久遠刹那 第弐話
【序、変事】
埃臭く、薄暗い廊下を歩く人影が二つ。古びた木の床がギシギシと音をたて、軋む。
「――どこまで行くのォ?」
人影の一つ、白いセーラーに身を包んだ少女が口を開いた。
「…へへッ、いいからいいから」
学生服の少年は悪戯っぽく笑うと、少女をもっと奥へと誘う。
――――昼なお暗い、真神学園旧校舎。
立入禁止で封鎖されている筈のここに今、二人の生徒が足を踏み入れていた。
生徒たちの間で密かに噂されていた『秘密の抜け穴』…その正確な場所を部活仲間から聞いたのは数日前。
普段なら、何かと聡いと評判の生物教師に見つかる所だろうが、今は始業式の最中――このためにわざわざ抜け出したのだ――誰に見つかる心配も無い。
好奇心を満たすため…と言うよりはちょっとした度胸試しのつもりで、同級生の少女を誘って入ってみた。
怯える少女に格好良く頼れる所を見せて、あわよくば…などという下心もあったりする。
と、そんな彼の魂胆に気づいているのかいないのか、少女はサッと少年を追い越した。
「フフッ、早くおいでよォ」
「オ、オイ待てよ…あんま、走るなって!」
案外度胸のある少女に少しアテが外れるのを感じながら、追いかける。
古い木の床は所々腐ったり捲れ上がったりしているため、急ごうとすると危なっかしい事この上ない。
「早く早くゥ。――――ヒッ!?」
笑いながら少年を待っていた彼女の表情が一変する。
「ん?…なんだよ、怖えェ顔すんなよ」
漸く追いついた少年が訝しむ。暗くて顔色は判らないが、少女の表情ははっきりと怯えを映していた。
彼女は震える指で廊下の一角を指した。
「あッ、あそこ……何か…何かいる」
「あーん?ナニが?どこに…。――――あッ!!」
目線を追った少年の方も“それ”に気づいた。
――――くちゃり、くちゃり――――
後退りした二人の耳に、微かな音が届く。何かを咀嚼するような湿ったそれに思わず見回すと……。
――どうして今まで気づかなかったのだろう?
見上げた天井のあちこちに“それ”はとまっていた…もちろん彼らが来た通路の方にも。
「…あ…あァッ……」
掠れた声を上げ、少年がへたり込む。二人を取り囲み近づいてくる、無数の小さな――“赤い光”。
「キ…ッ、キャアァァァッッ!!!」
悲鳴で肺の酸素を出し尽くした少女はそのまま失神した――或いは、それはまだしも幸いだったのかも知れない。
傍らの少年のように生きながらにして肉を喰われ、目玉を抉られ…全身の血を啜られる感触を味わわずに済んだのだから。
かくして、二人の少年少女は少しばかりの好奇心のために高過ぎる代償を支払った…自らの命、という形で。
真神――いや、“魔人学園”に潜む闇が、静かにその牙を剥かんとしていた。
折しも《人ならざる力》を持つ少年、石動湧が転校してきたその日の事であった――――。
偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜
第弐話 怪異
【一、好奇】
(――何だったんだ、一体……)
転校二日目――初日の悔しさをバネにした女生徒たちの勢いは、それはもう凄まじかった。
前日、途中で打ち切られた質問の続きから学校案内の申し出、部活の勧誘にアンケート…適当にはぐらかしたものの、休み時間の度に取り囲まれてトイレに行くのも一苦労だった。
…真剣に(佐久間たちと闘った時以上に)、身の危険を感じたほどである。
しかしながら…生来、人の顔の美醜に無頓着な湧にとって、彼女らの反応は全く理解の外だったが。
「おいッ、石動――」
