久遠刹那 第壱話





【序、殺鬼】



1997年 東京――――秋



「――――ときが満ちる……」

 ざあざあと降りしきる雨の中、

「狂気と混沌の帳が下りる……」

 激しい雷鳴にもかき消されず、その声ははっきりと聴こえた――――。



 ――それは、いつもの光景の筈だった。

 ささやかな憂さ晴らしと小遣い稼ぎを兼ねて、目をつけた不運な転校生を私刑にかける…。

 それは、彼らにとっては、ごくありふれた日常の出来事。

 だから。

「何人たりとも、逃れる事は出来ない……」

 夜の神社に呼び出されて不良たちに囲まれたにも拘らず、微塵も怯えた様子を見せずに淡々と言葉を紡ぐ転校生。

その態度に苛立ち、先に痛めつけてやろうと思ったのは、彼らにしてみればごく当然の成り行きだった。

「…お前たちは、相応しいか?――闇の世界まちを生きる者に」

 ヒュッ、と風が鳴った。一拍遅れて、何か重いものが地面に落ちる音。

「……うわあァァァァッ!?うッ、腕がッ、俺の…ッ!」

 転校生の顔を殴ろうとした少年が悲鳴を上げた。

 振り上げた筈の右手は根元から切断されていた。噴き出した血潮が傍らにいた仲間の身体をも赤く染める。

「――《力》もつ者たりうるのか……」

 何が起きているのか、解らなかった。

 切り離されてなおもビクンビクンッと痙攣する腕と、新たな悲鳴と共に湿った音を立てて足元に落ちた小さな肉片――仲間の耳らしい――を見ながら、少年はまるでその光景に現実味を感じていなかった。

 転校生が、仲間に向けて軽く手を振るった…ただそれだけの事で、おもちゃか何かのように身体を離れ機能を失った、仲間のものだった肉塊。

 悪い冗談だ……そう、思った。

「見せてみるがいい……愚かなる『ヒト』の力を……」

 その時、雲の切れ間から月が覗いた。

(――かた、な……?)

 転校生の腕には、一振りの日本刀が握られていた。

 …彼らの誰一人として、そんなものには気づかなかったというのに。

 初めてまともに見たその顔には斜めに大きく刀傷が走り、長い髪は鮮血を浴びたように紅い。

 笑みの形に歪められた表情からは、しかし底深き怒りと憎悪のみが顕れていた――それは、鬼相…――。

「……痛ェよォ……た…助け…」

 地に這って弱々しく訴える仲間の声に、麻痺していた感情が動き出す――即ち、恐怖が。

「……うッ…うわあァァァッ!!」

 仲間の事など、もはやどうでも良かった。

 ただ自分が助かりたい一心で、転校生から離れるべく駆け出…そうと、した。

(……ッ?!)

 景色がぐるりと回る…傾いた視界に、刀を振るった転校生と……首を失い、血を噴き上げる自分の身体が映った。

(――何で、あんなヤツにちょっかい出しちまったんだろう…?)

 地面に落ちて転がりながら、首だけになった少年はそんな疑問を抱く。

 彼らは知る由も無い…転校生のもつ《人ならざる力》によって、あたかも普通の人間であるかのように彼ら全員がその認識を“狂わされて”いた、などという事は。



「――見せてみるがいい…お前ら、ヒトの力がどれほどのものか……」

 満月の下、哄笑する深紅の剣鬼――――それが、最期に少年の見た光景だった。







偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜



第壱話 転校生







【一、 転校】



1998年 東京――――春

 東京都立真神学園 3−C教室



「――石動湧です。これから一年間、よろしくお願いします」

 真新しい制服に身を包んだ少年が軽く頭を下げ、微笑む。

 一瞬しん、と静まり返った教室は、すぐに質問の声で沸き返った。

 いわく、どこから来たの?誕生日と血液型を教えて!好きな女の子のタイプは?エトセトラエトセトラ…。

 あまりの騒ぎに目を丸くする湧の隣では、この事態を半ば予想していたのか、3−Cの担任教師ことマリア・アルカードが苦笑している。

「…え、えーと熊本から来ました。十月十日生まれのAB型です。好きな娘のタイプはこれといって…」

 一つ一つの問いに律儀に答えていくが、大勢(主に女子)から矢継ぎ早に訊かれるため追いつかない。

「ねえねえ、前髪ちょっと上げて見せてよ!」

 女子の一人が言ったリクエストに、反射的に応えかけて湧は躊躇した。



 数日前に比嘉と交わした会話が甦る。

『――わざわざ髪まで伸ばしてさ、それって目を隠す為なんだろ?』

『仕方ないだろ?片目だけ金色になるなんて目立ちすぎるって言ったのお前じゃん』

 友人が言ったとおり、“あの事件”以来前髪を一度も切っていないのは、いつ変色するか判らない右目を人に見られない為の用心だ。

 もっとも…この三ヶ月間変化の兆しすら見えないので、いい加減馬鹿らしい気もしていたのだが。



 まあ、いいか…と手櫛で髪を掻き揚げてみせると、女子の間から一段と黄色い声が――、

「――…ああァァァァァッ!?」

 …なぜか男子の声(というか絶叫)も上がる。

 何事か、とそちらの方を見ると一人の少年が立ち上がり、大口を開けて湧の顔を見ていた。

(…ん……?)

