【四、決意】
「石動くん――」
放課後、湧の席に浮かない顔をしたさとみがやって来た。
「…あの…ちょっと、話があるんだけど……いい?」
「――駄目だよ、さとみちゃん」
湧は重々しい声で応えた。
「え……?」
目を瞠るさとみに構わず、湧は続けた。
「会ったばかりの俺に愛の告白なんて…焚実に悪くてさ。済まないけど、俺の事は諦めてくれ…」
ああッ、俺って何て罪な男…と続けられて漸くからかわれている事に気づいたのか、さとみが険悪な顔になる。
「…い・す・る・ぎ・くん?」
半眼で睨まれ、湧はペロッと舌を出した。
「悪い。真面目な話みたいだな……外に、出ようか」
「――焚実の事だろ?」
校舎の裏に来るなり、湧は言った。さとみが目を瞠り、ややあって頷く。
「午後から何だか様子がおかしくて…石動くんなら何か知ってるかも、と思って来たんだけど…」
間違いない、あの事だろう…湧は『紅い光』のことだけを伏せて、昼間の事を話した。
「…そう、そんな事が……比嘉くん、あたしが訊いても『お前には関係ない』って言うだけで…」
彼女に心配させたくないのだろう…何となく解る。自分も姉に話せない事はあるから。
…けれど。
「――お願い…石動くん、比嘉くんを救けてあげて。…比嘉くん、凄く苦しんでる。お願い…」
思い詰めたさとみの表情に、胸がちりりと痛む。
大切に想う相手が何も言ってくれない、頼って貰えない事が却って彼女を傷付けているのだろうか?
だとしたら…もしかすると、自分も…?
「…心配すんなよ、さとみちゃん」
出来るだけ、気楽な調子で声をかける。
「今はちょっとだけ落ち込んでるみたいだけどさ、何日かしたらケロッとしてるって。あいつ単純だし?」
何なら、心配かけた詫びにまた奢らせるってのも…、と言うと彼女も苦笑がちにではあるが表情を和らげる。
「――ありがと…石動くんと話してると、何だか気持ちが楽になるみたい」
比嘉くんの事、頼んで良い?と訊くさとみに、湧は自信たっぷりに胸を叩いて見せた。
「そうそう任しとけって!泥舟に乗った気でどーんと」
「…『大船』でしょ?」
ワザとらしい位ベタベタのボケだが、それでもさとみは微笑んだ。
――――毅い娘だな、とふと思った。
…そんなお気楽な話で済まないのは、判っていた。
さとみと別れた後、湧はA組まで比嘉を迎えに行った。
「デートの誘いか?」とふざけて見せる比嘉に、同じく軽口で返したのだが…。
「……ちょっと、待ってくれ」
一緒に下校する比嘉は、ふと真剣な面持ちで湧に問い掛ける。
「石動…お前、平気なのか?…何も、感じないのか?」
じっと比嘉の顔を見返す――その瞳に映るのは、怖れ…この場には居ない、『彼』への。
「俺は、この学園が…こうやって、この場に居るのが…怖い。明日になれば、また何かが起こる…きっと」
…莎草の発したあの『紅い光』は、彼には見えなかった筈だが…いや、直接その対象となった事で、明らかな常識外の異変を感じ取ったのだろう。
「あいつは……莎草は、普通じゃない。誰も、逆らえる訳が無い、あんな…ッ」
昼間の体験を思い出したのか、微かに身体が震える。
「…あいつのあの瞳で睨まれた時、俺は身体が動かなかった。何も出来ない…俺達みたいな普通の人間じゃ。けど、このままじゃまた誰かが…ッ!」
何も言えない…何も、出来ない。湧自身、あの『光』を見ても何一つ出来なかったのだ。
…悔しい。目の前でこんなにも怯え苦しんでいる友達を前に、何もしてやれない自分が――数日前には、こんな気持ちになるなど考えもしなかったのに。
戸惑いを感じながらも、今はただそれだけが悔しく、哀しかった…。
「石動君――」
校門の所で、見覚えのある長身の男性が立っていた。
「なる、たき…さん?」
何で…?と問い掛ける湧に向かって、鳴瀧は穏やかに微笑んだ。
「そろそろ下校する頃だと思ってね…待たせてもらったよ。君と、少し話がしたくてね…良いかな?」
でも、と湧は比嘉に視線を向ける――こんな状態の彼を放って置くことは、出来ない…。
その様子を見て眉を顰める鳴瀧。比嘉に配慮してか、静かに、何気なく訊いた。
「――何か、あったんじゃないかね?『何か』が…」
だが、その言葉に比嘉が反応した。
「あッ、あのッ!何か知っているんですかッ!?」
「…君は?」
いきなり会話に割り込んだ非礼に気づき、比嘉は慌てて自己紹介をした。そして、勢い込んで鳴瀧に疑問をぶつける。
「さっき、『何かあった』って言ってましたけど、この学園で起こっている事を、何か知っているんですかッ!?」
鳴瀧は何も答えない。感情を窺わせない瞳で、ただ比嘉を見つめる。
「あの…ッ?!」
必死の形相で声を荒げる比嘉…それを遮るように鳴瀧は言った。
「ここでは何だ…付いて来たまえ。私の道場に行こう…」
仕方ないな、と言わんばかりの溜息が、微かに聴こえた。
「君に地図を渡したこの道場は、私が校長を勤める拳武館という高校の道場の一つだ。遠慮なく、寛いでくれ…」
「――と、言われても……」
大層立派な道場の真ん中で正座する、男三人…いっそ座禅でも組めば落ち着くのだろうか?