女生徒たちから漸く解放されて帰ろうとした湧は、聞き知った声に呼ばれて足を止めた。
「…へへへッ。一緒に帰ろーぜッ」
蓬莱寺京一…昨日の不良たちとの立ち回りで、一介の高校生とは思えないほどの剣技を見せた同級生である。
「別にいいけど……なんか企んでないか?」
皮肉げに微笑む。昨日、一応助けてもらったとはいえ、こんなに親しげにされるほど仲良くなった覚えは無い。
それに、今日一日感じた視線も気になった。
佐久間のような敵意の篭ったものではなかったが、湧の一挙手一投足を観察し値踏みするような…。
その一つは醍醐と呼ばれた巨漢、そしてもう一つが目の前の男。
何のつもりかは知らないが、目的が判るまでは易々と気を許すつもりは無かった。
「へへッ、実はさ……この時間、学校帰りの女子高生がたむろしてる場所があんだよ。もう俺なんて、考えるだけでよだれが…」
無かった…のだが。だらしなく顔を緩ませた京一を見て、全身の力が抜ける。
「……下半身男…」
警戒するのが実に実に馬鹿らしくなってくる。溜息混じりに呟くが、京一は聞く耳もたずに湧の肩を掴んだ。
「――んなコト言ってる場合じゃねェんだよ。早く行かねェと、俺のカワイイ子羊ちゃんたちがタチの悪いオオカミに喰われちまうからなッ!」
…一番タチが悪いのはお前だ。そう悪態をつこうとした湧の視界に長い黒髪が映った――次の瞬間。
「いっするっぎくんッ!一緒に帰りましょッ!」「どわァッ!?」
いきなり後頭部を鞄で張り倒され、京一が床に突っ伏す。鞄の主は…遠野杏子。
「…アン子…ッ、お前なァ……」
「あらッ、京一。いたの?」
起き上がって睨みつける京一に、あたかもたった今気がついたような顔をする杏子。
「いたの?じゃねェッ!最初ッから居るだろーがッ!!」
「…京一、あんたカルシウム足りないんじゃない?大の男が細かい事ウジウジ言わないの」
声を上げて詰め寄る京一を杏子は軽くいなした。口をパクパクさせる彼を無視して、湧に向き直る。
「ねェ、石動君。昨日の事だけど――」
――昨日の事。佐久間とその取り巻きに絡まれてリンチされかけたのを返り討ちにした…と言えば正当防衛のようだが、実際は《力》の持ち主かどうか確認するためにさんざ挑発した挙句、普通の人間と判って始末に困り力業でケリをつけたのである。
絡んできた彼らの自業自得と言えなくもないが、何にせよ武術の基礎も出来ていない相手を叩き伏せたのは、今の湧にとってはかなり不名誉な事だった。
「――あの後、あいつらと…石動君、何があったの?」
なので、杏子にそう訊かれても曖昧に誤魔化すしかなかった。
「何が、って言っても…すぐ蓬莱寺が割り込んでくれたし、醍醐くんも来たし…何て事なかったよ」
杏子が疑わしげに京一を見る。
「……ホント?」
「え?あー…あァ、ホントホント」
京一は一瞬湧に目を向けると、慌てて頷いて見せた。
確かに嘘は言っていない…が、この言い方だと事情を知らない者には京一と醍醐が佐久間たちを退けたように聞こえてしまう。
事実の一部を話さずに相手の誤解を誘う――この手の詐術は湧の得意分野である。
「…うーん……まあ、いいか。それはそれとして、今からチョット取材させてよ。『謎の転校生、石動湧…その素顔に迫る!』ってね」
もう見出しも決めてるんだ、と言った杏子に京一が割り込む。
「あのな、俺たちゃ忙しいんだよ。興味本位の野次馬に付き合ってるヒマはねェの!」
別に京一に付き合って欲しい訳じゃないと言う杏子に、一緒にラーメン食いに行く約束があんだよと返す京一。
(――そんな約束したっけか…?)