 どこかで見たような赤みがかった髪の毛と精悍な顔立ち、そして右手に携えた木刀の袋……。

「――……うげ」

 それが誰だったかに思い当たり、湧は顔に似合わない呻き声を上げた。

 話は二日ほど前に遡る――――。





 二日前――――某神社内



 霧雨で煙る神社の境内で、湧は深々と溜息をついた――――何故なら。

「よォよォカワイコちゃん、こんな時間に一人じゃ物騒だぜェ?」「俺たちが送ってってあげるよォ?」

 下卑た声を上げる、いかにも『俺たちは不良でござい』という風体の少年数人。

 …いわゆるナンパという奴なのだろう。それ自体をどうこう言う気は湧にはない。

 ただ問題は…彼らの言う『カワイコちゃん』がれっきとした男――即ち自分であるという事だ。

 どうしてくれようか、と目の前の男どもを睨みつける。

 女顔だという自覚は(不本意ながら)あるものの、別に女装してる訳でもないのにこうも見事に間違えられると腹が立つ。

 …まあ、男と判っててナンパされるのもそれはそれでイヤだが。

 ちなみに現在の格好は紺色のレインコートと長靴で、前髪は湿りを帯びてうざったいので上げてある。

 身体の線こそ判りにくいが――それに最近鍛え始めたとはいえ、決して肉付きのいい方ではない…。

 身長が169cmというのも今時の男子高校生としては高い方とは言えないが…。

 おまけに女顔だし……。

 …………何やら悲しくなってきたので、湧は自分の容姿についてそれ以上考えるのを止めた。

 無言でいるのを怯えとでも勘違いしたのか、ニキビ面の少年がにやにやと笑いながら湧の腕を掴む。

 とりあえずは死なない程度にぶっ飛ばしてから誤解を解くのが妥当だろうか、と(彼らにとって)ムゴい考えに浸りかけたその時――――。



 ――――鳥居の向こうから口笛など吹きつつ、『そいつ』は現れたのだった。

「…オイオイッ、オネェちゃんはもっと丁重に扱うモンだぜ?」

 この人数にも臆する事無く、とぼけた口調でそう言ったのは赤茶けた髪に細長い紫色の袋をもった少年…高校生だろうか?

「何だ、手前ェ…」と凄む不良たちに向かって彼は不敵な笑みを浮かべ、言い放った。

「――新宿一の伊達男!神速の木刀使い、蓬莱寺京一ほうらいじ きょういちとはこの俺の事よッ!」

 自分でそこまで言える神経は確かに新宿一かもしれない。…伊達男かどうかは知らないが。

 というか、この口上を聞いて真っ先に浮かんだ感想は、

(……恥ずかしい奴……)

 …だったのだが、まあそれはともかく。

「あのー……」

 巻き込んで怪我などされても迷惑…もとい悪いので、一応声などかけてみる。――――が、

「安心しな。俺が来たからにゃあ、こんな奴らに指一本触らせねェぜ」

 と自称『新宿一の伊達男』はそう言って片目を瞑る。

(…はあ、そぉですか)

 内心溜息をついた湧は、最早止める気力も失せて彼の勇姿を見守る事にした。



 どごッ!びしッ!べきッ!

(――ほー…)

 がすッ!ひらりッ、…どげしィッ!

(…これは、なかなか……)

 京一は確かに、自信に見合った実力の持ち主だった。

 六人いた不良たちが、彼一人によって瞬く間に倒されていく。――と、京一が叫んだ

「――あッ、てめェ待ちやがれッ!」

 不良の一人がこちらの方へと逃げてきたのだ。

 その不良は湧の腕を掴んで引き寄せると、バタフライナイフを取り出して顔に突きつける。

 追ってきた京一が慌てて足を止めた。それを見てニヤリと笑う不良。

「へへへ…そ、そのまま動くなよッ…」

 言いながらじりじりと後退る。京一が悔しそうに顔を歪めるのが見えた。

(……詰めが甘いよ――)



 不良に引きずられ神社の陰まで来た所で、湧は足を止め無造作にナイフを摘んだ。

「――おいッ、妙な真似しやがると……ッ!?」

 ぺきッ、と小気味良い音を立て、ナイフの刃がへし折れた。

 唖然とする不良からナイフをもぎ取ると、そのまま力を込める。

 愛用のナイフがぐしゃぐしゃに握り潰されていく光景を見て不良が顔を青くした。

「…誰に喧嘩売ったのか、教えてあげようか?」

 残骸と化したナイフを放り捨て、湧はニッコリと場違いな笑みを浮かべた。

 ずどッ、と鈍い音を立てて湧の肘が不良の腹にめり込む。

 腕が離れた所へ更に回し蹴り一閃――哀れ、不良は頭から植え込みに突っ込み動かなくなった。



 ――数秒後、物音を聞きつけたのか京一が現れた。

「大丈夫かッ、オネェ…ちゃん…?」

 不良の姿が見えない事に訝る京一は、辺りに目を配りながら湧の傍まで来た。

「よォ、大丈夫だったか…アイツは?」

 実はすぐ傍の植え込みの陰で気絶しているのだが、湧は素知らぬ顔で言った。

「さァ?なんか『凄い勢いで吹き飛んで』行っちゃいましたけど?」

 物は言いよう、である。

 ちなみに、湧には嘘を吐いたつもりはない…自分がやった事と不良の行方を誤魔化しはしたが。

「…そっか。まッ、無事でよかったな!」

 あっさりと納得して笑う京一。さりげなく肩に手が回るが、湧はあえて気づかないフリをした。

「こんな時間に美人が一人でいたんじゃ物騒だからな、家まで送るよ。…そうだ、名前は?」

「……湧、といいます。それじゃお言葉に甘えて、駅まで連れてって貰って良いですか?…道、迷っちゃって」

 ユウちゃんか、とやに下がる京一の顔を横目に見ながら、湧は曖昧に微笑んだ。

(…これで行った先がホテルだったりしたら、徹底的にボコる)