「あの――」
ここに来るまでに、質問一つさせて貰えなかったため我慢の限界なのだろう、比嘉が口を開く。
「…この世界には、君たちが想像も出来ないような《力》が存在する」
静かに、鳴瀧が話し出した。聞き逃さないよう、口を噤む比嘉。
「今年の始めから、東京を中心に猟奇的事件が多発している。ちょうど今、君たちが体験しているような事件がね…」
「…鳴瀧さんは、どの辺りまでご存知なんですか?」
湧が口を挟む。知りたい事、訊きたい事は山ほどあった。
莎草の周りに見えた『光』や、この前訊きそびれた父の事についても…。
「――今回の件については、目下調査中といった所だ。いずれは、解決する」
いずれは…って、と比嘉が声をあげる。
「異変は今、起こっているんですよ!?俺たちの学園で――」
湧も同感だったが、鳴瀧の返事は素っ気無かった。
「やり過ごす事だ」
関わり合いにならない事が、今の君たちにとって最善の方法だ…と。
「…君たちがこれ以上の事を知る必要は無い。――もう時間も遅い…奥に休める場所もある、今夜はここに泊まるといい」
「鳴瀧さん、待っ…」
「待ってください…ッ!!」
立ち上がり、去ろうとする鳴瀧を、湧と比嘉は引き止めた。
「俺たちの同級生が襲われているんです…それを、見て見ぬフリをしろって言うんですか?」
友達を見捨てろ…そう言っているのだ、目の前の男は。
「そんな事、出来るわけ無いじゃないですかッ!そんな事…」
比嘉が憤りもあらわに言う。そんな比嘉と全く対照的に、冷たい声音で鳴瀧は訊いた。
「それでは訊くが、君たちが立ち向かって敵う相手だと思っているのか?…斃せる、相手だと」
二人は言葉に詰まる…あの《力》と実際に対峙した彼らには、突きつけられる現実は重いものだった。
「敵わない相手に戦いを挑むのは、勇気ではない――それは、犬死だ」
無情な台詞を残し、鳴瀧は道場を後にした。二人は反論も出来ず、ただ押し黙るしかなかった――――。
――――血の、臭い。
身体中がズキズキと痛む…黒い煙に激しく咳き込むが、車の座席らしきものに挟まれて身動きが取れない。
視界の隅で、人影が動いた。メキメキメキ…と金属の軋む音がして湧の身体が解放される。
「――湧くん、良かった…」
優しく抱きしめてくれる、全身を朱に染めたその女性は…、
「…ねえ、ちゃん…」
酷い怪我してるよ?父さんと母さんは?…訊きたいことはあるのに、言葉が出てこない。
「――居ないのよ」ポツリと、澪が呟く。
「誰も、居ないの…父さんも母さんも……私たち二人だけ。もう、誰も居ないの……」
抱きしめる腕は震えていて、温かいのにとても儚く感じられて。
「――泣かないでよ、姉ちゃん、泣かないで……」
この温もりを喪いたくなくて、湧はただ必死に言葉を紡いだ――――。
「…闘わないで…」
いつの間にか血の臭いも黒煙も消えて、湧は生家の道場に居た――伯父夫婦が死んですぐに処分されたものだ。
目の前には白い道着に身を包んだ澪…伯父の死後、道場で最期に稽古をした日だ、と思い出す。
「――『石動』の技は、自分の身を護る為だけに使って……決して、自分から闘わないで」
静かに自分を見つめる、姉の瞳…潤んだ瞳はあの日、血塗れで泣いていた姉を思い起こさせた。
「もしも…“目醒めて”しまったら、もう後戻りは出来なくなる…」
お願い……あなたまで、居なくならないで――――。
(……泣カナイデ。…約束、スルカラ)
――――ダレモ、ウシナイタクナイ……ダカラ、ダレトモ、カカワッチャイケナイ――――
――――右目が、疼く……。
見慣れない木目の天井に一瞬混乱して、思い出す。
(鳴瀧さんの道場に、泊まったんだった…)
横の布団には、比嘉が眠っている。時計は…午前二時を指していた。
比嘉の目を覚まさせないよう、静かに身を起こす。
(…ノーテンキな顔して寝てるよな…)
笑みが漏れる。さとみといい彼といい、見ていて飽きない…一緒に居るのが楽しい。
しかし、その寝顔に昼間の彼の顔がだぶる…やり場の無い憤りと無力感に苛まれ、苦しむ顔――。
――――誰トモ関ワラナイト、約束シタデショウ?――――
右目の痛みと共に、思い出す…十年前の、約束。――放っておけば良い…今までそうして過ごした様に。
…なのに。胸が苦しい…姉を哀しませたくないのと同じくらい、彼らが苦しむ姿も見たくないと思う。
相反する気持ちを持て余し、湧は部屋を出る。
夢のせいだろうか?ふと懐かしさを覚え道場へ向かった――。
真夜中の道場…清冽な雰囲気にすうッ、と息を吸い込んだ。――伯父の道場もこんな風だった、と思い出す。
「――眠れないのかね?」
不意に背後から声をかけられて振り向く。微笑みを湛えた鳴瀧が、そこに居た。
「私も仕事があってね…今夜は、徹夜になりそうだ」
「…息抜きですか?」
目を逸らし、応える。――正直、今の不安定な気持ちを抱えて彼に会いたくは無かった。
暫しの沈黙……それを破り、鳴瀧は穏やかに話しかけた。
「比嘉、焚実君だったかな…彼は、君の親友かね?」
言われて戸惑う…親友、などというものはフィクションの中でしかお目にかかった事は無い。
「……友達、です」
多分、とは流石に言わなかった。彼らに感じるこの『想い』は恐らく友情、と呼ばれるものであろうから。
そうか、と鳴瀧は微笑む。皮肉めいた所の一切無い、どこか安堵したような笑み。
「――湧君…君は、『強くなりたい』という願望はあるかね?」
訊かれて、湧は考え込んだ――以前なら、即答できた疑問…しかし、今は……?
「…三日前なら『どうでも良い』って答えたと…思います」
「今は違う、かね?……何故だ?強くなって、どうする?」
「…………泣き顔を…見たく、ないから」
怪訝な顔をする鳴瀧に構わず、湧は続ける。
「思い出したんです…忘れていた、約束を。或る人を哀しませたくない、だけど…あいつらが苦しむのを見てるのも、厭なんです。だから…」
両方とも護れるだけの『強さ』が…今は欲しい。
「――他人を護る、と?…本気でそんな事を考えているのか?そんな事が本当に出来ると…」
鳴瀧の声が低くなる…感情を押さえ込むかのように。
「それではもし…もし、仮にだ…君の、誰か大切な人が今回の事件に巻き込まれたらどうする?その『誰か』の為に、事件を引き起こしている者と闘うかね?相手に勝てないと判っているとして…だ」
もしも、ではなく今回の事を指しているのだろうな、と湧は思う。
そして…今の鳴瀧の言葉に、捜していた『答え』を見つけた気がした。
「『誰かのため』…じゃないんですよ」
知らず、笑みを浮かべていた――その顔を見て、鳴瀧は胸を突かれた様な表情になる。
「俺が、見たくないんです…彼らの苦しむ顔を。俺に、何か出来ることがあるなら、その可能性が少しでもあるのなら、何かしたい…俺の、ためなんです」
出来る事もせずに諦めて、後悔なんて、したくないから――。
そう言い切った湧に向かって、鳴瀧は声を荒げた。
「…馬鹿げているッ!!そんな甘い事でお前は…誰かを…何かを守る為に命を落とすなど…遺された者たちの気持ちはどうなる?俺たちの『想い』をどうやって受け止めてやれると言うんだ、お前は……ッ!?」
静かに見つめ返す少年の瞳に、鳴瀧は我に返った。苦笑して、「…すまない」と詫びる。
「……不思議だな…君と話していると、まるで弦麻と共に居るようだ……ひどく、懐かしい気にさせられる…」
暫し、鳴瀧は目を細めて湧の顔を見つめ――――やがて真剣な表情になると、言い聞かせるように告げる。
「私は、君には平穏な暮らしをして欲しいと思っている。それが…私が弦麻と迦代さんから託された、願いなんだ」
真摯な口調…心底湧の身を案じるようなそれに、僅かに苦痛の色が混じる。
「――何かを護ろうとすれば、それがかけがえの無いものであるほど、人は大きな代償を払わなくてはならない…君には、そういう生き方をして欲しいとは思わない」
この人も、昔『何か』を喪ったのだろう…それは、多分――。湧は素直に頷いた。
「…明日も、学校だったな。少しでも休んでおく事だ」
そう言い残して道場を立ち去る鳴瀧の背中に、「有難うございます」と声をかける湧。
だけど、と心の中で続ける。
(…済みません。もう、決めてしまったから。『その時』が来たら…俺は、きっと……)
その瞳には、強い意志の光があった――――。