本気で首を傾げる湧に構わず、二人の言い合いは続く。
「あんたねェ、ラーメンとあたしの取材とどっちが大事だと思ってんのよッ!」
「もちろんラーメンッ!」
身も蓋もなく断言され、杏子はうッ、と言葉に詰まった。
「…石動君、キミもこのアホに付き合う事ないのよ?」
アホ、の所にアクセントを置いて言う杏子。しっかり京一を指差しての発言である。
さすがに返事に困り、やむなく実利を取ることにする。
「いや、まあ…。ラーメンはともかくとして、先に声かけたのは蓬莱寺の方だし…取材はまた今度って事で」
「……石動君って、優しいのね。こんなアホを庇うなんて」
感動したわ、という面持ちになった杏子は、瞳を潤ませ湧の手をとった。
「でも、無理しなくていいのよ…嫌なら嫌って言わないと。ラーメンなんかより、あたしと喫茶店でお茶でもどう?」
…感動の表情が思いっきりポーズなのは台詞の内容から丸判りであるが。
いっそ潔いぐらいの厚かましさに、湧と京一はガックリと肩を落とした。
「…アン子、諦めろよ。俺たちは、お前と違って美食家だからな」
「雑食なだけでしょッ!!」
京一の言葉に反射的に切り返してから自分で演技をぶち壊したことに気づいた杏子は、一つ咳払いをして目を逸らす。
「…………もういいわ。二人で勝手に、ラーメン屋でデートでもしてなさい」
残念だったな、と笑う京一をひと睨みすると彼女は湧にだけ「またね」と別れを告げ、背を向けた。
「アン子、まっすぐ帰れよッ。腹いせに下級生なんて襲うんじゃねェ――ぐァはッ!」
京一が言うが早いか、杏子は抜く手も見せず黒板消しを引っ掴み、豪快なスイングで投げつけた。
「…おー、直球ストレート、ど真ん中」
顔面を直撃されて床に沈んだ京一を尻目に、湧は薄情にも杏子の豪腕に感心するのだった。
軽くガッツポーズなどとった彼女は、そのまま3−Cを後にした。
「――なかなか手強いわね…」
教室を出て扉を閉めると、さっきまでの笑顔はどこへやら、杏子は真剣な表情になった。
彼女とて伊達にジャーナリストを目指している訳ではない。実は湧の使った話術にも気づいていた。
だいたい、湧に直接当たるより先に、リサーチはしておいたのだ。美里や小蒔にそれとなく訊いてみたり、今日一日かけて(授業をサボって)佐久間の手下たちを観察したり…その結果、杏子が見た所では、不良たちは明らかに“石動湧に対して”畏怖を感じていた。
京一や醍醐がやったのならば湧本人を恐れる理由は無いハズ…つまり、彼らを怯えさせるに足る実力があの少年にはある事になる。
「……これは、何としても突き止めなくちゃ」
杏子は久々のスクープの予感に、口元が緩むのを抑えられなかった――――。
「クソッ、いてて…当たりドコロ悪くて死んだら、どーするつもりなんだ…」
「――まったく、お前は見てて飽きん男だよ」
涙目で鼻を押さえながら立ち上がる京一に、後ろからやって来た大男が声をかけた――醍醐雄矢である。
「おすッ、石動」
「…醍醐くん、昨日はどうも」
「醍醐…何だよ、お前いつからそこに…?」
京一が決まり悪げに言うと、醍醐はフム、と顎に手をやり考える仕草をした。
「そうだな…。『アン子、お前なァ…』の辺りからか」
…つまりは、殆ど最初から見ていた訳で。
「お前な…それじゃ助け舟くらい出せよッ」
「悪い悪い。見ていたら、あんまり面白かったんでな」
笑いながら全く悪びれずに言う辺り、この男も結構な性格かもしれない…人の事は言えないが。
「ちッ、どいつもこいつも…。お前、部活じゃねェのかよ。それとも、格闘技オタクの部長が部員の首でも折って、レスリング部は廃部にでもなったか?」
「はははッ。残念ながら、まだだ」
京一の悔し紛れの悪態を平然と受け流すと、醍醐はさりげなさを装って言った。
「…ところで京一、ちょっと石動を借りていいか?」
「……俺?」
いきなり名前を出された事に驚き、湧は自分の顔を指差した。
何気ないように言ってはいるが、醍醐が湧に向ける視線にはある種の緊張感――喩えるなら試合を目前にしたスポーツ選手のような――が窺える。
京一も、その意味する所に気づいたようだった。
「…は…ん、なるほど。――昨日の事だな」
「昨日……何の事だ?」
しらを切る醍醐だが、その瞳はどこか楽しむような笑みを湛えている。
「とぼけんなよ、まったく…。お前がそうやってニヤニヤしてるのは、プロレス中継観てる時かウソついてる時しかねェだろッ」
そこまで言うと、京一は不意に何かに思い至ったのか声をあげた。
「――さてはお前ッ、昨日最初から見てやがったな?大方、俺と佐久間が闘り合うのを見るつもりだったんだろうが…」
醍醐は無言のまま、それで?と表情だけで先を促す。
「こいつ――石動の技に興味を持った…そんなトコじゃねェのか、醍醐?」
ズバリと指摘されて、醍醐は感嘆したような――呆れたような?――微妙な溜息をついた。
「……全く、お前には驚かされるよ。それだけ頭が切れながら、学校の成績は最悪っていうんだからな」
「お前なァ、褒めるか貶すかどっちかにしろッ。それに最悪ってなナンだ最悪ってな…せめて思わしくないとか芳しくないとか言えッ」
腐りながらもあえて成績の悪さを否定しない所は、果たして漢らしいと言って良いものかどうか。
俺はいい友を持ったよ、と笑いながら言う醍醐に京一はやかましいと悪態をつき、そっぽを向いた。
「――まあ、そこまで判ってるなら話が早い。…石動、そういう事なんだ。すまんが、ちょっと俺に付き合ってくれないか?」
「…手合わせしたいって訳ね。まあ、イイでしょ」
真っ直ぐこちらを見据える醍醐に、湧は軽い調子で頷いて見せた。――――だが。
(――敵か、味方か……?)