 横を歩く美人がそんな物騒なことを考えているとは、京一は知る由も無い……。



 ――双方にとって幸いな事に、蓬莱寺京一は『道に迷った少女』相手に不埒な真似をする男ではなかった。

 …住所と電話番号をしきりに訊かれるので、誤魔化すのに苦労したが。

 しかしその間、湧が男だと気づく様子は全く無い…騙して利用しているとはいえ、少しは気づけよと思う。

(…俺って、女優になれるかもな…)

 何かずれた感慨を抱く湧だった。



 程なく駅に着き、またなッ!と満面の笑顔で手を振る京一に、花のような微笑みを向けつつ口の中で呟く。

「…二度と会うか、馬鹿」

 それで終わった――――筈だった。





 ――――カミサマのばか。

 無駄と判っていても呟かずにはいられない。湧は思わず天井を仰いだ。

 だいたい『通りすがりの少年』が、東京の数ある高校の中で“たまたま”自分の転校先にいて、しかもよりによって同じクラス…運命か何かの悪意を感じたとしても無理からぬ事ではあった。

「…蓬莱寺クン、お座りなさい。みんなも、質問はこれで終わりにします」

 えェ〜ッ!と盛大に不満の声があがるのを宥めつつ、マリアは湧に笑いかける。

「ごめんなさいね、みんな転校生が珍しくてしょうがないの。さて、それじゃキミの席は…確か美里みさとサンの隣が空いていたわね」

 マリアの視線を追う…長い黒髪の少女と目が合った。

「美里サンはクラス委員長だから、いろいろ教えてもらうといいわ。美里サン、よろしくネ」

 指示された席に向かう。多数の女子の視線が追いかけて来る――何やら敵意に満ちたものも一本混じっていた気がする――が、あえて無視した。

「――それじゃ、ホームルームを始めましょう。今日の議題は、旧校舎の改築案について…」



 こうして、石動湧の転校初日は幕を開けたのだった。







【二、友誼】



「――石動くん」

 一時限目終了後、話し掛けてきたのは隣の席の少女――みさと、だったか。

「さっきは、すぐにホームルームに入ってしまって挨拶も出来なかったけれど…」

 ごめんなさい、と控えめに微笑んで彼女は続けた。

「私、美里あおいっていいます。美里は、美しいに古里の里、葵は葵草の葵…これからよろしくね」

 鴉の濡れ羽色、という表現がある…正にその言葉通りの黒く艶やかな長い髪に、日焼けを知らぬがごとき抜けるような、しかし決して不健康ではない白い肌。

 しっとりと落ち着いた笑みを浮かべるその姿は、掛け値なしの美少女と言って良いだろう――――が。

「うん、よろしく」

 …生憎と、湧はその手の美的感覚というものが今ひとつ鈍かった。

 きれーだな、と思ったくらいで特に感慨はない…平然たるものである。

 ニコリ、と笑い返して手を差し出す。彼女は一瞬躊躇して、少し恥ずかしそうに湧の手を握り返した。

「うふふ…お隣同士、仲良くしましょう。学校のことで判らない事があったら、いつでも聞いて」

 異性と接するのに慣れていないのか、美里は照れたように微笑んだ。

 と、そんな彼女の背後から忍び寄る影がひとつ――。



「あ〜お〜いッ!!」「――きゃッ!?」

 後ろから不意に飛びつかれ、美里が声をあげた。

 明るい色の髪をショートに切り揃えた、活発そうな印象を与える少女がそこにいた…ちなみに、こちらもかなりの美少女である。

小蒔こまき……」

 ほっとしたような笑顔を浮かべる美里…どうやらかなり親しい友人らしいが、次の台詞に絶句する。

「葵もやるねェ〜。早速転校生クンをナンパにかかるとは…」

「…え?」

 一人もっともらしく頷く、『こまき』と呼ばれた少女。

「うんうん…生徒会長殿も、よ〜やく男に興味を示してくれたんだねェ…」

「――――…ッ!?」

 友人に言われたことを漸く理解して、美里が真っ赤になる。

 反論しようと口を開くも言葉が出ず、口をパクパクさせる彼女に手のひらを突き出し、小蒔は『皆まで申すな』とばかりに首を振った。

「いやいや、クラス委員長でしかも生徒会長なんてやってると、男とは無縁になっちゃうの判るけどさ、もうちょっと…」

「もう、小蒔ッ!」

 …だんだん態度が芝居がかってくるのだが、美里だけはそれに気づいていないようだ。

 恥ずかしさのあまり思わず声をあげた彼女に構わず、小蒔は湧に向き直る。

「…へへへッ。転校生クン、初めまして。ボク、桜井さくらい小蒔。花の桜に、井戸の井。小さいに、種蒔きの蒔。弓道部の主将をやってんだ。これから一年間、仲良くしよーねッ」

 ひと息にそう言った。『お日様のような笑顔』とでも言おうか…開けっぴろげな表情からは友好的な感情と幾ばくかの好奇心、そして友人へのちょっとした悪戯心が見て取れる。――こういうタイプは嫌いじゃない。