1997年12月18日
明日香学園校庭――早朝
「おはよッ!石動くん、比嘉くん…二人一緒に登校?」
――翌朝、大勢の生徒が挨拶を交わす中、さとみが声をかけてきた。
「いよッス、さとみちゃん」「あッ、あァ…おはよう」
見事に明暗分かれた二人の返事に、さとみが気遣わしげな表情で比嘉を見る。
「…比嘉くん、何か悩み事が…」
あるんじゃないの?と言いかけるのを遮って比嘉がごまかす。
「なッ、なんだよ、そんな顔して。さとみは元気だけが取り柄なんだからさ」
はははッ…と笑って見せるが、今回ばかりはいつものようには行かない。
「ほらッ、行こうぜ二人とも」
見かねて湧が助け舟を出す…が、
「ん…?あれは、莎草……?」
校舎の方を向いた比嘉が、莎草の姿を見つけてしまった。
彼は数人の男子生徒を引き連れて、裏門を出て行く所だった。
「……俺、ちょっと見てくるよ」
思い詰めた表情で言う比嘉を見て、湧は密かに溜息をついた。
「じゃあな」
「…待って、比嘉くん」
背を向ける比嘉を、さとみが引き止める…言い知れぬ不安に瞳を揺らして。
「――嫌な予感がするの…凄く。お願い、二人とも…莎草くんにはもう、関わらないで」
見つめる彼女から比嘉は辛そうに目を伏せ…だがすぐに顔を上げると、言った。
「…俺は、やっぱりアイツをこのままには出来ない。見て見ないフリなんて、出来ない…」
「だからって…」
何も比嘉君が行かなくても、と言うさとみを遮り、はっきりと、迷いの無い口調で比嘉は続ける。
「――さとみ。ここで行かなかったら、俺は、自分の心に負ける。弱い…自分の心に負ける事になる……」
比嘉くん、と泣きそうな顔で呟くさとみに、比嘉はぎこちなく笑って見せた。
「それに、あいつらは俺たちのクラスメートだろ?…友達を見捨てる訳には、いかないよ」
それからこちらを向いて「さとみを頼むぜ」と言う比嘉に、湧は告げた…たった一言。
「――阿呆」
きっぱりと、あんまりな事を言った湧に目を丸くする二人。構わずに湧は続けた。
「あの人数相手に、お前一人で何をやるって?ボロぞーきんにでもされたいか、このボケナス」
そう言いつつ一歩踏み出すと、からかう様にニヤリと笑う。
「…付き合うよ」
結局、この一言が言いたかったのだと気づいて、比嘉は苦笑した…捻くれた言い方ばかりする友人に呆れつつ。
「…ちぇッ、仕方ない。お前も物好きだな…」
「お前ほどじゃない」
身も蓋も無い返事をされ、更に苦笑する比嘉。先生を呼んで来る、と言うさとみを見送ると彼は歩き出した。
「じゃ、行こうぜ、石動――」
「――確か、こっちの方に…」
二人は莎草たちを追って、人気の無い公園内に来ていた。と、前方から二つの人影が現れる。
「比嘉……」
それは、先日女生徒を連れ去ろうとした、莎草の手下たち――A組の男子だった。
「お前たち…莎草は…?」「――比嘉…」
歩み寄ろうとした比嘉に、不意に『背後から』声がかかる。
思わず振り向いた彼の目に、自分めがけて振り下ろされるバットが映った――。
「――痛てェッ!!」
ぎゅッと目を瞑った比嘉に、いつまで経っても衝撃は来なかった…代わりに男の悲鳴が聞こえる。
「…不意打ちってのは、卑怯じゃないかな?」
目を開けると、湧が大柄な少年の手首を掴んでいた。さほど力を篭めているとも見えないのに、その少年は苦痛に顔を歪め、バットを取り落とす。
「教えて貰えないかな?『莎草くん』は今、何処に居るのか…」
そう言って僅かに手首を捻ると、少年は苦痛のあまり悲鳴を上げる。色めき立つ仲間の男子二人。
「おいッ、てめェ…」「邪魔するなッ、お前も痛い目にあいたいのかッ」
彼らの脅し文句に、湧は口元だけで微笑む…冷然と。
「――『誰が』、『誰を』痛い目にあわせるって?……引っ込んでなよ、腰抜けクンたち」
綺麗な顔で言うだけに挑発効果は抜群である。「石動…くん?」と思わず君付けで呼んでしまう比嘉に、湧はボソッと囁いた。
「焚実……先手必勝」
「…は?」
耳を疑う比嘉をよそに、手を掴んでいた少年を柔道の要領で、向かってくる男子二人の片方を狙って投げ飛ばす。
そのまま縺れ合った少年たちめがけ、突っ込む湧。残る一人は、走って来た勢いのまま比嘉に殴りかかる。
「えェい…くそォッ!!」
比嘉の、半ば自棄気味に振り上げた鞄が、突っ込んできた男子の鼻面に炸裂した――。
――決着は、ほぼ一瞬でついた。
「…ッたく、弱いぞお前ら」「……お前、強いのな…」
パンパン、と手をはたく湧を比嘉は驚嘆の眼差しで見つめた…友人の意外な側面に少し呆れてもいたが。
外見からはさほど強そうにも見えないのに、自分よりも大柄な相手さえ一撃で叩き伏せたのだ、彼は。
(顔に似合わず、口が悪いのは知ってたけどさ…)
湧にはとても聞かせられないような事を思いつつ、倒れている少年たちに目を向ける。
意識は失っていないようだが、未だ起き上がれないのか地面で呻いている。
「痛つつ……もう、俺たちに関わるな、比嘉…」
この異変が始まる前は、比嘉ともよく話していた少年だった。
複雑な表情で見返す比嘉に、彼は弱々しく訴える。
「お前のためを思って言ってるんだ。これ以上、莎草に…ッ!?」
(来た……)
――――ズキンッ――――
湧は右目を押さえた。覚えのある激痛…莎草の《力》を感じた時の――。
比嘉と話していた少年がギクシャクと首に両手を当てる…いや、自分の首を締め上げているのだ。
「――余計な事言うんじゃねェよ……」
「さの、くさ…」
公園の奥から、十人近い少年たちを引き連れて、莎草が現れた。
「よォ、お前ら……人形劇(へ、ようこそ」
嘲笑を浮かべる莎草を、比嘉は睨みつける。
「くくくッ…もうすぐ開演だよ、比嘉…この学園が、この街が、もうすぐ俺に支配される…」
「莎草…お前は、一体何者なんだ…?」
大仰に手を広げて見せる莎草に、比嘉は訊いた。だが、莎草はそれには応えず、
「そうそう、裏切り者には死んで貰わなけりゃ、なァ…」
言って目を細める――と、地に伏せていた少年が、いっそう強く自分の首を締め付けだす。
「う…ぐゥッ…、…ひ…が…、助け…ッ」「――莎草ァッ!!」
莎草に殴りかかろうとする比嘉…しかし、不意にその動きが止まった。
「――どうしたんだ?えェ、比嘉…」
にやにやと薄笑いを浮かべる莎草…一方、比嘉は歯をくいしばり顔に脂汗を浮かべていた。
「か、身体が…また、身体が動かない…ッ!?」「…焚実ッ!」
痛みを堪え駆け寄ろうとする湧の前に、莎草の手下が立ち塞がる。
「なァ、比嘉…それは、本当に『動かない』のか?」
莎草は比嘉に話しかけた…声音だけはいっそ優しげに。だが――、
「動かないんじゃなく、『動かせない』――お前の本能が、恐怖を感じているだけじゃないのか?細胞に刻み込まれた原始的な習性が、俺と闘うのを拒絶しているだけじゃないのか…え、『比嘉くん』…」
怒りと屈辱に顔を歪める比嘉を嘲笑い、莎草は続ける。
「正直になれよ、比嘉。…尻尾を巻いて、逃げてもいいんだぜ?なりふり構わず…友達を見捨てて逃げた所で、誰も『弱い』お前を責めやしないさ…そう、たかが人間のお前をな…」
どすッ、と鈍い音が響いた。
莎草がそちらを見ると、右目を閉じたままの湧が歩いてくる所だった…彼を押さえていた筈の手下は、いつの間にか地面に倒れている。
「それ以上、喋るな…」
静かな怒りを見せる湧に、莎草が僅かに後退る…本人も気づかずに。
だが、すぐ何かを思い付いた様に笑うと、別の手下に顎をしゃくった。
合図を受け、彼らが連れてきたのは――、
「「――さとみッ!?」」
湧と比嘉の声が重なる…それは、間違いなく学校で別れた筈のさとみだった。
どうやら意識が無いらしく、ぐったりとした状態で少年たちに抱えられている。
「さっき、公園の入口で『誰か』を捜してたようだったからなァ…特別ゲストとして、招待したって訳だ」
動けば…判ってるよな?そう言われた二人に、最早なすすべは無かった。
がつッ、と何か重い物で頭を殴られる…倒れこんだ所に蹴りが襲う――胸、腹、背中、顔…いたる所を蹴りつけられた。
「石動…ぐゥッ」
意識を失う寸前に湧が見たのは、莎草の手下に殴られて倒れる比嘉の姿だった――――。
【五、覚醒】
『――湧…』
低く、温かみを感じさせる、男の声…。
『強く生きろ…湧……』
(だ…れ…?)