京一や佐久間とのやり取りから、この偉丈夫が相当な強者である事は判る。
見た目穏やかな態度から、自分の力を誇示したがる性格ではなさそうだとも思う。しかし……。
『――人の心には、誰しも陽(と陰(がある――』
鳴瀧はそう言った。現に、莎草もより強い《力》を求めた結果、異形の存在へと《変生》し…塵に還った。
醍醐の本心がどうであれ、根底にあるのが『強さへの欲求』であるならば…それは、ともすれば容易に陰へと惹かれかねない。
――――斃すべき敵か、否か。
今度こそ慎重に見極める必要がある、と湧は考えていた――――。
(――――ん?)
醍醐の案内でレスリング部へ向かう途中…校舎の裏手に来た所で、湧は足を止めた。
「どうした、石動…?」
「しッ!」
怪訝な顔をする醍醐と京一に黙っていろと手で合図すると、気配を殺して後退り、壁に張り付いた。
彼らの後から足音を忍ばせてついて来た人物が、角を曲がったのはその時だった。
(――ふっふっふ…。スクープ、スクープ…)
教室の外から彼ら三人の様子を窺っていた杏子は、その成り行きに内心狂喜乱舞していた。
京一と並び、新宿きっての猛者である醍醐雄矢――『真神の醍醐』という異名さえあるほどだ――が、細面の転校生に決闘を申し込んだのである。
生真面目な醍醐の性格から考えて、佐久間たちの意趣返しという事はあり得ない。
ならば、純粋に湧の強さを認めた上での事だろう。
それだけでも十分に凄い事だが、もし万が一にも転校生が勝とうものなら……。
(――あの無敵不敗の醍醐を倒したのは何と美貌の転校生だった…『石動湧、強さの秘密!!』これよ、これだわ!ううん、負けたって記事にはなるけど意外性を考えればやっぱり…。ああッ、でもでも、いくら何でも石動君があの醍醐君に勝てるとは思えないし…)
そんな事を考えながら彼らの後を尾ける杏子。頭の中では次の真神新聞のレイアウトまで出来上がっていた。
先を行く三人に少し遅れて校舎の角を曲がる。
…と、そこには何故か醍醐と京一の二人が驚いたような表情で立っていた。
「えッ!?アンタたち、何で…」
ギクリとして足を止める杏子。動揺のあまり、彼女は人数が一人足りないことに気づかなかった。
そして…。
「――はうッ」
首筋に何か痺れるような感触があった、と思った次の瞬間には杏子は意識を手放していた。
「――ごめんね、遠野さん」
倒れかかった杏子の身体を抱きとめて、湧は呟いた。
「へへッ、やるねェ」「石動、お前なァ…」
ニヤニヤ笑う京一と呆れ顔の醍醐に向かって軽く肩を竦める。
「大丈夫。ちょっと失神してもらっただけで、怪我はさせてないから」
掌に《氣》を込め、首筋から脊椎に流して意識を奪う…鳴瀧から教わった応用技の一つである。
相手を一切傷つける事無く行動不能に出来るので、こういう時には重宝する。
…もっとも、自分より圧倒的に技量の劣る相手にしか使えないが。
「俺、まだヘンに目立ちたくないしさ、説得なんて聞いてくれそうにないし…合理的だろ?」
「そういう問題じゃないだろう…」
悪びれずに言ってのける湧を醍醐が咎めようとする。が、そこに京一が助け舟を出した。
「まァまァ。このままアン子がついて来て記事にでもされたら、石動が面倒な事になるって大将にも判るだろ?」
むぅ、と顔を顰めた醍醐は、ややあって渋々と頷いた。