「こっちこそ、どーぞヨロシク」

 美里の時と同じく、笑って握手を交わした。

「へへッ、キミみたいな転校生なら、大歓迎だよッ。――あッ、でもなァ…」

 思わせぶりに口をつぐむ…ちろり、と美里の方を向いた視線に、湧は次に出るだろう台詞を予測した。

「…石動クンって、葵みたいなタイプが好みじゃないの?」

 ――やっぱり。初対面の相手にずいぶん大胆なことを言うものだが、小蒔の表情と視線を見ていれば、奥手な親友の反応を楽しんでいるのは明らかだ。

 自分も転校前、出来たばかりの友人二人を相手によく遊んだ――からかったとも言う――ものだし。

 …ちなみにこの時、湧の頭に『もしかすると本気かもしれない』という考えは欠片も浮かばなかった。

 なので、ここは小蒔が喜びそうおもしろくなりそうな台詞を言ってやることにする。

「判るゥ?いやァ、たまたま隣の席が空いてるなんて、思わず『運命』を感じちゃったね、俺は」

 満面の笑顔でそう言うと、美里の顔が見る見る朱に染まっていくのがわかる。

「やっぱりね、態度見てれば一目瞭然だよ。――う〜ん、仕方ないなァ…じゃあ、いいコト教えてあげるから耳貸して…」

 ぽしょぽしょ、と囁く…無論、美里に聞こえるのを承知の上で、である。

「あのねェ…葵って、こう見えてもカレシいないんだ。声は結構かけられてるみたいだけど、全部断ってるし…別に話を聞くと理想が高いってワケでもないんだけど」

 当人を前にこれだけ言えるのも、ある意味大したものかもしれない――――とか何とか思いつつ。

「石動クンなら結構イイ線いくと思うんだけどなァ……ねッ」

 と片目を瞑る小蒔の台詞に、

「…そーだね。美里さん、俺で良かったら付き合わない?とりあえず、友達として」

「え…あのッ」

 ――と、まあ即座にノって美里をからかう辺り、自分も結構イイ性格だと思う。

「うんうん、頑張りなよッ。オトコのコだもんね。まッ、いずれにしても恋敵が多いのは覚悟したほうがいいよ。葵は男に対する免疫が無いから大変だとは思うけど、玉砕しても骨くらいは拾ってあげるからさ」

「…小蒔……聞こえてるわよ」

 このままでは何を言われるやら判ったものではないと思ったのか、美里が漸く口をはさんだ。

 彼女としては声を低くして怒りを表している…つもりなのだろうが、いかんせん紅く染まった頬と合わせられない視線が迫力に欠ける。

 懲りた様子も無くえへへッと笑う小蒔を美里が睨む。

「…小蒔ッ」「石動クン、ボク応援してるからねッ!」

 じゃーねッ!と小蒔は身を翻した。そのまま教室を走り出る様は、正に疾風の如し…いや、むしろ台風か。



「あッ…ちょっと、もう小蒔ったらッ!?」

 止める間も有らばこそ。

 無責任にも状況を散々引っ掻き回した親友に逃げられ、途方にくれた美里はちらりと湧を見た。

 …前髪に隠れてよく判らないが、相変わらずニコニコと自分を見つめている…気がする。

 ……恐らくからかっているのだろうと思う…思うのだが。

「あ…あの、小蒔が変なこと言っちゃって…その……ほ、本当にごめんなさい…」

 ――まさか会ったばかりの転校生を怒るわけにもいかない。

 まともに湧の顔を見ることも出来ず、美里は教室の外へ駆け出した。



(…あららら……やり過ぎたかな?)

 逃げるように去っていく美里を見ながら、湧は苦笑を洩らした。

 今時、それも東京の高校にあれほど純情な女の子がいるとは思わなかった…これがさとみなら、難なく躱されるかジト目で睨まれているところだ。



「あ〜あ〜、あんなにカオ真っ赤にしちゃってカワイイねェ〜」

 横手から、今度は男子が声をかけてきた…それも大変聞き覚えのある声が。

「よォ、転校生」

「…よォ、新宿一の伊達男」

 目を向ければ思ったとおり、木刀を携えた少年――『蓬莱寺京一』がそこにいる。

 やや表情に険があるのは…気のせいではないだろう、多分。

 まじまじと湧の顔を見つめると、京一は大袈裟に肩を落とした。

「くっそォ…騙しやがってェ……」

「…何の話だ?」

 心当たりは充分過ぎるほどあるのだが、あえてとぼける。

「お前だよお前ッ!!せっかくレベルの高い美人とお近づきになれたと思ったのに男だとォッ!?純情な少年の心を弄びやがってッ!!」

「……俺は女だなんて一言も言ってないぞ」

 こういう時は自分の非を認めてはイケナイ。どんな屁理屈をこねてでも言い逃れることが肝心である…と、湧は思っている。

 そもそも性別を間違えたのは向こうの勝手なのだし、自分はあくまで被害者だ。誰がなんと言おうとそう決めた。

 …まあ、わざわざそんな事を自分に言い聞かせる辺り、多少の罪悪感は感じているのだが。

 京一はなおも何か言いたげだったが、やがて盛大に溜息をついてみせると、顔を上げて笑った。

「――まァ、いいや。縁あって同じクラスになったんだ、仲良くしようぜ」

 立ち直りが早い、と言うか…随分さっぱりした気性に少し好感を覚える。

「この前も名乗ったけど、俺は蓬莱寺京一。これでも剣道部の主将をやってんだ。よろしくな、『セキドウ』」

 ……………………湧の目が点になった。

「……はい?」

「おいおい、俺がなんか変なこと言ったか?そんな顔すんなよ」

 眉を顰め、思いっきり怪訝な顔で訊き返す湧にこれまた怪訝な顔をする京一。

「いや、その…『セキドウ』って?」

「は?何言ってんだよ、お前の名前だろ?」

 言って鞄についたネームプレートを指す。

 ……数秒の沈黙。

 ――――自分の名前…石動湧。『石動』=『セキドウ』…?