『誰よりも強く…誰よりも優しく…』
目を、開ける――――。
そこにいるのは、道着を着て手甲を身につけた大柄な男――逆光で顔はよく見えないが、優しげな眼差しは判る。
そして彼が見ているのは、生後半年にも満たないような赤子――彼と愛しい女の間に産まれた、息子。
――温かい声と優しい眼差しに、頼もしさと安らぎを――
――小さな身体とつぶらな瞳に、儚さと愛おしさを――
それは、奇妙な感覚だった。男を見上げる自分…赤子を見下ろす自分…二人分の感覚を同時に感じているのだ。
男が――自分が…赤子に――自分に…何かを囁く。揺らぐ意識が、近づき…重なる時、音の羅列は漸く形を…意味を成した――。
『どうか…叶うのなら、平凡な一生を…――…だが、もしも…《宿星》がお前を闘いに導くなら、その時は…友のために…かけがえの無い友のために、その拳を揮え…護るべきものの為に――忘れるな…《力》とは何かを護ろうとする心から――…その心が…《力》になる……』
途切れ途切れの言葉は、だが、はっきりと心に刻み込まれる…忘れ難く――――。
「弦麻は…お前の父さんは、『護るべきもの』の為に命を落とした…」
――伯父さん…天麻父さん。
「『大切な人たちに、いつも笑っていて欲しいから』と言っていたよ…結局、最期にはその『大切な人たち』皆を怒らせ…哀しませて逝っちまったが…」
哀しげに、しかしどこか誇らしげに微笑んで、伯父は話してくれた…。
「だがなァ、湧……弦麻も、そして迦代さんも――少なくともあの二人は、懸命に『今』を生きていたよ…だから湧、お前も自分に恥じるような生き方は…してくれるな――」
十年間、忘れて…封じていた、言葉。
あの時は、まだ意味すらよく解らなかったけれど…多分、今なら――――。
「――闘わないで…何かを護る為に、死ぬなんて言わないで…父さんたちみたいに、いなくならないで――」
姉の涙と共に、心の奥深く刻まれた…それは、言霊(――。
(――――だけど)
もう、見つけてしまった…『護りたいもの』を。
(――――だから)
芽生えた『想い』は…もう、消せはしない。
(――ごめん、姉ちゃん……約束、破るよ――)
十年の封印を解き放ち、今…湧の内なる魂が目醒めようとしていた――――。
「――目が…覚めたかね?」
そこは、見覚えのある道場だった。すぐ傍には鳴瀧が座っている。
「…鳴瀧、さん…?痛つ…ッ」
頭を押さえる…かなり大きなコブがあった。見ると、全身のあちこちに湿布やら包帯やらが巻いてある。
「俺…何で、道場に?」
湧の問いに答えず、鳴瀧は溜息をついた。
「――全く、随分と手酷くやられたものだな。あれほど今回の件には関わるな、と忠告した筈だが」
その言葉に、公園に居たはずの友人たちの姿が頭をよぎる。
「焚実…比嘉と、女の子を見ませんでしたか?」
道場内には他に誰も居ない。他の部屋に居るのかも、と思いたかったが…。
「いや…私があの場所に着いた時には、倒れていたのは君だけだった。――部下からの報告だと、明日香学園の女生徒が一人攫われたそうだ。比嘉君の方は…連れ去られたのではないとすると、後を追ったのかもしれないな」
後半の台詞は小声での呟きだったが、聞きつけた湧は顔を歪めた。
それを見て、鳴瀧がやんわりと窘める。
「君は、少し休みたまえ。後頭部に打撲、全身には複数の裂傷がある。手当てはしたが、まだ激しく動いて良いものではない」
いいね、と念を押す鳴瀧に黙って頭を下げ、湧は立ち上がった。
「…ありがとう、ございました」
礼を言って、畳んであった制服に袖を通す。ズキリ、と身体のそこかしこが痛むが、気にしてはいられない。
「……変な考えは起こさず、今は休む事だ。普通の高校生相手になら互角以上に闘えたかもしれないが、斃すべき相手は人ではない――いわば、『魔人』だ。《人ならざる力》を持った者に、人間が…しかも一介の高校生が勝てる道理もない」
非情な現実を突きつける鳴瀧…だが、湧は黙々と身支度を済ませ入口に向かう。
「攫われた者たちの事は放っておくんだ…行けば、必ず命を落とす。――自分を犠牲にして、誰かを救けようなどと考えるな。君は、生き続けるんだ…弦麻と迦代さんの分まで、何があっても――」
湧はゆっくりと振り返る…静かな、だが強いその眼差しに、鳴瀧は思わず息を呑んだ。
「父さんが…あなたの知る『石動弦麻』が、そんな生き方を望んだとでも?」
弦麻――その名前に一瞬顔を歪め、息をつく鳴瀧――これも、血筋か…と呟いた。
「判った……だが、一つ条件がある。――私の部下と闘ってもらおう。君の《力》を私に…もしも、大切なものを護りたいのなら、その『想い』の強さを私に見せてくれ。君の…友を想う、力と覚悟を…」
鳴瀧の合図と共に、道場に入ってくる黒服の男たち…計四人。そのいずれもが鍛えられた武道家である事が、体格と物腰から知れた。
「…殺すな。だが、手足くらいは折っても構わん」
一切の表情を消して、鳴瀧は命じた。素早く湧を取り囲む男たち。
(…まともに闘ったら、勝てないな…)
湧はさりげなく腕に手をやると、袖口のボタンをちぎり取る…そのまま手の中に握り込むと、ゆっくり構えをとった。
「――始め」
宣言と同時に、まず正面と右斜め前の男が動く。
湧は間合いを詰めつつ右手の指を弾いた。
「…ッ!?」
正面の男が一瞬目を閉じる――瞬間、懐に飛び込んだ湧は鳩尾に肘を叩き込み、掌底で男の顎を突き上げた。
(まず、一人…)
続けて、脳震盪を起こした相手をもう一人に向かって突き飛ばす。
流石に素人と違いぶつかって倒れる事は無いが、進路を邪魔され蹈鞴を踏む男。
素早く回り込んだ湧は男の首めがけ回し蹴りを放ち、男はそれを防御しようと腕を上げた――その時、再び湧の右手から何かが弾かれ、男の目に当たる。
たまらず目を瞑った男の首筋に湧の爪先がめり込んだ。
――コロコロ、と床に転がったのは学ランのボタン。
(二人目…ッ!)