「……今回だけだぞ」
堅物の彼をしてそう言わしめたのは強者と闘いたいという武道家の本能からか、それとも…杏子の日頃の行いゆえか。
何にせよ、気絶した彼女は『誰かに見つかって変なコトされちゃマズイだろ?』という元凶(湧)の提案により、人目につかない茂みに放置され…せっかくのスクープを逃すのだった。
――――哀れなり、杏子。
【二、決闘】
「――ここも、相変わらずだな……」
以前にも何度か来た事があるのだろう、京一が呟く。
真神学園レスリング部部室――古い教室を改造したらしいそこは、予想外に整頓されて設備も整っていた。
レスリング部にしては真ん中に設置されたリングやサンドバッグ、ダンベルなどの各種トレーニング用品はここが言葉通りの『レスリング部』ではなく、プロレスを主体とした総合的な格闘技を研究しているのではないか、と思わせる。
ただ奇妙なのは、これだけ整った部室に今は誰もいないことだろうか…他の部は忙しく活動している時間帯なのに。
京一がそれに気づいて醍醐に問うと、「昨日の夜、佐久間と他校生が歌舞伎町でモメてな」と返ってきた。
そのタイミングだと多分…というか、まず間違いなく自分と闘って負けた憂さ晴らしか何かだろう。
「……ごめん」
「あァ、いや、別に石動のせいじゃないさ」
頭を下げた湧に、「気にするな」と醍醐が笑う。
結局その件で相手の学校やPTAから真神学園に苦情が来たらしい。
「――処分はまだ出てないが、自主謹慎の意味も込めてしばらく休部さ」
けじめをつける、という事なのだろうか。しらばっくれちまえばイイじゃねェか、と言う京一を笑っていなす醍醐には、しっかりした倫理観と責任感の強さが感じられた。
「まったく…お前はカタすぎるぜ」
溜息混じりに悪態をつく親友を咎めるでもなく、醍醐は言った。
「そう言うな、京一。――それよりも、お前…いつまでここにいるつもりなんだ?」
京一が大袈裟に顔を顰める…どうやら、観戦を決め込むつもりだったらしい。
「そういうトコがカテェってんだよッ!イイじゃねェか、別に」
「全く、お前って奴は…仕方ない、行けといって行く男じゃないか」
諦め顔で言った醍醐に京一がフン、と鼻を鳴らす。
「――その代わり…手を出すなよ」
「誰が頼まれて、猛獣の闘いにチョッカイ出すかよッ」
京一の悪態に満足げに目を細めると、醍醐は湧に向き直った。
「そういう訳だ、石動。悪いが…お前が何と言おうと、俺と闘ってもらうぞ」
彼の闘志に満ちた視線…常人ならば怖気づいてしまうだろうそれを、湧は真正面から受け止めた。
「……お手柔らかに」
その言葉が合図だったように、彼らはリングに上った。
二人は互いに反対のコーナーポストに陣取った。睨みあいながら、慎重に間合いを取る。
こうして醍醐と改めて相対すると、凄まじい重圧感(を感じた。
昨日、佐久間たちに囲まれた時とは比較にもならない。
鳴瀧の下で修行していた頃の緊張感が甦る…本物の武道家のみが発する静かな威圧感に、湧は知らず息を呑んだ。
(――あの巨体なら、動きはこっちよりも遅いはず…)
そう判断すると、湧は一気に踏み込んだ。
何しろウェイトに差がありすぎる…この限定された空間内では、長期戦は不利だ。
一拍遅れて、醍醐が動き出す。思った通り、その動きは湧のそれより数段遅かった――――が。
(――な…ッ!?)
