す。しかし、その内容は――。
「石動湧――明日香学園高校在学中。両親とは幼い頃、死別。
伯父夫婦に引き取られるも、十年前の事故でその夫婦も他界…以後、義姉と共に二人暮し。
だが、それ以外ではごく平凡な学園生活と日常生活を送り、今日に至る」
――湧の顔色が変わる。今や姉以外の親類縁者を持たない湧は面倒を嫌って、家族構成などは担任の教師にしか話してはいない。
「…学業、スポーツに関する成績も、多少のばらつきはあるが平凡そのもの。交友関係も平凡――いや、むしろ他人と深く関わる事を避けているようだね?」
――――言葉も無い…その通りだったから。
「――まあ、とりたてて他の若者と違った点は、そう見受けられない……それが、『昨日まで』の君だ」
顔をこわばらせ硬直している湧に、男は名乗った。
「――――私の名前は、鳴瀧冬吾(。
君の…、君の実の父親――石動弦麻(の事で、話がある」
【二、異変】
同日、明日香学園体育館裏――放課後
――数人の男子生徒が、ひとりの少年を囲むようにして立っている。
知らない者が傍から見れば、これからリンチでも始まりそうな状況だが、この場合はそうではなかった。
「――なんだよ…、こんな所に呼び出して」
口を開いたのは、囲んでいる少年たちの方。
「俺たち、部活あんだけどよ」
別の少年が、いささか不機嫌そうに言う。
「早く用件を言えよ、莎草――」
――囲まれているのは、莎草覚だった。少年たちを呼びつけたにも拘らず、彼は沈黙を保っている。
「おいッ、莎草――」
苛立った男子の一人が、莎草の肩に手をかけようとした時、初めて莎草が口を開いた。
「――『赤い糸』って信じるか?」
…出たのは、かなり突飛な言葉だったが。
「…はァ?」
あっけに取られ、手を止める男子。
「よく、小指と小指が赤い糸で結ばれてる――とか言うだろ?」
ぽかん、と口を開ける少年たち…莎草は、彼らの様子に構わず先を続ける。
「でも、なんで小指なんだ?別に人差し指だって、親指だっていいじゃないか?何でなんだよ?」
莎草は、一人興奮したようにまくしたてる。顔を見合わせる少年たち。
「いッ、いや…そういや、何でかな…?」
「あッ、あァ…」
当惑した彼らは、とりあえず莎草に話を合わせた…その様子を見て、莎草は満足したように笑みを浮かべる。
「……教えてやろうか?その理由(を――」
怪訝な表情をする少年たちを、莎草は見回した。
「小指は――その人間の心臓に直結してると言われている。くくくッ…つまり――」
莎草の笑みが深くなる――それと共に、少年たちの身体を異変が襲った。
「――――ッ?!」「なッ…か、身体が…動か、ねェ…」
何も見えないし触れてもいない…なのに、彼らは指一本すら自分の意思では動かせなくなっていた。
「――その人間の魂に、な…」
莎草の目は、今や絶対的な強者が弱者を…虫けらを嬲るような光を浮かべていた。
「お前らには、二つの道がある…俺に服従するか――、」
少年たちの顔に脂汗が浮かぶ。
「それとも、死か……だ――」
冷徹に告げられる、言葉。
「うッ、うわあァァーーーッ!!」
絶叫が響いた――――。
「この辺りで、いいだろう…」
――夕刻、明日香公園。
鳴瀧と名乗った男に促されるまま、湧は学校近くの公園までついて来ていた。
「…突然、学校まで会いに行って迷惑だったかも知れんが、どうしても早く君に会う必要があってね…許してくれ」
自分よりずっと上背のある、年嵩の男に頭を下げられ、湧は戸惑う。
「――いえ…、そんな事は別にいいんですけど…」
父の旧友という事で、どうやら害意は無さそうだったが、ならばどうして自分の身上調査みたいな事をしているのか、訊きたかった。
「ありがとう。君の寛大な心に感謝するよ。――多分、君の記憶の中では私に会うのは初めてだろう。最後に会ったのは、君がまだ言葉も喋れないくらい幼い頃だったからね」
そう言っていったん言葉を切ると、鳴瀧は暫し湧の顔を見つめた。
「――――あの…?」
睨み付けられている訳ではない…とはいえ、会ったばかりの人間に物も言わず見つめられるのも、なんだか落ち着かない。
「やはり…間違いは無いようだな。その瞳と雰囲気――亡くなった弦麻と迦代さんの面影がある…。随分と…大きくなったな……」
懐かしげに眼を細める鳴瀧――そうした表情をすると、驚くほど雰囲気が柔らかくなることに、湧は気づいた。
「……ずっと、私は、あえて君とは関わりを持たなかった。――何故だか判るかね?」
そう鳴瀧に問い掛けられ、湧は首を横に振った。
「――――それが…、弦麻の遺言だったからだ……」
静かに告げる、鳴瀧。
「…遺、言…?」
――どういう事だろう。父の友人に『関わるな』とは…?