 京一の顔を見る…『何かおかしな事言ったか?』という表情。

「…蓬莱寺。お前…朝、俺が自己紹介したとき寝てただろ」

 ん?と疑問符を浮かべる京一に向かって続けた。

「石が動くって書いて『いするぎ』と読むんだ、この字は」

 …京一が黙って視線を逸らした。

 湧はジト目でその横顔を見つめる――――そのまま暫しの時が流れ、京一が音を上げた。

「――ああもうッ!男が細かい事に拘ってんじゃねぇよッ!!」

「…寝てたわけだな、結局」

 ぐッ、と京一は言葉に詰まる。

 …『綺麗な転校生が来る』って聞いたのに野郎だったから、とか何とか言い訳らしきことを呟いている。

「ま、まァ、何だ。これから仲良くやろうぜ――と、そうだ。ひとつ忠告しといてやるけどよ…あんまり目立ったマネはしない方が、身のためだぜ」

 そう言って不意に真顔になる…視線で後ろのほうを示され、それとなく目を向けた。

 今時リーゼントにだらしなく制服を着崩した、“いかにも”な不良然とした連中が4〜5人、教室の一角にたむろしている。

「学園の聖女マドンナを崇拝してる連中は、いくらでもいるって事さ…特にこのクラスには、頭に血が上りやすい連中が多いしな」

「……まどんな?」

 きょとん、として訊くと京一は呆れた顔をした。

「さっき話してただろうが。美里のことだよ…ったく、ずっと連中が睨んでたのに気づかなかったのか?」

 なるほど、と思う。京一の視線にしてはやけに殺気立っていた、と感じたのは錯覚ではなかったらしい。

「まッ、そういうこった。無事に学園生活を送りたいなら、それ相応の処世術マナーも必要って事さ」

 チャイムが鳴り、マリアが入ってくる。京一は「また、後でな」と言い残し、自分の席に戻った。



 ちなみに、他の生徒たちも声をかける機会を窺っていた(その大多数は女子だった)のだが、次々現れる障害(しかも一人残らず学園の有名人!)に阻まれ悔し涙を呑む事となった。

 ……いずれにせよ、湧には知る由も無い事である。





「…石動くん…あの…さっきは小蒔が変なことを言って、その…ごめんなさい」

 昼休みになると、美里がおずおずと声をかけてきた。心なしか表情が硬い…さっきのやり取りは拙かっただろうか?

「いやァ、何しろ俺って見た目がこうだから、なかなか男扱いしてもらえなくってさ――逆に嬉しかったりして」

「……うふふ。面白いのね、石動くんって」

 軽口を叩いて見せた湧に葵がクスクスと笑う。――少しは警戒心を解いてもらえたようだ。

「そうだ、今日は生徒会があるから無理だけど…明日にでも学校の事とか、いろいろ教えてあげる」

「ありがと。でも、いいのかい?忙しいんだろ」

 気にしないで、と微笑むと葵は教室を出た。生徒会長でクラス委員と言う話だったが、やはり相当に多忙らしい。

 …そして、先ほどからこちらを睨みつける視線の主が近づいてきた。不良たちの中心にいた人物――――。



「オイッ…」

 ぬッ、と目の前に立った相手を観察する――身長はさほど高くない…自分よりも少し低いくらいか。

 実戦ででも鍛えているのか、首回りや胴体はがっしりしていて、体重もかなり重そうに見える。

 顔の造作そのものは十人並み――見ようによっては『愛嬌がある』と言えなくもない――だが、他人を威嚇するような表情が全てを台無しにしている。

 何より発する雰囲気が喧嘩慣れした者のそれだ。今も、剣呑な目つきで湧を睨んでいる。



(…警戒するべき、かな?)