瞬く間に二人も同僚を斃されて、残る二人の湧を見る目が変わった。
慎重に間合いを取る男たち…もう、飛礫(は使えない。
男たちの攻撃をどうにか掻い潜り、腹に拳を叩き込む…が、
「な…ッ!?」
まるで堪えた様子も無くニヤリと笑みさえ浮かべる男に、湧は驚愕の声をあげた。
男は素早く湧の腕を掴むと、背中に回って捩じ上げる。
「うぐ…ッ」
「よく頑張ったが…ここまでだ」
湧は知らない事だが、目の前の男は硬気功――《氣》の制御によって己が肉体の能力…この場合は耐久力を高める技術――の使い手だった。
不意打ちでも喰らわない限り、そんな相手に生半可な打撃が通用する筈も無かったのだ。
「悪いが、館長命令なんでな…折らせて貰う…ぜッ!」「…ぐあァァッ!!」
容赦無く力を入れられ、湧の肩がみしみしと悲鳴を上げる。
激痛で意識が飛びそうになる中、湧の頭にあったのは唯一つの事――。
(…負けたく、ないッ!!)
無我夢中だった――油断した男の顔面に頭突きをかまし、足の甲を思い切り踵で踏み抜き、股間に蹴りをくれてやって漸く腕をもぎ放す。
「…諦め、ない…無くしたくない、ものがあるから…」
ぜいぜいと息をつきながら、自分に言い聞かせるように呟く……残るは、一人。
だが、その男も今の三人目と同等の技量の持ち主…湧の打撃は通じない。
――このままでは、勝ち目はない――。
(――護りたいものが、あった…)
「負ける…もんか…」
右目が、疼く…今までのような痛みを伴うものではなく、内から湧き出すような、熱を感じる。
男の蹴りを喰らい、吹き飛ぶ…床を数回転がり、壁にぶつかる。
(――お前は、相応しいか?《護り手》に…)
「…絶対に、…諦めない…ッ」
口元の血を拭って、立ち上がる。近づいてくる男を睨みつけた…男の目には、一切の油断はない。
「護りたいから……絶対、負けないッ!!」
(――お前がそれを、望むならば…)
叫び、駆け出す…男に向かって。
男は意識を集中すると、体内の《氣》を高めた…最後の足掻きを徒労に終わらせ、今度こそ動けなくしてやるつもりだった。
そう、《氣》の防壁を張った自分に少年の打撃が通じる筈はない…。
より強い《氣》を、ぶつけられない限りは。
(――――《龍星脚》……)
「破ァァァァッ!!」
――在りえざる事が、起こった……湧が放った蹴りは男の防御を苦も無く突き破り、その身体を道場の壁に叩きつけていた――。
「――それが、君の答えという訳か…」
鳴瀧の言葉が、闘いの終わりを告げた。彼の部下は四人とも道場の床に倒れている。
「…行っても、いいですね?」
今になって身体中が痛み出す…が、ここでぐずぐずしている訳にはいかない。
しかし、今にも出て行こうとする湧を鳴瀧は呼び止めた。
「…湧君。今まで教えなかったが…弦麻は、君の父親は、《人ならざるもの》と闘って命を落とした。人を超えた《力》を持つ――魔人と闘って…」
目を瞠り、立ち止まる湧…振り返って鳴瀧を見る。
「――人の心には、誰しも陽(と陰(がある。風の流れ、川のせせらぎ…この世界を形造る森羅万象にも同じようにだ。そして、その陰に魅入られた者は外道に堕ちる――人ならざる…異形の存在へ。その法は《外法》と呼ばれ、人の世に、今もなお密やかに…受け継がれている」
「《法》、って…誰かが、それを使っている…?」
湧の問いに、鳴瀧は頷いた。
「今回の事件や東京を中心に起こっている事件の数々も、そういった《外法》が絡んでいるのではないかと睨んでいる。…いずれにせよ、人には過ぎた代物だ」
そう言って、鳴瀧は一枚の紙を放ってよこした…学園近くの地図――その一点に赤ペンで印が付けてある。
「その廃屋へ行きたまえ…そこに君の捜している少女が連れ込まれたとの情報が入った。…生きて還って来い、必ず……」
彼に深々と頭を下げると、湧は歩き出す…その背中に、鳴瀧は声をかけた。
「――さっき闘った時の気持ちを忘れない事だ。仲間を護りたいという、その心…真の《力》とは、そうしたものから生まれる…。その強さが或いは…陰を照らし、道を切り開くかも知れん…忘れるな――」
湧は肩越しに一度だけ振り返ると、笑った…穏やかに。
「…行ってきます」
今度こそ駆け出した湧の後姿を見送り、鳴瀧は深く息をついた…苦く、笑って。
「…因果は、巡る…か……」
その呟きは、誰の耳にも届く事は無かった――――。
廃屋に着く頃には、すっかり日が暮れていた――十時間近く眠っていたことになる。
(この夜陰に乗じて不意を突ければ…)
考えをめぐらす湧に声をかける者がいた。
「――石動…?よくここが分かった――痛ェッ!」
湧は問答無用で比嘉の頭を殴りつけていた…無論手加減はしてあるが。
「な、何すんだよ…」「やかましい。怪我人置いて先に行きやがった罰だ」
涙目で抗議する比嘉を一声で黙らせる。
無事な姿を見た途端、実は物凄く安堵した――などとはおくびにも出さない。
「…で、さとみは?」
「莎草の奴がさっき奥へ入っていくのを見たんだ。さとみもきっとそこだ…行ってみよう」
二人は周囲を警戒しつつ、廃屋に忍び込んだ――。
「――暗いな…」「焚実、足元に気をつけろよ…」
暗い上に広い…恐らく工場跡か何かなのだろう、タールの臭いもする。
「…向こう、少し明るいな?」
比嘉が指差した方向を見ると、確かに光が漏れている――ただ、電灯の明かりでは無さそうだが…。
「月明かりじゃねェの?」
だが、他に探す場所もない…二人はその部屋に入った。
確かにそれは月光だった…かなり広い部屋の天井が一部崩れ、そこから夜空が見えている。
だが、二人を驚かせたのは…。
「…さとみ――ッ!!」
――それは、異様な光景だった。月明かりの中、両膝をついて立つさとみ…意識は無いようなのに、その両手はまるで見えない糸か何かで吊るされているかのように宙に掲げられている。
思わず叫んだ比嘉は、さとみに駆け寄った。
「何だ、これは…何も無いのに、一体…?」
(――《力》だ……)
…右目が疼く、例の感覚に湧は辺りを見回した――予想通り、部屋の奥から莎草とその手下たちが現れる。
「――わざわざ死にに来るとは、馬鹿な奴らだ…」
くくくッ、と嘲笑う莎草を比嘉は睨みすえる。
「お前…さとみに何をしたッ!」
その言葉にさとみを一瞥すると、莎草は心持ち愉快そうに言った。
「比嘉…それに石動だったか――お前らは、『運命の糸』の存在を信じるか?」
人の出会いや恋を運命づけると言われる『糸』…そんな古い伝承――それも御伽噺と言われる類の――がどうしたと言うのだろう?