「……君は、両親の事を、何も知らないんだったな…」
疑問が顔に出たのか、鳴瀧は言葉を続けた。
「別に、何も知らないって程じゃ…」
と、反論しかけて…口篭る。
――確かに、伯父夫婦からは、何かにつけて両親の話を聞いていた筈だ…なのに、内容を思い出そうとすると、具体的な事が何も浮かんでこない。
自慢ではないが、記憶力にはかなり自信がある。一度でも興味を持って憶えこんだ事を忘れた事はない――のに。
(…十年以上も前の事だから?――それにしたって何も思い出せないなんて事、あるわけが…)
混乱する湧…鳴瀧はその様子を見て話を切り上げようとした。
「――私の口からは何も言えないが、いずれ、知る事もあるだろう。いずれ……」
これでは何も聞いていないのと変わりない。湧は顔を上げ、鳴瀧の目を見た。
「…今、聞かせては貰えないんでしょうか?」
知りたいと思うのは、本当のこと。
――――だが、どこかに怖れるような気持ちがあるのは…何故だろう?
「あァ…。――だが、ひとつだけ教えておこう。昔…君が産まれるずっと前、君の父親と私は、表裏一体からなる古武術を習っていた。とても…歴史が古いものでね。無手の技を極め、その継承者は、素手で岩をも砕いたという」
…随分、突拍子も無い話ではある。だが、鳴瀧は別にからかっている調子でもなく、ただ事実を淡々と語っているだけのように思えた。
「弦麻が表の――陽の技を、私が裏の――陰の技を習っていた。お互い違う師についていたが、いわば同門の徒だった訳だ。特に石動家は、先祖代々、陽の技を伝承する家系でね。…つまり、君の身体には、その血が連綿と流れている」
確かに、伯父は生前、古武術の道場を開いてはいた…湧も幼い頃は、姉と共に散々しごかれたものだったが…。
「……フッ。いきなりこんな話をされても、信じられないかもしれないが――」
普通に考えれば、その通りだ――――会ったばかりの人間にこんな話をされて、俄かに信じられるものではない。
「…いいえ」
――にも拘らず、湧はそう答えていた…理屈ではなく、自分の中の、どこか奥深い部分が『今の話は真実だ』と告げていた。
意外げに眼を瞠る鳴瀧。
「そうでもない…という事か。――フッ…まぁいい。……君は、弦麻が何故…………いや――」
何故かそこで言いよどむ。何を言おうとしたのか、先を促そうとした湧の機先を制するように、鳴瀧は話題を変えた。
「――そういえば…最近君の周りで、奇妙な事はなかったか?」
…急な話題の転換についていけない。暫し考え、湧は首を横に振った。
「――心当たりが無ければ、それでも良い。…私が、君に会いに来たのは、忠告をするためだ」
そういうと、鳴瀧は表情をより深刻なものに改める。
「――『異変』というものは、平穏な日常の陰から、いつでもこちら側の世界に這い出て来ようとしている。…君が望むと望まざるとに関わりなく、『それ』はやってくる――」
どこか確信に満ちた言葉――まるで『それ』とやらが来る事を知っているかのような……。
「その事は、深い因縁――因果によって定められている事だ」
その一瞬、彼の瞳を苦痛の色が掠めたと見えたのは…気のせいだろうか?