 今のところ何も感じないが、莎草のように《力》を使われてからでは遅いと言うこともありうる。

 表面上はあくまで笑みを浮かべつつ、湧は彼の出方を伺った。



「――おいッ、石動ッ」

 口を開きかけた相手の出鼻を挫くタイミングで、京一が声をかける。

 近づいてくる彼と湧を交互に見て、忌々しげに舌打ちをすると不良は立ち去った。

「何だ、佐久間さくまのヤロー…」

 まァ、いいや…と湧に向き直る――狙ったのか偶然かは知らないが、降りかかった火の粉を払ってくれたらしい。

「どうだ石動、この真神学園ガッコウは?」

「…んー、まァ“楽しそう”な所だね」

 退屈しなさそうで、と言葉に少しばかり皮肉が混じる。

そもそも鳴瀧の指示で転校しては見たものの、具体的に何をすれば良いのかが見えてこない。

別に事件を待ち望んでいる訳ではないが、このまま何も起こらないのでは困るのだ。――――が。

「そうかそうかッ、わかるぜその気持ち。うちの学校はカワイイ子が多いからな、俺も毎日学校来るのが楽しみで楽しみで…」

 全く違う意味にとった京一がだらしなく顔を緩めた。

 これで木刀を振るえば無類の強さなのだから、世の中は判らない…と湧は思う。

「おッ、そうだ。昼飯がてら、俺がガッコん中案内してやるよ」

 おまけにかなりのお節介…もとい親切ぶりである。せっかくの厚意なので有難く受けることにした。

「――――蓬莱寺…言っとくけど、俺そのケは無いから」

「…アホかッ!!俺だってねェよッ!」

 つい余計な事まで言ってしまうのは第一印象のせい…ではなく、湧の単なる地である。



 この親切のおかげでまたも3−Cの女生徒たちは涙を呑むのであるが…それを二人が知ることはなかった。





 まずは、一階。一年のクラスと保健室、それに職員室と購買部があるらしい。

 京一によれば、3−Cの担任であるマリア先生は、以前の英語の担任に代わって三ヶ月前に赴任したばかりとの事。

 その美貌と人当たりの良さゆえに、生徒たちから同僚の教師に至るまでファンが多いとか。

「――俺なんて、外人だからと思って挨拶代わりにキスしようとしたら、思いっきしスネ蹴っ飛ばされたからな。まァ、お前も気をつけるこった」

「…お前だけだろ?そんな奴は」

 そんなこんなで、少し彼女に会っていこうという事になる。



 職員室を見回す…豊かな金髪は目立つので、すぐに見つかった。

「――アラッ、アナタたち、どうかしたの?」

 石動がせんせに会いたいって言うもんだからさ、と京一が答えると、マリアは髪をかき上げ艶やかに微笑んだ。

「フフッ…アリガト、嬉しいわ。それで…石動クンは、私にどんな用なのかしら?」

「俺の熱い想いを打ち明けに…って言ったら信じて貰えます?」

 真顔で答える湧…ただし目が笑っている。マリアも悪戯っぽい表情で応じた。

「フフフッ、石動クンには女性を口説く才能があるかもね。…アラ?ゴメンなさい、二人とも。センセイ、これから職員会議ミーティングなの」

 時計を見たマリアがそう言ったので、湧たちは戸口に向かった――――と。



 戸を開けた所で、京一が誰かとぶつかる。

「――おっとッ。ん?何だ、蓬莱寺じゃないか」

 げッ、マズイ…という京一の呟きが聞こえた。

 見ると、よれよれの白衣を着て眼鏡をかけた男と目が合う。

 いつ櫛を入れたか判らないぼさぼさの髪と、丸二日は剃っていないような無精髭がだらしない印象を与える中年男…なのだが。

(……はて…?)

「どうしたんだ、お前が職員室に顔を出すなんて」

「いッ、いやァ…別に…」

 『あの』京一が何故かこの男に対してはしどろもどろである。武器を持った不良たちをあっさり一蹴した京一が…。



 ――背は京一より少し高いから、180cmくらいか。

 ぱっと見には判りづらいが、かなり引き締まった体型のようだ。

 煙草を咥える仕草も、よく見ると妙に隙がない気がする。

 冴えないように見せて、実は結構なやり手なのかもしれない…と思うのは買いかぶりだろうか?



 先月の卒業式がどうの…と言い出す男の言葉を、「すいません」とマリアが柔らかな声で遮った。

犬神いぬがみセンセイ、蓬莱寺クンを呼んだのはワタシです。今日、ワタシのクラスに転入してきたコがいて、いろいろ手続きがあるので連れて来て貰ったんです。…蓬莱寺クン、石動クン、どうもありがとう。二人とも、もう行っていいわよ」