ゴォッ、と湧の顔面すれすれを風が薙いだ。
醍醐が回し蹴りを放ったと気づいた時にはとっさに首を反らしていた――でなければ今ので頚骨を折られていただろう、それほどの威力を秘めた蹴り――だが、それすらもフェイントにしか過ぎなかった。
「――でやああッ!!」
「ぐァ…ッ!」
気合の声と共に繰り出された中段蹴りをもろに喰らい、湧はロープまで吹き飛ばされた。
――ひとつ、湧が誤解していた事がある。
『身体が大きい者はパワーがある分動きが遅い』…これは間違ってはいないが、正確でもない。
確かに身体が大きい=重いという事は、より強い慣性がかかるという事…その為に『初速』は遅くなる。
だが、それは必ずしも『最高速度』を意味しない。
そして、醍醐はとっくの昔に自分の欠点を自覚していた。それゆえ筋力――それも瞬発力を徹底して鍛え、技そのものの『迅さ』を上げる事でそれに対処していたのだ――――。
「――げほッ、ごほッ…」
ロープに凭れて激しく咳き込む…丸太でも打ち込まれたような、強烈な蹴りだった。肋骨を折られずに済んだのが不思議なくらいだ。
と、湧は妙な事に気づいた――――次の攻撃が、来ない。
顔を上げると、醍醐はさっきの位置にいた。
油断している…訳ではない。彼は真っ直ぐに湧を見据え、リング中央で身構えている。
見くびられた、と頬が熱くなる――生来の負けん気の強さが頭をもたげた。
「…なんで、今のうちに仕掛けなかった?そうすれば、勝てた筈だ」
自然と語調が強くなる。実戦ならば、今ので確実に殺されている…それを認めたくない悔しさもあった。
…だが、醍醐の口から出たのは、意外な言葉だった。
「――それでは意味が無いだろう?俺は昨日、お前の闘いを見ていた。だが、お前は俺の技量を知らない…お互い、100%の力で闘いたいのさ」
彼が望んだのは、あくまでも武道家としての公正な立ち合いであり、勝つ事自体に拘ってはいない…。
太い笑みを浮かべる醍醐を見て、湧の中で何かが変わった。
この三ヶ月間鳴瀧から教わったのは、いかに相手の力を封じつつ合理的に闘い仕留めるかという、いわば相手を『斃す』ための武術だった。
だが、目の前の男が目指すのは、それとは全く違う…己を高めるための『武道』。
本当の父親が修得していたという『陽の技』――相手を活かし、互いをより高みへ――その魂の片鱗を、この漢の中に見た。
「――後悔、するなよ…」
そう言った湧の顔には、期せずして醍醐のそれと同じ微笑みが浮かんでいた。
(――――微笑ってやがる……)
攻勢に出た湧の『本気』の動きに京一は瞠目した。興奮のあまり、知らず握った手のひらが汗ばむ。
独特の歩法で瞬時に間を詰め、舞うが如くに醍醐の蹴りを掻い潜っては掌打を打ち込む。
昨日佐久間たち相手に見せた技ですら、今のそれとは比べ物にならない。
攻撃の一つ一つが的確に人体の急所を狙い、常人であれば一撃で昏倒させるだけの威力を持っていた。
また、醍醐も凄まじかった。
小柄な湧と違い素早さに欠ける彼は、相手の攻撃を『躱す』のではなく鎧のような筋肉と微妙な体捌きで『受け流す』事によってダメージを最小限に抑える。そして、動きの止まるほんの一瞬を見逃さずにカウンターを繰り出すのだ。
鍛え抜かれた巨躯が生み出すパワーは、相手の身体のどこに当たろうとも、その部位を確実に破壊する。
自らの才能に溺れず、努力を積み重ねた者だけが得られる『強さ』がそこにあった。
自身の特性を正確に理解し、それを最大限に活かした二人の技…全く異なる個性を持ちながら、その強さはまさに互角。
一進一退、というには壮烈過ぎる攻防を繰り返す彼らの闘いに、終わりは無いのかと思えたが――――。
(――貰ったッ!!)