「…私の言っている意味は、まだ判らないかもしれないが、憶えておくんだ。私の掴んだ情報が正しければ、ここ数日のうちに、この街で『何か』が起こるだろう。私の方でも、それに対処するために動いてはいるが……」
何を、するというのだろう…彼は――――そして、自分も。
「……いずれにせよ、くれぐれも気を抜かない事だ――ここ一、二ヶ月の間に君に近づいてきた者にも注意するんだ。いいね」
「――随分、親身になって下さるんですね?『関わるな』と言われた割には…」
最近近づいてきた怪しい人物の筆頭は、どう考えてもこの男だ。幾分かの皮肉をこめて言ってみる。
「そうだな…君の父親の友人としての忠告、と取ってくれてもいい」
鳴瀧は、だが全く動じることなく、ポケットから一枚の紙片を取り出すと湧に手渡した。
手書きの…どうやら、地図らしい。
「何かあったら、ここを訪ねるといい…私の道場がある。仕事で近いうちに海外へ旅立つが、暫くはそこに滞在している。また会おう…それじゃ」
そう言い残すと、鳴瀧は去っていった。
…結局、彼から聞けたのは、父が鳴瀧に遺したという奇妙な遺言と、不可解な予言めいた言葉のみ…。
「――弦麻父さんが…なんだって?」
さっき、鳴瀧は何を言いかけたのだろう?それだけでもちゃんと訊いておけば良かった、と思う…答えてくれたかどうかは怪しいものだが。
湧は暫し考え込んだ……が、やがて顔を上げると、もっと身近で切実な問題へと頭を切り替えた――すなわち。
「…野菜炒めか、麻婆豆腐か、それが問題だ」
――腹が減ってはなんとやら。
訳の判らない、そもそも起こるかどうかも定かでない『異変』などのために、現実の生活を疎かにはできないのである。
心の中でそう割り切ると、湧は当初の予定通り駅前のスーパーに向かった…目指すは特売品。
広告の茄子とピーマンと卵が彼を待っている。
「……なァ、姉ちゃん」
――その夜、石動家の食卓。
食事を終え、テーブルに頬杖をついた湧は、洗い物をしている澪の背中に声をかけた。
「ん、なァに?」
カチャカチャ、と手際よく皿や茶碗を片付けながら澪が応える。
「『なるたき とうご』って人、知ってる?」
カチャリ、と手が止まる。
「……誰?」
「――弦麻父さんの知り合いだって、言ってたけど」
一寸、首をかしげると、澪は洗い物を再開した。
「さァ、聞いたこと無いわね…会ったの?」
会った…というか、向こうから会いに来た、というか…。
「うん…向こうは俺の事、知ってたし」
「――――何か……言われた?」
こちらには顔を向けないまま、澪は訊いた。
「…ん、いや、大した事は何も――――そうだ」
嘘ではない…どう言ったら良いものか判らないだけだが、何となく後ろめたくて、湧は話題を変えた。
「――弦麻父さんって、どんな人だったっけ」
再び、澪の手が止まる。
「…どうしたの、急に」
――心なしか、さっきよりも声が硬い気がする。
「?…昔、天麻父さんが話してくれた筈なんだけど、なんか、よく憶えてなくてさ」
よく、どころか『全く』思い出せないのだが、それは伏せておく。
「…昔の話、だものね――私も小さい頃に会っただけで詳しくは憶えてないけど…良い人だったみたいよ?」
確か、中国で事故に遭ったんじゃなかったかしら、と続ける。
――そうだったろうか?やはり、頭に靄でもかかったように、思い出せない…。
…結局、あの時鳴瀧が言いかけた事はなんだったのだろう?
考え込む湧――――と、いつの間にか片付けを終えた澪が近づいて、言った。
「その人に、何を言われたのかは知らないけど…くれぐれも、危ない事はしないでね?」
幼い弟をたしなめるように微笑を浮かべながらも、その瞳に微かに浮かぶのは……不安?