怪訝な顔をする二人に、莎草は語る…得意げに。
「知っているか?『運命の糸』とは人と人とを結んでいるんじゃない…魂から伸びるその『糸』は、天におわす神の御手に握られているのさ。そして神が気紛れに操ったその『糸』によって、人は動かされている――まるで操り人形のように…」
「…俺たちの一生が操られてるだって?――馬鹿馬鹿しい、そんなの妄想…ッ!?」
吐き捨てようとした比嘉の言葉が急に途切れた。それを見て嘲笑を浮かべる莎草。
「――これでも、妄想か?えェ、比嘉…」
「か…身体が、また…ッ」
(――これは…ッ!?)
再び動けなくなった比嘉に続き、湧の身体にも異変が起きる。
(…瞳が…右目が、熱い…ッ)
燃えさかるような熱が、右の瞳から全身に拡がる…意識の全てを塗り潰すような強烈な感覚に、湧はたまらず膝をついた。
「――おやおや、お前の友達はもう怖ろしくて動けないとよ……念の為だ、お前ら、そいつが妙な真似をしないように押さえとけ」
命令に従って、手下たちが湧の両腕を捕らえ、身体を押さえ付ける。
「…これで判ったろう?所詮、平凡なヒトであるお前らが俺に勝つ事は出来ない――神の《力》を手に入れた俺にはな」
「神の…力…?」
呟いた比嘉に莎草は「そうとも」と演説でもするように腕を振り上げた。
「人の身体から天に向かって伸びている『糸』、そいつが俺には見えるのさ。人間は皆その『糸』によって神に操られる傀儡に過ぎない…だが、俺はその『糸』を見、操る《力》――すなわち神の《力》を手に入れたのさ…」
そんな、馬鹿な…と呟く比嘉――だが、不意にその顔が苦悶に歪んだ。
「うッ…腕が、勝手に…」
比嘉の腕が自身の首に掛かり、そのまま締め上げ始める。
「くくッ…見えるぞ、お前の魂から伸びている『運命の糸』が…」
『運命』を逆から読むと『命運』…俺は、まさに人の『命運』を握っている――そう言った莎草の表情は、まさしく傲慢な悪神を思わせた。
「俺は直接手は下さない…他人から見ればお前が自殺したようにしか見えないだろうよ」
だがな、と莎草はいやらしい笑みを浮かべた。
「――泣いて頼めば、命だけは救けてやっても良いんだぜ?」
言って嘲笑う…情けない姿を晒して、みっともなく命乞いをして見せろと。
「――…ら…え…」
酸欠で顔を真っ赤に染めた比嘉は弱々しく呟く。
「ん…?何だって…?」
聴き取れなかった莎草は比嘉の口元に耳を寄せる。
それを見た比嘉は気丈に笑って言った…はっきりと。
「…糞…喰らえ…だッ!」
――莎草の顔から一切の表情が消えた。と同時に、比嘉の腕にいっそうの力が篭る。
「…ぐおォォッ!!」
「もう、お前は死ね、比嘉…」
(――たく、み…ッ)
救けなければ、と思うのに内からの熱に呑まれたように、身体が動かない。
閉じた筈の右目に容赦無く刺しこむ紅い光…莎草の、《力》。
(――――もう少しだ……)
何とか莎草の注意をこちらに向けようと、口を開く――だが、そこからは湧自身予想もしなかった言葉が滑り出した。
「――面白い《力》ではあるな…対象の神経系に干渉して、随意筋の制御を乗っ取る…結果、相手の肉体を自分の思うがままに操れる」
突然、冷たい声音で発せられた言葉に、莎草と手下たちは怪訝な表情で湧を見た。
「…だが、それだけだ。結局は相手の意志ひとつ覆す事も出来ない…焚実のようにな。それで『神の力』とは、笑わせてくれる」
(――何だ…俺は、何を言っている……?)
見開かれた湧の左目が莎草を見据える。その口元に浮かぶのは――嘲り。
「石動…誰に向かってものを言ってる…?」
怒りで莎草のこめかみに青筋が浮かぶ。だが、湧は意に介さず、とどめの言葉を吐いた。
「――お前は『弱い』よ、莎草…この場にいる、誰よりも…」
クスリ、と微笑さえ浮かべて。
「…………判ったよ……お前から先に始末してやるぜ、石動ッ!!」
――――ドクンッ――――
狂ったような哄笑と共に、莎草の身体から憎悪と悪意に満ちた《力》が放たれる。
「あーははははははッ!誰も俺を止める事などできないッ!逆らう奴らは全部この《力》で……ッ?!」
――その時、湧の身体の…いや、魂の奥底で『何か』が弾けた。
『――――目醒めよ――――』
湧の体内を熱いものが駆け巡る…莎草の手下が驚いて腕を離した。
「なッ…何だ、この光は…ッ!?」
莎草の声に視線を落とす…自分の身体から纏いつくように放たれるそれは、蒼い光――。
『――――目醒めよ――――』
(――あァ…分かっている、今……)
(――熱い…何だ、これは……?)
「…ばッ、馬鹿な…お前の『糸』が見えないッ!?そんな馬鹿なァッ!!」
莎草が驚愕の叫びをあげた。
絶対の拠り所としていた《力》が効かない相手がいる…その事実がよほど衝撃的だったのだろう。
だが――湧は淡々と、感情の無い声で言葉を紡いだ。
「当然だ。『運命の糸』など最初から存在しない…お前の持っている願望が、自らの《力》をそう認識させていたに過ぎない」
そして…『私』にはその《力》は通じない、故にお前には私の『糸』が見えない…それだけの事だ――と。
「…石動…お前、一体…?」
視界の隅で、呆然と比嘉が呟く。怯え、後退りする手下たちを無視して湧は立ち上がった。
(――『俺』は……?)