致命打になりかねない攻撃を紙一重で退けながら、醍醐はひたすら待っていた…湧の動きに自分の目が、身体が慣れるのを。
そして、顔面を狙って繰り出された湧の繊手を遂に捕らえる。
動きの止まった彼の胴めがけて必殺の蹴りを放った醍醐は、己の勝利を確信した――――鳩尾に激痛を感じるまでは。
掴んだままの腕からゴキリ、と厭な音が響いた――。
――それは、一瞬だった。
醍醐が湧の左腕を掴んだと見るや、湧はすかさず放たれた回し蹴りを跳び上がることで強引に躱し、自分の爪先を醍醐の鳩尾に打ち込んだのである。
「むうぅ…ッ」
醍醐は苦し紛れに湧の身体をマットに叩きつけ、自らもガクリと膝を折った。呻きながら腹を押さえ、口元から血が滴る。
「…う…ッ…」
倒れこんだ湧が膝をついて起き上がる。その左腕は力無く下がり、額からは叩きつけられた時に切ったのか、朱いものが流れていた。
「――オイオイ、お前ら…」
京一が止めに入る。双方共にかなりのダメージを受けていた――これ以上続けたら、さすがに洒落にならない。
そう判断し、割り込もうとしたのだが…。
「…手を出すなと言ったぞ、京一」「今止めたら殺すぞ、蓬莱寺」
二人から全く同時に出たのはそんな言葉――苦痛に顔を歪めつつも、彼らの瞳には未だ闘志が漲っていた。
立ち上がり、再び距離を置いて向かい合う二人…だが傍目から見れば、今の攻防で左腕を犠牲にした湧の不利は明らかだった。
湧が息を整えながらゆっくりと自分の左肩に手をやる。
どうする気だ、と目で問う京一の眼前で、信じ難い事が起こった。
『――解るかね、湧君。武道の極意というのは、精神にあると言っても過言ではない。精神を制御するんだ――』
(…ハイハイ。解ってますよ、鳴瀧さん……)
修行の時、一番最初に言われた言葉を思い起こしながら、湧は呼吸を整えた。
脳裏に描くのは《氣》を制御するための基本姿勢――――《結跏趺坐(》。
脱臼した左肩を掴み、元通り嵌め込んだ。
神経が脳に激痛を訴えるが、精神を集中する事で思考から追いやる。
目に入った鮮血を拭い、紅く濡れた前髪を上げて醍醐を見据える。
額からの流血は、既に止まっていた――。
(――何モンなんだよ、コイツ……?!)
京一は驚きに目を見開いた。
脱臼を自分で嵌め直す、これはまだ良い。自分や醍醐もこれくらいはやった事がある。
しかし、それでも激痛で暫くはまともに動かす事など出来ないものだ…にも拘らず彼は平然と、調子を確かめるように肩を回している。
――――高度な《氣》の使い手は、精神で自分の肉体を制御できる。
痛覚はもちろん、意思の力で出血を抑える事が出来る者も居るのだと知ってはいた――知識としては。
だが、自分の師匠以外でそんな達人級の使い手に出逢う事があろうとは――。
(――面白い…)
醍醐が修めた様々な武術の中には、《氣》を扱うものも存在した。
また、心の師と仰ぐ人物は『精神修養に役立つ』と言ってその為の呼吸法を教えてくれた。
…もっとも、実戦では長らく使ってはいなかった。それは何処か、人間が扱うには過ぎたものに思えたから。
高一の頃、同じく《氣》を取り入れた剣術を操る京一と闘った時以来、醍醐はそれを試合などで使う事はしなかった。
しかし今、明らかに優れた《氣》の使い手を前にして、醍醐は『それ』を使うべく意識を集中した。
《氣》を制御する事により、肉体の物理的な耐久力を飛躍的に向上させるその技――――《硬気功》を。
――三者三様、闘い方は違えども同じ《氣》の使い手たち。
部室を圧するほど高まった闘氣に、彼らは闘いの終局を予感した――次の一撃で、決まる。
「――破ァァァッッ!!」「――うるああァァッ!!」
気合と共に、二人の膨大な《氣》がぶつかり合った――――。
「――おい、生きてるか?醍醐……」
闘いの後、立っていたのは湧の方だった。
至近距離からの《発剄》をまともに浴びた醍醐は、リング中央で大の字に横たわっている。
勝者である湧は、今この場にはいない。彼は倒れた醍醐に一言だけ声をかけると、部室を後にしていた。
京一が繰り返し呼びかけると、醍醐はゆっくり目を開けた。京一は跪いて、その顔を覗き込む。
「…見事に、やられたな」「……あァ…」
まだ朦朧としているのか、醍醐の反応は鈍い。
不安になる内心を押し隠して、京一は茶化すように声をかけた。