「ダイジョーブ。メンドー事は起こしませン」
わざと明るく言ってみる…姉のこういう瞳は、苦手だ。――何ともいたたまれない様な、泣きたいような気持ちになる。
へーきへーき、大丈夫。繰り返し言うと、姉も明るい表情になった…不安が消えたのか、胸の内に押し隠したのか、それは判らないが。
ともあれ、その夜は何事も無くふけていった――――。
明日香学園――翌朝。
「――石動くん、おはよッ!」
教室に向かう途中で、そう声を掛けてきたのは、さとみだった。
「昨日は、荷物運ぶの手伝ってくれて、ありがと…ホントに助かったわ」
「あんなの、大した事じゃないって」
こう見えても、俺ってば男の子だし?とおどけて言うと、さとみも笑った。
「…そうだ、お礼って言っちゃ何だけど、良かったら友達への第一歩として、今日の放課後、比嘉くんも誘ってお茶でもしない?」
駅前に、美味しい紅茶のお店が…と言いかけて、慌てて声を潜める。――校則では、建前上寄り道は禁止されているのだ。
さとみは悪戯っぽく笑うと、放課後に迎えに行くから待ってて、と言った。
「じゃあ、またね」
「――――ん?今のさとみか?」
教室に向かうさとみを見送る湧の背中から、また聞き覚えのある声がかけられた。
「おすッ、石動。――さてはさとみに気に入られたな?」
からかっているつもりなのだろう…にやにやと笑みを浮かべて、比嘉が立っていた。湧は軽く肩をすくめる。
「まッ、仲良くしてやってくれよ。あいつ、ああ見えても意外と奥手だからさ」
『腐れ縁の幼馴染』と称するだけあって、彼女のことはよく判っているようだ。
「おッ、そうだ。放課後、喫茶店にでも寄ってかないか?俺と君の友情の証に…さ。なんなら、さとみも誘って――」
「…気が合うねェ、君たち」
ここまで考える事が一緒だと、幼馴染どころかまるで夫婦である。
怪訝な顔をする比嘉を、呆れ半分からかい半分に湧は笑った。
「――離して下さいッ!!」
「ん……?」
突如上がった声に辺りを見回す二人。
「あ…あの…離して、下さい…」
二人の男子に腕を掴まれて、そう声を上げているのは、確か…?
「あれは、石動のクラスの女子じゃないか…?」
先に気づいたのは、比嘉の方だった――言われてみれば、見覚えがある。
男子たちの方は…A組の生徒だったろうか?
「ちッ、何で誰も助けてやらないんだ?…おいッ!」
強引に連れて行こうとするのを見かねて、比嘉はその三人を止めた。湧もその後をついていく。
「……?」
急に呼び止められて、こちらを見返す二人の男子。――周りの事など、目に入っていなかったらしい。
「何やってんだよ、嫌がってるじゃないか」
並んでみると、その男子たちより比嘉の方が体格はいい。
「比嘉くんッ」「比嘉……」
助かった、という顔をする女子とまずい奴に見つかった、といいたげな男子たち。
「その手を離せよ…」
比嘉に見据えられ、一方の男子は眼を逸らした。――苛立った比嘉は、力づくで彼らを引き剥がす。
「――全く、何やってんだよ」
溜息交じりに言う比嘉と、悔しげに顔を歪める男子。
「まァ、昔から『嫌よ嫌よも好きの内』とは言うけどさ…こういう場合は、ちょっとマズイんじゃないの?」
短い沈黙、そして――、
「莎草さんが、連れて来いって言ってるんだ……」
出たのは、意外な言葉だった。
「莎草が…?」
一瞬呆気に取られた比嘉の隙を突いて、もう一方の男子が女子の腕を掴み、連れて行こうとする。
「来いッ――――痛てェッ!?」
湧はとっさに割り込むと、その男子の手を手刀で払っていた。
「…大丈夫?」「え、えェ、ありがとう」
女子を男子二人から遠ざける湧。
比嘉も湧と並び、二人で女子を背後に庇う形になる。
「どけ、お前ら……」
睨みつけてくる男子に負けじと、比嘉も彼らを睨んだ。
「どけと言われて、どける訳無いだろ?…どうしたんだよ、一体。何で莎草の言いなりになってんだよ?アイツに何か借りでもあるのか?」
二人とは顔見知りなのだろうか、言いつのる比嘉に彼らの答えは、
「…アイツは…恐ろしい奴だ…」
…普通、同級生に向かって使う言葉ではない。怪訝な顔をする比嘉と湧に向かって、彼らは更に言った。
「アイツには…アイツには、誰も逆らえない…」
「お前らにも今にわかるさ、アイツの恐ろしさが…」
そう言うと不意に、何かに怯えたように彼らは走り去った。
「――行っちゃったよ…何なんだ、あいつら?」
「…さァ?」
「あ…ありがとう、比嘉くん、石動くんッ」
首をかしげる二人に、助けられた女子が礼を言う。
「あァ、大丈夫だった?…一体、どうしたんだ」
事の原因を聞く比嘉だったが、彼女にも判らないようだった。もう一度礼を言うと彼女は教室に戻っていった。
「全く、何なんだろうな…石動、どうした?」
比嘉が頭を掻きながら言う――湧は、さっき男子の手を払った自分の左手を見ていた。
「ん…あァ、いや何でも……あれ?」
歯切れの悪い返事を返した湧は、階段の方を見て声を上げた。比嘉はその視線を追う。
「莎草……?」
こちらを見ていたのは莎草だった…。口元に嘲るような笑みを、瞳の奥には暗い熾き火のような光を湛えて。
視線が合ったのはほんの1、2秒といった所か。莎草は二人に背を向け歩き去った。
「…あいつ…何を見てたんだ?」
比嘉の問いに答える者はいない。一時間目の予鈴が鳴り、比嘉と湧はその場で別れ、教室に入った。
席に着いて、湧はもう一度自分の手を見る。
(――何で、あんな事したんだろう…?)