 マリアの機転にこれ幸いと縋りついて、京一はそそくさと職員室を出た。湧も二人の教師に一礼すると、京一の後を追う。

 犬神と呼ばれた教師…眼鏡の奥の瞳が一瞬鋭い光を宿したのが、何故か強く印象に残った――――。



 犬神は、無言で二人の出て行った扉を見ていた。そんな彼を不審に思ったのか、マリアが声をかける。

「…どうかしたんですか、犬神センセイ?」

「いッ、いや。――マリア先生、今の転校生の名前…何て言いましたかね?」

 どこか上の空といった様子の犬神に首を傾げながらも、彼女は答えた。

「石動湧ですけど…それが何か?」

「いやあ、別に何でも。ただ、訊いてみただけです」

 怪訝な顔をするマリアに構わず、犬神は口の中で呟く…なにやら考え深げに。

「…石動、湧……ね」



 職員室を出ると、京一が大げさに胸を撫で下ろした。

「ふゥー、まったく危なかったぜ。犬神のヤロー、つまんねェコトいつまでも覚えてやがって…」

 あれは、あいつらが先に…と言いかけて、ポケットをごそごそ探る湧に目をやる。

「どうした、石動?」

「…いや、パン買おうと思ったんだけど…」

 財布を教室に忘れた、とバツの悪い顔になる湧。

「おいおいッ…今から戻ってたんじゃ、目ぼしいのは売り切れちまうぞ?」

 呆れ顔の京一にさっさと背を向け、階段を上る。

「いいよ。俺好き嫌い無いし、喰えれば何でも。蓬莱寺は先に行ってれば?」

 ちぇッ、仕方ねェと呟いて京一が追ってきた。

「…ついて来なくていいんだぞ?子供じゃあるまいし」

「バーカ。案内の途中で右も左も判らねェ転校生を放り出せるかよ」

 かくて二人は三階に向かう。





 ――湧たち三年生の教室は、ここ三階にある。

 他には図書室や音楽室と書かれたプレートが見える。そして…。

「…石動、ちょっとこっち来い」

 辺りをキョロキョロ見回していた京一が湧を呼んだ。

 近づいた湧に顔を寄せ、ゴクリと唾を飲みこんで声を潜める。

「この三階にはだな…真神イチ悪名高き新聞部の部室があるのさ。しかもだな、その部長ってのが――」



 その時、ガラガラッと音をたてて近くの扉が開いた。

「――誰が『悪名高き』ですってェ?」

「わあァッッ!?げッ、アッ…アン子ォッ!!」

 そこには眼鏡をかけたロングヘアの少女が立っていた。

 整った顔に気の強そうな表情を浮かべる彼女と、うろたえる京一の様子が妙に対照的だ。

「きょ〜いちィ、アンタねェ〜…何にも知らない転校生にナニ吹き込んでんのよッ!!」

「い…いやァ、ボクは事実を…いや、根も葉もある噂を…」

 仁王立ちして睨みつける彼女の眼光に恐れをなしたのか、徐々に声が小さくなっていき……。

「…新聞部には恐いオネーさんがいて、近づいたらアブナイよって教えてあげてただけです」

「ア・ン・タ・ねェ〜」

 青筋立てて詰め寄る彼女から一歩飛びのくと、京一はわざとらしくポンと手を打った。

「おっと…ボク、そういえば用事を忘れてました。良識ある新聞部の良識ある部長の遠野とおのさん、それじゃッ」

 悪ィな、石動ッ…そう囁くと、京一は素早く身を翻す。

「ちょっと、待ちなさいよッ!!」

「ははははッ、アン子、転校生にヘンな事吹き込むなよッ!」

 そのままあっという間に廊下の向こうへ消える…見事なまでの逃げ足であった。



 全く、もォ…と溜息をつく彼女に、湧が声をかける。

「えーと、新聞部部長の遠野さん、でいいのかな?」

「あっ、ゴメンね…あのアホの言った事、真に受けないでね?あたし、遠野杏子とおの きょうこ。みんなからはアン子って呼ばれてんだ。新聞部の部長…って言っても部長兼部員一人の寂しい部だけどね」

 言いながら苦笑する杏子。確かに部員が彼女一人では部長も何も無いだろう…というか、部として認められているのが不思議なくらいだ。

 新聞部ということは、記事を書くのから編集作業――下手すると写真撮影やその現像まである筈だ――全て彼女がやっているのだろうか?

「…大変だね……」

「まァ、慣れてるし。…そうだ、キミ、今日から3−Cに来た転校生でしょッ?確か名前は…石動湧。隣の3−B、うちのクラスにも噂は聞こえてきてるわよ。よろしくね、石動君」

 …どんな噂だか、と思わなくも無かったが、とりあえずはきっちり笑顔を作って手を差し出す。

「こちらこそ、よろしく。遠野さん」

「おッ、なかなか礼儀正しいでないの…感心感心。困った時にはなんでもオネーさんに相談しなさい。…お金の話以外ならね」

 と言ってふと腕時計に目をやると、彼女の顔が引き攣った。

「あァァーッ!!もう行かなきゃ!センセーに呼び出されてたんだ、ゴメンね石動君ッ!」

 人目憚らず絶叫すると廊下を駆け出す…かと思いきや、何かを思い出したように戻ってきた。

「石動君、これあげるわ」

 『真神新聞』…どうやら、これが彼女の作品らしい。実質一人で作ったとは思えない出来映えだ。

(…ってーか、これって…本当に“校内新聞”か?)

 今まで学校新聞などには興味もなかったので良くは知らないが――三面記事紛いの派手な見出しやラーメン屋・骨董品店の広告etc――新聞部作、というには少し…いや、かなり違和感があるように思える。