「けど、醍醐雄矢ともあろう男が一介の転校生にだぜ?他の連中が知ったら、大変な事になるだろうな」
その言葉に、ようやく醍醐が口元を綻ばせる。
「ははは…そう言うな、京一。真っ向から勝負して負けたんだ……仕方あるまい」
言いつつも、その顔はこれまでになく清々しい笑みを浮かべていた。
――俺と闘り合った後にはこんな顔をしていただろうか?と、京一はふと嫉妬めいた思いに駆られる。
「…ナンだよ、ずいぶんと殊勝じゃねェか」「――らしくない、か?」
京一の悪態に腹を立てるでもなく、醍醐は澄んだ瞳を彼に向けた。
「まッ、お前の気持ちがわからねェでもねェし…な」
肩を竦める――それは全くの本心だった。
勝つにせよ、負けるにせよ、あれほどの使い手と闘り合えたのだ…武を志す者としては本望だろう。
「……石動、湧…か。何処であんな技、覚えたんだ?」
「さァ…な。だけど、ありゃあ本物だぜ」
自分と醍醐の闘いでは、お互いに《氣》を使い果たして水入りに終わった。こうして親友同士になってからは、闘い方が違い過ぎる――何しろ木刀と素手だ――せいもあって手合わせもロクにやっていない。
だが、あの転校生は桁外れの《氣》でもって醍醐の《硬気功》を打ち破って見せたのだ。
「あァ…今まで闘ってきた、どの相手とも違う…。――どうだ、お前も…」
「…バカ野郎、俺なんてモノの一分も保たねェよ!それに――」
ふと、そこで口を閉ざした。
京一の脳裏に、先程湧が残した言葉が甦る――気絶した醍醐には聴こえていなかっただろうが――。
『――ありがと…な…』
どうして彼が、醍醐に向かってそんな事を言ったのかは判らない。
だが…その一瞬、彼が見せた横顔に京一は何故か思ったのだ――羨ましい、と。
不可解な感情を振り払うように、京一は頭をブンブンと振って続けた。
「――それにまだ、高校生活だって『えんじょい』してェしなッ」
「はははッ、喰えない奴だ。心にも無い事を……」
見透かすように笑うと、醍醐は立ち上がろうとしてよろめいた。
「……痛ててッ」
「おらッ、肩貸すぜッ」
顔を顰める醍醐の身体を、京一はぶっきらぼうに支える。
「――不思議だな……」
「あん?ナニがだ?」
遠くを見るような瞳で醍醐は言った…独り言のように。
「いい気分だ…。何か、探していたものを見つけたような…長い間の憑き物が落ちたような、そんな気分だ」
「…ナンだそりゃ?」
訳が解らない、という顔をする京一。
それに構わず、醍醐はひたすらに穏やかな…安らいだ表情で繰り返す。
「…久しぶりに……いい…気分だ…」
「おい…こらッ、醍醐ッ!シャキッと立て、おいッ!?」
目を閉ざし、全身の力が抜けた醍醐の巨躯を支えきれずに京一は悲鳴をあげた。
一人眠りの世界に落ちた醍醐を、京一がどうやって家に帰したかは定かでない――――。
――レスリング部部室を出た数分後、湧は校舎裏の壁に凭れかかっていた。
「……イテテッ…」
涙目で胸を押さえる――自分が《発剄》を放つ瞬間に、醍醐の蹴りも入っていたのだ。
カウンターで威力が半減していたとはいえ…。
「ヒビでも入ったかな、こりゃ…」
所詮《結跏趺坐》は一時凌ぎでしかないのだ。
一時的に出血や痛みを抑える事は出来ても、傷そのものを癒せる訳ではない。
この怪我が治るまでには軽く二、三日はかかりそうだった。
けれど、不覚を取ったにも拘らず、悔しさは少しも無かった。それどころか…。
「…いい気分、なんて…。変かな、俺……?」
だが、事実そう感じたのだから仕方が無い。
我ながら、おかしな話だ――修行であれ喧嘩であれ、闘いを楽しんだ事など無かったはずなのに。
全力を出し切って勝ったのも初めてなら、それを心から『楽しい』と感じたのも初めてだった。
「へへッ……」
痛みに顔を顰めつつも、湧は笑った。純真な子供のような、笑顔だった。
「――はぁっくしょんッ!!……あれ…あたし、なんでこんなトコで寝てるの…?」
三人が…どころか全校生徒が帰って久しい真夜中に、杏子は草むらの中で目覚めた。
湧たち三人を尾けて校舎裏まで行った、そこまでは覚えているのだが……。
「……どおぉなってんのよォォッ!?!」
深夜の学園に、忘れ去られた新聞部部長の叫びが虚しく響く。
空に浮かんだ円い月が、いっそ白々しいほどに綺麗だった――――。
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