…別に、あの少女を助ける気など無かった。普段の自分なら、あんな連中は放っといてさっさと教室に戻っただろう。
成り行きで、自然に身体が動いた…としか言い様がない。
(――あいつらの、せいか?)
さとみと比嘉…あの二人に逢ってからどうも調子が狂い始めた気がする――しかし、その感覚は決して不快ではなく。
……ふと、右目の奥がちりり、と疼いた。何かを思い出しそうな、そんな感覚……。
「――きりーつ。礼――」
…だが、それがはっきりとした形をとる前に、日直の号令が湧を現実に引き戻した――――。
【三、傀儡師】
体育館裏――同日、放課後。
「いッ、痛い…、離してよッ!」
「…連れてきました」
そういうと、少年は痛みに声を上げる少女を突き飛ばした。
その場には、数人の少年たちが立っていた。そして中心にいるのは、莎草……。
「なッ、何よォ……あんたたち…」
少女は気丈にも彼らを睨みつけるが、少年たちは無言のままだった。
やがて、莎草が口を開く…苛立たしげに。
「くそッ…女っていうのは、どいつもこいつも俺の神経を逆撫でする」
「あ…あんた、確かA組の転校生でしょ?あたしに何の用なのよッ!」
少女は言い返す…が、そんな様子を全く気にせず、莎草は一方的に言いつのる。
「…俺が怒っているのは当然だと思わないか?逆さに撫でられりゃ、神経じゃなくても気持ちが悪いだろ?撫でるなら、ちゃんと撫でろ、ちゃんと――」
「バカな事言ってないで、放しなさいよッ!!」
思わず、キレて怒鳴りつけた少女に、ようやく莎草は反応を見せる……だが。
「……言葉に気をつけろよ。俺は今、虫の居所が悪い…」
――それは情況を好転させるものではなく、少女はその冷ややかな視線と言葉に込められた怒気に息を呑んだ。
「お前…昨日、俺の事を気持ち悪いといったな?――俺の視線がいやらしい…とも」
一瞬、訳が判らなくなり、やがて彼女は昨日の教室での諍いを思い出した――あの事のためにわざわざ呼び出された?