(――『私』は……)
湧は前髪をかきあげ、閉ざしていた右目をゆっくりと開いた。
「――――私の名は…『刹那』――――」
現れたのは…人ならざる、金色の瞳――。
「――…せつ、な……?」
比嘉は目の前で起きている事が信じられず、ただ呆然としていた。
顔に似合わず毒舌家でお節介焼きの友人の姿は…もう、無かった。
左の瞳に漆黒の闇を…右の瞳に朱金の炎を宿し、全身に蒼き光の衣を纏った異形の存在がそこに――いた。
「…認めねェッ!!」
莎草が叫んだ。彼は眼前の異形を睨みつけ、全身を瘧(おこり)のように震わせていた。
「俺は《力》を手に入れたんだぞ!?神の《力》をッ!…負けるワケがねェ…お前なんかに負けるワケがねぇんだよォォッ!!」
言う莎草の身体から『紅い光』が立ちのぼる――常人である比嘉にも見えるほど、極限まで高められたそれ――。
「――その辺で止めておけ。お前の精神はもう限界に来ている…それ以上《力》を高めたら、ヒトを捨てる事になるぞ」
冷淡に、忠告めいた事を口にする刹那。だが、莎草は耳を貸さない。
「うるせェッ、お前なんかに……ッ?!………うッ…ぐおおォォッ!?」
突然、莎草が動きを止めた。そして、苦しげに頭を抱え絶叫する。
――不意に刹那が動いた。一瞬で間合いを詰め、莎草の腹に蹴りを叩き込む。
莎草の身体は数メートルほども吹き飛ばされ、無様に転がった。
「…お、おいッ?!」
思わず声を上げた比嘉に手を伸ばす。ぎゅッと目を瞑った彼の頬を蒼い輝きが撫でた。
「――《力》を中和した…動けるな?」
「え…?」
目を開けた比嘉は、身体が自由を取り戻しているのに気づいた。
「さとみを連れて出て行け…闘いの邪魔だ」
冷たく言い放つ刹那の横顔は倒れた莎草を見据えていた。
いったい何が…とそちらに目をやった比嘉の前で、更なる異変が起こる。
「――――ッガアアアァァァァッ!!!」「…ひィッ!」「あ…あ……」
獣のような雄叫びをあげた莎草の姿を見て、彼の手下たちが腰を抜かした。
メキメキと音を立てて変化していく骨格、急激に膨れ上がる筋肉に生地が耐え切れず、服が細片と化す。
全身の皮膚が毒々しい青色に染まり、額を突き破って現れたのは一本の――角。
「さ…の…くさ…」
呆然と呟く比嘉。
鬼、だった…御伽噺に出るような、現実離れした怪物の姿。
「さとみを連れて、行け――急げよ」
そう言うと刹那は莎草に向かい、身構えた。対峙する、『鬼』と美しき『異形』。
比嘉は我に返ると、さとみを抱えあげて出て行く…化け物と化した同級生たちを後に残して――。
(――《変生》する前に気絶させれば或いは、と思ったが…手遅れか)
莎草の《力》を浴びた手下たちが、ギクシャクと立ち上がり、向かってくる…操られている事は、恐怖に引き歪んだ表情を見れば明らかだった。
《氣》を込めた掌打で軽く打ち据えてやると、糸の切れた人形のように次々倒れていく。
「――ギシャァァッ!!」
莎草の放つ《氣》がいっそう強まる…それは空中で凝ると、無数の細い『糸』に変化した。
「…願望の《具象化》か、少しばかり厄介だな…」
呟くと、襲い来る『糸』の束から身を躱す。空を切った『糸』は、そのまま背後にあった鉄板をズタズタに切り裂いた。
人間があの『糸』に絡まれたらひとたまりも無い。それが無数に莎草の周りを取り巻いているのだ…とても近づけたものでは無かった。
倒れている手下たちを巻き込まないよう、部屋の奥へ奥へと誘い込む。――それは自分の逃げ場が無くなるという事でもあるのだが。
「――さて、どうやって斃すか…?」
誰にともなく言った言葉だった――――が。
(――――『斃す』…?…殺すのか!?)
自分の中で、それに異を唱える『声』が在った。ピクリ、と微かに身体が震える。
(――莎草は、自らの意思で人たる事を捨てた…今の『私』では、彼を救う事は不可能だ)
(だからって…『俺』はあの二人を救けたかっただけだ、人を殺すなんて…ッ)
身体を包む蒼い光が弱まる…動きが、鈍る。
(…何か…方法は無いのか、何か…ッ!?)
(――意識を乱すな。今、同調が解けたら…)
ガクン、と足が縺れる――いつの間にか這い寄った『糸』が彼の足首に絡み付いていた。
「しま…ッ」
とっさに《氣》の防御を厚くする――その直後、無数の『糸』が彼に襲い掛かった。
――細切れにされる事こそ免れたものの、凄まじい衝撃だった。
『糸』のうち、いく筋かは蒼い光を突き抜け、彼の身体を傷付けた。
そのまま『糸』は彼に巻きつき、全身を絡めとった。物凄い力で締め上げられ、肋骨が軋む。
「…う、ぐ…ッ」
呻き声が漏れた。――その間にも身体に巻きつく糸は数を増やしていき、遂に視界さえ奪われる。
(――出せる全ての『糸』を攻撃に使うつもりか…)
今は互いの《力》が拮抗しているが、この状態が長引けば、未だ同調の不安定なこちらが先に力尽きるだろう――そうなれば、終わりだ。
逆転は不可能、と刹那は冷静に分析する。
(…『石動湧』は、ここまでという事か。まあ良い、どうせ…)
『糸』が締め上げる力を増し、全身の骨が軋みを上げた、その時――――。
「――でやあァァァッ!!」
ガツッ、と何かがぶつかる音がして、一瞬『糸』に込められた《力》が弱まる。
「…破ァッ!」――気合一閃、絡み付いた『糸』を消し飛ばす。そこに居たのは――。
「大丈夫かッ、石動ッ!?」「――焚実…?…危ないッ!」
襲いかかってきた莎草を蹴りで吹き飛ばし、改めて比嘉の顔を見た。…手には武器のつもりか、鉄パイプを握っている。
「――何をしに戻って来たんだ、一体…」
呆れつつ言うと、比嘉は思い切り顔を顰めた。
「…あのなァ…自分の為に闘ってくれてる友達見捨てて、逃げられる訳無いだろ、馬鹿!」
ふんぞり返って当然のごとく言い放った比嘉を、暫し呆然と眺めた。…ややあって笑いが込み上げてくる。
「――全く…本当に『強い』んだな、お前は…」
「イヤミか、おい!?」
…闘う『強さ』でなら確かに比嘉は自分より断然弱い。だからそう受け取ったのだろうが…更に笑う。
目の前で異形に変じた相手を『友人』と言い切り、一旦安全な場所まで行きながら、『友達だから』の一言で戻って来る…それも命がけで。
『考え無しの大馬鹿者』と言ってしまえばそれまでだが、『心の強さ』というものを量るなら自分よりも強いのではないだろうか?
…どうやら本人にはまるで自覚が無いようだが。
不貞腐れた顔をする比嘉を見て、刹那はそんな事を思った。
「…ガアアァァッ!!」
――莎草が雄叫びを上げる。見ると再び紅い《氣》が無数の『糸』へと変わっていく所だった。
身構える比嘉の手から刹那は得物をもぎ取る。
「お、おいッ!」「これ、借りるぞ…下がってろ」
言ってバランスを確かめるように何度か振ってみる。心配そうな比嘉を見やり微笑んだ…艶やかに。
一瞬状況も忘れ見惚れる比嘉に、凄艶とも言える笑みを浮かべて刹那は告げる。
「…そこで見ていろ、比嘉焚実。――『刹那』は無敵だ…絶対、負けない」
言葉と共に彼の纏う《光》が強まり、手に持った鉄パイプをも蒼い輝きが包んでいく。
((――迷わない、彼らを…『大切なもの』を護る為ならば…))
…今の自分に出来る事をするまでだ。そう呟いて、莎草を静かに見据えた。
「――キシャアァァッ!!」
全ての『糸』が刹那に向けて放たれる。彼は――『真正面』から莎草の方へ駆け出した。
「石動ッ!?」比嘉の叫ぶ声が聴こえる。
滝のように襲い来る『糸』――刹那は思い切り手首のスナップを利かせて、鉄パイプを投げつけた。
「……ギィッ?!」
鬼と化し、理性を失った筈の莎草が目を瞠った。
鉄板をも容易く切り裂いた『糸』が、細いパイプ一本両断する事も出来ずに絡み付いて、あらぬ方向に飛んでいくという、その在り得ない光景に。
――それは先ほど刹那が込めておいた《氣》に拠るものだったが、莎草には知る由もない。
そして、回転しながら糸を絡め取った鉄パイプによって、一筋の道が開いた。
刹那はその細い道の中を全力で駆けた――両脇を流れる『糸』に顔や手足を浅く切り裂かれ、血がしぶく。
「――破ァァッ!」
掌底の連撃が莎草の鳩尾と顎を捉えた。
大きく仰け反る莎草…その前で刹那は姿勢を低くし、身体を撓めると高圧の《氣》を練り込む。
「…ィイヤアアァァッ!!」
気合の声と共に、渾身の《龍星脚》が莎草の身体を打ち抜いた。
同時に込められた《砕氣》が体内に浸透し、ズタズタに破砕していく――。
――莎草がどおッ、と倒れた。
蒼い光を消した刹那がこちらに戻ってくるのを見て、比嘉はほっと息を吐く。
「石動――良かった…」「…さとみは?」
廃屋の陰に寝かせてきた、と答える比嘉――ふと、莎草をみる。
「…ッ!?おッ、おいッ!あれ…」
莎草の身体が急速に崩れていく――肉が溶け、骨が崩れ…僅か数秒のうちに一掴みの泥へと変わる――まるで悪夢のような情景は、ものの数秒で終わった。
後には、何も残らなかった。ただ、破壊された廃屋内の様子が闘いの痕跡を残すだけである。
「…何なんだ、あれは…莎草はどうなったんだ…?」
――刹那は応えない。訝しげに見る比嘉に、「彼はもう、人には戻れなかった…」とだけ言った。
その横顔がどこか哀しそうに見えて、比嘉はそれ以上追求するのを止めた…自分たちを救けてくれた友人に、これ以上何を訊く事があるだろう?