 少なくとも明日香学園の『校内新聞』は、もっと地味だったような気がするのだが。

「今度、石動君の取材もさせてよねッ!」

 そう言うと、今度こそ彼女は駆け出した。脇目も振らずに…途中で人にぶつからなければ良いが。



「――ふゥーッ、ようやく行ったか…」

 廊下の角から様子を窺っていたらしく、京一が戻ってきた。

「…右も左も判らない転校生を見事にほっぽり出してくれたなァ、蓬莱寺クン」

 湧の皮肉に「わりーな」と返す京一。

「どーも、アイツ苦手なんだよなァ…」

 とこぼした彼にピラリ、と貰ったばかりの新聞を広げて見せる。

「そらまあ、しょっちゅうこんな記事書かれりゃ苦手にもなるだろうよ」

 真神新聞第一号…見出しには幾つかの特集が書かれており、今回の目玉は――。

「――『蓬莱寺、大暴れ』…卒業式で、卒業生徒数人相手に大乱闘…しかも女絡み。いつもこんな事やってんのか、お前は?」

 呆れ返った顔の湧に、京一がグッと言葉に詰まる。当たらずと言えど遠からず…といった所か。

「…ま、まァいいじゃねェかよッ!財布取りに来たんだろうが、さっさと行こうぜッ!」

 大声で誤魔化すそのこめかみに一筋の汗が流れていたのを、湧は見逃さなかった。



「――石動、落としモンだぞ」

 鞄から財布を取り出し、急いで購買部へ向かおうとする湧を京一が呼び止めた。

 振り返ると、財布を出すときに落としたのだろうか、京一が湧の定期入れを開けて見ていた。

中に入っているのは二枚の写真――両親たち四人が写った物とセミロングの美女――。

「なァ、石動…この美人、誰?」

「…勝手に人の写真を見るんじゃない」

 言いつつ、京一から定期を取り上げて答える。

「――うちの姉ちゃんだよ」

 不意に京一が真剣な眼差しになる。

「…『姉ちゃん』って言ったな?『兄ちゃん』じゃねえよな、間違いなく女なんだなッ!?」

 この写真の何処をどう見れば男に見えるんだ?とか、その質問は俺に対するイヤミか?とか色々言ってやりたいのを堪えて頷く。

「石動――――」

 がしッ、と京一が湧の両肩を掴んだ。

 真正面から湧を見つめ、これから愛の告白でも始めるのか?と思うほど真剣な表情で口を開く。

「――ゼヒとも紹介…」「やなこった」

 ひるるるる、と二人の間を空しい風が吹き抜けた…気がした。

「…何でだよォォッ!?」

「自分の胸に手を当てて訊いてみろ、“性”少年ッ!!」

 絶叫する京一に負けないほどの大声で言い返す。

 ――後々冷静に考えてみれば、そもそも姉は今熊本にいるのだから紹介できるわけも無いのだが、この時の湧にはそこまで考える余裕は無かったらしい。

 なので、この後しばらく壮絶かつ果てしなく低次元な舌戦が続いた。たとえば――――。

「――お前ッ、この前いたいけで純情な俺のハートを傷つけた事を忘れたのかッ?!そんなお前には美人のオネェちゃんを俺に紹介する義務があるッ!!」

「誰がいたいけで純情だッ!?俺は大事な身内を煩悩低俗下半身野郎の人身御供にする趣味はないッ!!!」

 とか、

「大体あの状況でその顔で男ってのはサギだろうがッ!男だったらあんな所で野郎どもに絡まれてんじゃねェッ!!」

「知るかァッ!勝手に間違えたのはテメーらの方だろうが!好きでこんな顔してるわけじゃねェッ!!」

 終いには、

「美人のねーちゃんッ!紹介しろ紹介しろ紹介しろ(エンドレス)」

「やなこったやなこったやなこった(エンドレス)」

 ――――など。



 不毛な争いから二人が我に返ったのは、昼休みが終わる十分前のことだった。

 慌てて購買部に走るも、時すでに遅く……。

 結局、二人揃って昼飯を喰いっぱぐれたのだった。

 ――――合掌。





 ――気を取り直して、二階。ここにあるのは二年生の教室と生物室である。

 ごく普通の景色の中で、ただ一点異様なのは長蛇の列をなす女生徒たち――――。

「……相変わらず、すげェ人気だな。ナンで女ってのはああも占い好きなのかねェ」

 京一がそう言っている間にも、新たな女生徒たちが黄色い声を上げながら行列に加わっていく。

「…………ん……?」

 だるそうに顔を上げる…食事にありつけなかった湧のテンションは限りなく低かった。

 京一も似たようなものだったが、一応案内役を買って出た手前か、やる気なさげにある部屋を指差して答える。

「あァ、あれさ……オカルト研究会。通称、霊研。B組の裏密うらみつってのが部長をやってんだが…」

 その部長の占いが百発百中…は大げさとしても、かなりの的中率だとかで女子の間では大人気らしい。

 中には授業中から並ぶ強者さえいるとか。

「…しっかし、物好きだよなァ。占いなんて当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うだろ?何でそんなモン信じられんのか、俺にゃ謎だぜ」

 理解できねェ、とばかりに京一は首を振った。



 その時、不意に日が翳った。

『――きょ〜いちく〜ん…』

 何処からともなく響く、不気味なエコーのかかった声に京一が固まった。

 なぜか体感温度までが数度下がったような気がして、湧は体を震わせる。

「こッ…この声は……うッ、裏密ッ!?」

「うふふふ〜ミサちゃんて呼んでェ〜」

 声の主は、いつのまにか京一の真後ろにいた。

 女生徒…だろう。瓶底眼鏡とオカッパ頭、ぼろ布をつぎはぎしたような人形を抱いた姿が印象的だ。

 ――しかし、ここは見通しのいい廊下で、誰かが近づいてくればすぐに分かった筈なのだが…何処からどうやって現れたのだろう?

「おッ…お前、今占ってるはずじゃ…?」

 心なしか、京一の声が震えている。

 裏密と呼ばれた少女曰く、

「あたしに似せた〜ゴーレムを置いて〜、代わりをさせてるの〜」

 …との事だが、湧には理解不能だった。

 と、彼女はぐるりと首だけを回して湧を見た。

「あァ〜、この人、もしかして〜今日来た転校生〜?」

「あ、あァ…まあ、な」

 裏密の唇がにいッ、とつりあがり笑みの形を刻む。

「うふふふ〜。あたし〜魔界の愛の伝道師〜、ミサちゃんです〜。どうぞ、よろしく〜」

 ひょこん、と触れてもいないのに人形の右手が持ち上がった。

 ピコピコ、と握手を催促するかのように上下に動く、いびつな手のひら。

「……石動湧です。ミサ、ちゃん?お目にかかれて光栄の至り」

 よろしく、と人形相手に握手を交わす。

「うふふふ〜。ミサちゃんもうれし〜。これは因果律ファトゥムによって〜、定められたことなのね〜」

 …イッタイ何語ナンダロウ?と現実逃避気味に考える湧の腕を京一が引っ張った。

「あはははは…。ぢゃッ、俺たちはこれで…」

「うふふふ〜何処行くの〜」

 一刻も早くこの場を離れたいのだろう、京一が苦しい言い訳を試みる。

「どッ、ドコ行くの、って…ひ、昼休みももう終わりだし…なッ、石動」

「……ま、そーだね。残念だけど…」

 確かに予鈴まであと三分も無い。もう少し付き合ってみたい気もしたが、頷いておく。

「…ふ〜ん。――そうだ〜、今度二人で、霊研に遊びに来て〜」

「れ、霊研にかぁッ!?」「うん、また今度ね」

 彼女は満足そうに――さて、どちらの返事にやら――笑うと、そのまま滑るように廊下の向こうへと消えた。



「……なァ、蓬莱寺。今彼女、“足を動かさずに”移動したように見えたんだけど…?」

「…気にすんな、裏密のやるこった」

 ははははは…と渇いた笑いを洩らす。

『――うふふふ〜』

 再びあの笑い声が聞こえたような気がして、二人は同時に顔を見合わせた。

「…なんか寒気がしてきた…。はッ、早く行こうぜッ」

 さすがに、湧にも異存は無かった。





 教室に戻って自分の席につくと、きつい視線を感じた。佐久間と呼ばれた男子――。

(…仕掛けてくるかな…?)

 この様子では、そのうち向こうから手を出してくるだろう。出来れば穏便に済ませたいが…。

「――起立。礼…」

 …もしも妙な《力》を持っているようなら油断は出来ない。

 万一の時は迎え撃つべく、湧は覚悟を決める事にした――――。






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