「あッ、あんたが、あたしたちの事じーッと見てるのが悪いんでしょッ!!」
彼女は混乱と怒りの中、言い返した。――その言葉が自分自身を追い詰めるとも気づかずに。
「悪い…?…そうか、悪いのか…」
さも意外な事を言われた、といわんばかりの莎草の口調――だが。
「――くくくッ…それじゃ、裁判をやらなきゃならないな。お前の言っている事が正しいのかどうか…」
はたして、莎草は嬲るような笑みを浮かべた。
「何言ってんのあんた…頭おかしいんじゃないの?」
彼女の言葉も意に介さず、莎草は周りにいる少年たちを見回した。
「……被告――莎草覚が、女生徒Aを見た事に対して、有罪だと思う者――」
無論、誰も口を開かなかった。莎草は重々しく宣言する。
「では、判決を言い渡す。被告は、無罪――」
――当然だ。こんなものは裁判とも呼べない…いわば陪審員たちが全員、被告の手下なのだから。
「ばっかじゃないのッ!?下らないッ!!あんたたちのアホな裁判ごっこに付き合ってられるほど、あたしは暇じゃないの!帰らせてもらうわよッ!」
怒りに任せて一気にまくし立てると、彼女は踵をかえした。だが、少年たちの一人が立ち塞がる。
そして…。
「…それでは、原告に判決を言い渡す」
耳を疑うような、莎草の台詞に彼女は思わず振り向いた。
「な…なんであたしが裁かれなきゃならないのよッ?!」
眼を剥いて怒鳴る彼女に、莎草は平然と告げる…まるで始めから決めていたかのように。
「…純粋な少年の心を傷つけた罪は重い。『あれ』を、原告に渡せ……」
莎草が顎をしゃくると、少年の一人がポケットから取り出したのは、一本のボールペン。
呆気に取られる少女…そして、莎草は少女に向かって宣告した。
「――判決を言い渡す。原告を有罪とし、眼球串刺しの刑に処す――」
「え…?…――――ッ?!」
ビクン、と少女の身体が震え、右手がひとりでに少年の持つボールペンに伸ばされる。
「か、身体が…ッ、腕が、勝手に…ッ」
ボールペンを掴んだ手は、彼女の意に反して、ゆっくりとその先端を顔に近づける。
「い…嫌……」
理解できない現象と眼前に迫る恐怖に、彼女は泣き声を漏らす。莎草はそれを見て残忍な笑みを浮かべた。
「眼に…眼にペンが……」
目蓋を閉じたくとも許されず、だんだんと近づく切先を見つめるしかない少女。
くくッ、と莎草が嘲笑った。少年たちの内何人かは、堪えられなくなったのか、眼を伏せる。
「いッ、嫌ああァァァァッ!!!」
限界まで見開かされた右目に、遂にペンの切先が届いた。
――じゅぷり、ずぶッずぶずぶずぶッ…。
血涙を溢れさせながら、眼球に容赦なく埋め込まれるペン…少女の左目がグルン、と裏返る。口元からは泡が吹き出した。
ペンがひとしきり右眼を掻き回すと、激痛に意識を手放し、彼女は地面にくずおれた。
「くくッ…くくくッ……あーははははははははッ!!!」
静かな体育館裏に響く、莎草の哄笑。それは、独裁者の傲慢さと狂気に満ちていた――――。
明日香公園――夕刻。
「――すっかり、遅くなっちゃったな」
暗くなった空を見上げて、比嘉は言った。朝の約束どおり、湧、さとみ、比嘉の三人は放課後待ち合わせて喫茶店に寄ることにした…のだが。
「全く、比嘉くんがいけないんだからねッ。宿題なんて忘れて、先生に呼び出されるから」
「…だけどさー、たかが宿題忘れたくらいで説教も無いと思わない?小学生じゃないんだから」
怒って、というより呆れたように言うさとみと、それに気弱げに反論する比嘉…二人の力関係が見えるようだ。
「小学生は、注意されたら守ろうとするものね。毎回毎回忘れてくるんじゃ、怒られて当然でしょ?」
ぐっ、と詰まる比嘉を見て湧はこっそりと笑いを噛み殺した。
カカア天下、などと言ったら二人は怒るだろうか?
そんな事を考える湧に「石動くんもそう思うでしょ?」とさとみが声をかける。
「…そう言ってやるなよ、青葉。トモダチじゃあないか」
少しだけ考えるフリをして言った。呆れた顔をするさとみと、思わぬ味方の出現に喜ぶ比嘉。
「やれやれ…こういうのを甘やかしても、何にもならないわよ?」
まあまあ、と言いながら比嘉の肩に手をかけた湧は、爽やかな笑顔で言い放つ。
「――この詫びは、パフェ一杯で許すから。無論、キミの奢り」
ピキッ、と音を立てて比嘉の笑顔が固まった。
「…そうね、終わるの待っててあげたんだもん、トーゼンよね!」
「まさか嫌とは言わないよなァ、た・く・み・クン?」