二人は黙って廃屋を出た――。
「――どうやら、斃せたようだな…」
二人が出て行ったのを見届けると、鳴瀧は物陰から姿を現した。
荒療治だったが功を奏した――そう言う彼の顔は少しも嬉しそうではなかったが。
「やはり、確実に目醒めつつあるか…『刹那』――」
…弦麻よ、と苦く呟く。
(――今頃はきっと、雲の上で俺を恨んでいるのだろうな…だが、今また東京にはお前の《力》が…お前と同じ、あの《力》を宿す者が必要なのだ…)
すまない…そう言った鳴瀧の瞳は、哀しみと苦渋の色を湛えていた。
「…ん、…比嘉…くん、…石動くん…?」
外に出ると、ちょうどさとみが目を覚ました所だった…ほっと息をつく二人。
「…救けに、来てくれたの?……莎草くんは…?」
不安げに言う彼女に、何と言ったら良いか判らず言葉に詰まる比嘉――と。
「…なァ、病院に行った方が良いと思うんだが」
刹那が言った。
「そッ、そうだな!さとみの手当てを先にしないと…」
すかさず飛びついた比嘉に「いや……」と呟く刹那。
――ばたり。出し抜けに、二人の目の前で彼は倒れた。
「…石動ッ!?」「石動くんッ?!」
驚き慌てる二人に、「お…『俺』、もう限界…動けない…」と突っ伏したまま彼は――『湧』は言った。
「石動ッ!おォいッ!?」「しっかりして、石動くんッ!!」
…その夜、静かな住宅街に救急車のサイレンが響いたという――――。
【結、絆】
――――事件から三ヵ月後。
莎草は行方不明として扱われ、目を潰した女生徒はノイローゼという事で片が付いた。
湧の周りは、元の平穏な日常を取り戻していた…少なくとも、表面上は。
『――君に、古武道を教えよう』
変わったといえば、鳴瀧の道場で再び武術を学び始めた事。
尤も、湧には鳴瀧の修めた『陰の技』ではなく、父親と同じ『陽の技』を学んで欲しいとの事だった。
どのみちブランクが大きいため、この三ヶ月は陰陽の技に共通の基礎となる部分――歩法や《氣》を制御する為の特殊な呼吸法など――の訓練を徹底的に行っている。
そして……。
「――湧ッ!」「…十分遅刻だぞ、焚実」
悪い悪い、と頭を掻く比嘉…春休みに入った今日は、彼とさとみと三人で遊びにいく約束をしていた。
こうして会えるのは、これが最後の機会になるかもしれない。
『――よォ…転校、するんだってな』
…そう言った比嘉の残念そうな顔が忘れられない。
今度の四月から、湧は東京の高校に転校する事になっていた――都立真神学園、だったか。
『――…あまり、無茶な事はしないでね』
姉の許可は、意外なほど簡単に出た。実の所、一番の懸念であったにも拘らず、だ。
…鳴瀧が陰で説得でもしたのだろうか?とも思うが。
しかし事件の後病院に駆けつけた時は、さすがに物凄いお目玉を食らった…まあ、無断外泊の事もあったし、往復ビンタと三時間に渡るお小言で済んだのはまだしも幸いだったのかもしれない。
ちなみに転校に必要な手続きや、引越しの費用などは全て鳴瀧がもってくれるらしい。
姉は仕事の都合で一緒には来れない…新学期からは一人暮らしが始まる訳だ。
「…なァ、本当に行っちまうのかよ」
さとみとの待ち合わせ場所に向かう途中、横を歩く比嘉が訊いた。
「……しつっこいぞ、焚実」
仏頂面で応える…確かに彼らと別れるのは残念なのだ、だが――。
『――君は、行かなければならない。君の《力》を必要とする者たちのために…』
鳴瀧はそう言ったのだ…何か、湧にしか出来ない事があるのだ、と。
そしてその『何か』があるのは…此処では、ない。
「けどさ、もうあれから一度も『アイツ』は出てこないんだろ?」
アイツ――『刹那』は事件以来、ただの一度も顕れていない…まるで眠りに就いたかのように。
記憶自体はしっかり残っている――喋った内容も、何を考えどう行動したかも全て――にも拘らず、あの現象については未だ謎のままだった。
鳴瀧にも訊いてはみたのだが、上手くはぐらかされたような印象を受けた。
(…あンの、狸オヤジ……)
心の中で毒づく…考えてみれば、事件の時にしてもさり気に誘導されたというか、『掌の上で踊らされた』ような気がしてならない。
ただ、面と向かってそう言い切れないのは、彼が本気で自分を心配してくれているように思えたから。
…それに、何だかんだ言っても湧は鳴瀧の事が嫌いではなかった。彼に、死んでしまった父親たちを重ねているのかもしれない。
「わざわざ、お前が行かなくってもさ…」
不満そうに呟く比嘉に、湧は溜息をつきながら言った。
「…だったら、お前は何で『あの時』わざわざ行ったんだ?」
言われて、言葉に詰まる比嘉…自分の、『弱い心』に負けたくない――彼はあの時そう言ったのだ。
「出来る事から目を背けて、後悔するなんて…ごめんだ」
東京に行こうと決めた、それが最大の動機…例え『自分本位』と言われようとも譲れない、理由。
きっぱりと返され、比嘉は苦笑した。彼とて、判っていない訳ではないのだ。
ただ、せっかく親しくなれた友人と別れるのが惜しかっただけ…せめてもの、わがまま。
「――石動くーん!比嘉くーんッ!」
待ち合わせた駅前でさとみが大きく手を振っている。
「小学生かよ…恥ずかしい奴」
顔を押さえて呟く比嘉に、湧は笑った。
「照れるな照れるな、幼馴染み!ほら、行こうぜッ」
「…湧ッ!」
言って駆け出そうとした湧を、比嘉が呼び止めた。
何だよ、と振り向く湧に右手を上げて見せる…ニッ、と笑って。
その手を暫し眺め、湧の顔にも笑みが広がる…ゆっくりと、だがとても…嬉しげに。
「――湧…負けんなよ!」
「そっちこそッ!」
パァン、と音高く掌を打ち合わせた二人は、笑ってさとみの元へ駆け出す。
別れの時はもうじき…けれどそれは多分、永遠ではないから――。
ふと、湧は顔を上げた。誰かの声が自分を呼んだような気がして。
『――――湧よ…強く生きろ…誰よりも強く、誰よりも優しく…。
お前の大切なものを護るために…湧よ、強くなれ……湧――――』
久遠刹那 第零話 了
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