笑いながら口々に言われ、比嘉の脳裏に『四面楚歌』という言葉が浮かぶ。
「マジかよ……」
情けない顔をして呟く比嘉に、思わず湧とさとみは吹き出した――。
「――そういえば…」
「なッ、何だよッ。そんな高いものは奢れないからなッ」
ふと呟いたさとみに、すかさず予防線を張る比嘉。どうやら、本気で小遣いが危ういらしい。
「あははッ、そうじゃなくて。…比嘉くんって、莎草くんと話をした事ある?」
――莎草覚。不意に出たその名前に、比嘉と湧は一瞬顔を見合わせる。
「いや…すれ違いぎわに話したぐらいかな……何か、あったのか?」
浮かない顔をしたさとみを見て、比嘉が尋ねる。この時、比嘉と湧の頭にあったのは今朝の出来事――。
彼女にまでちょっかいをかけてきたのだろうか?言いよどんでいるさとみに、湧も話の先を促す。
「今日の昼休みなんだけど…莎草くんがあたしの席まで来て、『俺の女になれ』…って」
出てきた内容は少しばかり意外なもので、男二人は「…はァ?」と口を開けた。
「『俺と付き合え』…って。あたし、全然莎草くんの事知らないし、話した事も無いから…比嘉くんなら、何か知ってるんじゃないかと思って」
「なるほどねェ…」
顔をしかめる比嘉…その瞳に微かに複雑な感情が浮かぶ。だが、比嘉本人は意識しているのかいないのか、ニヤリと笑って言った。
「しかし、物好きがいたもんだな。絶対、尻に敷かれそうだ」「そうそう、お前みたいになッ」
比嘉の軽口に合わせて湧もからかう。さとみはもう、と声を上げた。
男二人が宥めて先を促す。――結局さとみは交際をきっぱりと断わったとの事だった。
これだけなら、まあ言い回しはともかく、どこにでも普通にある事だ。
…しかし、この話にはまだ続きがあった。
「――凄い形相で睨みつけられて…『俺から逃げられるとでも思ってるのか』…って」
断わられた莎草が、さとみに向かってそう言ったのだという。
「…どういうつもりなんだ、莎草の奴」
さすがに、難しい表情になる。比嘉と湧は朝の男子たちの言葉を思い出していた。
『あいつは、恐ろしい奴だ…あいつには、誰も逆らえない』
普通の生活では冗談にもならない台詞が、徐々に現実味を帯びてくる…そんな、不気味な感じがした。
「……明日にでも、俺が話してみるよ」
比嘉は言った。更に、深刻になりかけた雰囲気を誤魔化すように軽口を叩く。
「一体、さとみのどこが気に入ったのか、興味あるしな」
「どういう意味よ!」
お約束なやり取りに湧が吹き出し、比嘉も笑った。それにつられるように、さとみの顔にも笑みが戻る。
「くッくッ…あー、いいや。お前ら、最高」
…今までの、誰からも一歩引いた付き合いからは得られなかった不思議な感覚に、湧は何ともいえない心地良さを感じ始めていた。
――空っぽだった『何か』が満たされるような感覚…湧にはまだ、それが何なのか判らなかったが――
「はははッ…それじゃ、早く行こうぜッ!」
比嘉が言い、三人は喫茶店に向かった。
……十数分後。よりにもよって特大パフェを注文した湧とさとみに、比嘉が涙したのは言うまでも無い。
1997年12月17日
明日香学園中庭――昼休み
「石動――」
中庭の芝生で弁当を食べ終えた湧に、比嘉が話し掛けてきた。
「おすッ…聞いたか?昨日の事件…」
女生徒が自分の眼をペンで刺した事件…しかも自分のクラスの女子という事で、その話は朝から散々聞かされていた。
何でも、悲鳴を聞いた野球部員が体育館裏で血塗れの女生徒を発見したらしく、駆けつけたとき、辺りには誰もいなかったそうだ。
その女生徒は命には別状無いとは言うものの、右目は完全に潰れ、酷いショック状態らしい。
何故一人でそんな所にいたのかは判らないが、どうやら自分で刺したのは間違いないとの事で、学校側は受験ノイローゼと説明していた。
「一体、何がどうなってんだか……」
身近で起きた陰惨な事件に、比嘉は溜息混じりに呟いた。
一方、湧は思い出す…一昨日出会った男、鳴瀧の言葉を。
『ここ数日の内に、この街で何かが起こるだろう…』
(これが…その『何か』なのか?)
確証など無い…『ノイローゼ』と説明されれば納得できる程度の事件なのだから。だが、何かが心に引っ掛かっていた。
――普通ならこんな時、友人に相談するのだろうか?
「…なァ、焚実――」
言いかけて口篭る……何と言えば良い?『数日前に会った見知らぬ男が、今回の事件を予言していた』とでも?
馬鹿馬鹿しい…笑い飛ばされるのがオチだ。
そう思い直し、怪訝な顔を向ける比嘉から眼を逸らす――――と。
「――あれは…莎草?」
見覚えのある姿に知らず呟いた。それを聞いて比嘉も同じ方向に眼を向ける。
「おッ、ホントだ―――おいッ、莎草ーッ!」
「…焚実ッ!」
駆け出そうとする比嘉を思わず呼び止めた。
どうした?と振り返る比嘉…だが湧自身にも何故呼び止めたかなど解らず、
「いや、その…気をつけて」
…間の抜けた返事しか出来なかった。比嘉は苦笑して、
「あのなァ、いきなり喧嘩売るわけじゃないんだからさ…大丈夫だよ」
そう言うと、莎草の傍に駆けていった。
間もなく、予鈴が鳴った…もうすぐ昼休みが終わるのだ。
(――何だろう?胸騒ぎが消えない…)
考えて思い浮かぶのは、昨日の男子生徒の言葉……それに、自分の眼を潰した女生徒は、確か莎草と言い争ってはいなかったろうか?
極めて薄弱な根拠ではあるが、最近起こった『異変らしい異変』には何故か莎草の姿がちらつくのだ。
仏頂面の莎草と、努めて明るく話し掛ける比嘉を見ながら湧が考え込んでいると――。
「うるせェッて言ったんだよォッ!!」
不意に、莎草が比嘉を怒鳴りつけた。
呆気に取られる比嘉に莎草がなおも言い募るのを見て、湧は二人に駆け寄った。
「人形だよ、に・ん・ぎょ・うッ!!」
?…話が見えない。近づいて比嘉を突付くと、彼も戸惑った様子で『お手上げ』と言うように肩を竦めた。
「人形ってのは『人の形』って書くよな?何で、鳥や動物の人形は鳥形とか獣形っていわねぇんだよッ!!おかしいじゃねェかッ!!」
一人でわめき散らす莎草の様子は、完全に常軌を逸しているように見えた。
比嘉は何とか話を元に戻そうと、莎草の肩に手を伸ばした――――その瞬間。
「糞みたいな汚ェ手で、俺に触るんじゃねェッ!!」
――――ズキンッ――――
「…ッ!?」
突然走った激痛に、湧は思わず眼を瞑ると掌で右目を押さえた。
(――――《力》が――――)
「イイ気になるなよ……比嘉」
先刻とはうって変わって静かな莎草の声に、湧は左目を開いて二人を見る。
「うッ、腕が…動かない…」
驚愕の表情を浮かべ固まった比嘉を、莎草が乱暴に突き飛ばす。比嘉はそのまま尻餅をついた。
「…そっちのお前も、俺をナメんじゃねェぞ」
歪んだ笑みを浮かべ、そう言う莎草…湧は痛みのあまり溢れる涙を堪え、薄く右目を開けた。
(――――?!)
紅い、光――血の色を思わせる、禍々しい紅い輝きが莎草の身体を包み…いや、彼の内から溢れ出すのが“視え”る。
その輝きの一筋は、まるで糸か何かのように比嘉の身体にも絡み付いていた。
(――何だ……?これは…)
痛みも忘れ、暫し呆然とその光を眺める湧を、莎草が怒鳴りつけた。
「シカトすんじゃねぇよッ!俺は、無視されんのが一番ムカつくんだよッ!!」
怒りの矛先がこちらへと向かう…と、それに呼応するように紅い光も湧の方に動き出した。
(――――《力》の、匂いがする……)
ズキン、ズキンッと強まる右目の痛みに身動きも出来ず、湧は近づいてくる光を見つめた。
「おいッ、お前ら、何やってんだ?」
その時、予鈴が鳴っても中庭を動かない三人を不審に思ったのか、男教師が声をかけた。
「もう、授業が始まるぞ」と注意しにくる教師を見て、莎草が忌々しげに舌打ちをする。
「…まァ、いい。お前らは俺の操り人形だ…逆らう事なんか、出来やしないのさ…」
言い捨てると、莎草はその場を去った…嘲笑を残して。同時に紅い光も消える。
「くッ――。――――!?……身体が…動く。これは、一体……?」
呆然としつつ、身を起こす比嘉。それに応えず、湧は呟いた。
「――――操り…人形…?」
湧の右目は、未だ疼いていた――――。
(――まだだ……まだ、足りない……)
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