【三、寄り道】



「――…いない、なァ……?」

 翌日の放課後、湧はマリアに呼ばれて職員室に来ていた…が、肝心の相手が見つからない。

 他の教師にも尋ねてみたが、彼女の居場所を知る者はいなかった。

「…仕方ない、か…」

 帰ろうと引き戸に手をかける。

 だが、断りなく行ってしまう事に抵抗を感じ、もう一度彼女の机を未練げに振り返ると…。

「――おっとッ」

 …入ってきた誰かとぶつかってしまった。

「す、すみませ…」

「ん?お前は…石動、湧…?」

 白衣に染み付いたきつい煙草の香りに顔を上げる。

 そこにいたのは眼鏡をかけた長身の男――3−B担任の犬神杜人いぬがみもりひとだった。

「犬神、先生…」

「――どうした、こんな所で。マリア先生に何か用か?」

 彼女に呼ばれたんですが、と答えると犬神の瞳がほんの一瞬鋭さを増したような気がした。

「…なるほどな。マリア先生なら、じきに戻ってくるだろう。俺は退散するが――」

 そう言って背を向ける犬神…だが、ふと思い出したように付け加える。

「――石動。彼女に気を許すな。美しい花は美しいだけじゃないって事を、忘れるな…」

「…?あの、それはどういう…」

「――じゃあな」

 どういう事でしょうか?と訊く湧の言葉を遮るように犬神は戸を閉めた。

 ちょうど入れ替わるようにマリアが反対側の戸から入ってきたのは、その時だった。



「――待たせてしまって、ゴメンなさい」

 ニッコリと微笑んで椅子を勧められ、湧はマリアと向かい合うように腰掛けた。

「…石動クンは、蓬莱寺クンと仲がイイようね?」

 フフッ、と意味ありげに微笑まれて湧は苦笑した――転校初日に大喧嘩(それもかなり低レベルな)をした事が彼女にも伝わったらしい。

 湧の表情を見ると、マリアは皮肉じゃないのよ?と言って言葉を続けた。

「――蓬莱寺クンは、ああいう自由奔放な性格だけどすごく優しいコだから、色々相談するといいわ。きっと良い友達になれるから…」

 彼女の言葉に耳を傾けながら、湧はどこか上の空で目の前の美女を見つめていた。

 犬神の言葉が頭に引っかかっていたのもある。だが、それ以上に……。

(――何でだろう、このひと…何か、誰かに似てるみたいな……?)

 外見ではなく、醸し出す雰囲気とでも言うのか…優しげでいて何処か謎めいたような深く澄んだ蒼眸に、いつしか惹き込まれていた。

「――美里サンだけど…彼女のコト、どう思う?」

 …なので、不意にそう訊かれた時、反応が遅れた。

「…え?あ、えーと…親切で善い人ですね。可愛いし」

 まさか恋愛云々を言っている訳ではないだろう…と思い、当り障りの無い答えを返す。

 そう……、と彼女が呟いた後、奇妙な間があった。

 態度が気に障っただろうか、と心配になる湧を安心させるようにマリアは微笑む。

「ゴメンなさい、変なコトを聞いて。別に深い意味は無いの…ただ、美里サンも生徒会とかで悩みも多いだろうから、石動クンが力になってあげて欲しいって思っただけなの」

 ――――転校生のアナタにこんなコト頼むなんて、おかしいわね。

 そう言って笑うと、彼女は話を切り上げた。

 結局、用というほどの事ではなかった気もしたが、親身になってくれる人がいるのは悪い気分ではなかった。

「――気をつけてお帰りなさい」

「はい、ありがとうございます、マリア先生」

 一礼すると、湧は職員室を出て行った。

 彼女の視線に含まれた微妙な色彩いろには気付かぬまま――――。





 ――同じ頃、3−C教室ではサボりから戻ってきた京一が湧の姿を捜していた。

「なァ、美里。石動の奴、ドコ行ったか知らねェか?」

「石動くんだったら、マリア先生に呼ばれて職員室へ行ったみたいだけど…どうかしたの?」

 首を傾げる美里に、京一は頭をかきかき答えた。

「いやナニ、ちょいと行きつけのラーメン屋にでも――」

「寄り道はダメよ…」

 つい正直に答えた京一を美里が窘める。

 もっとも…本気で咎める気はないのか、クスクス笑いながらではあるが。

「ははッ、判ってますって生徒会長どの。下校途中の寄り道・買い食いはすんな、だろ?」

「え?……えェ」

 いつになく素直な京一に驚きつつも頷く美里。だが、次の台詞を聞いて深い溜息をついた。

「安心しろって。――――バレねェようにすっからさ」

「…京一くん、そういう事じゃなくて……」

 軽くこめかみを押さえる彼女に、「イイじゃねェか」と京一は笑う。

「なんなら、お前も一緒に行くか?たまには息抜きしろよ」

「…もう、京一くんったら。――そうね、本当は一緒に行きたいけど…ごめんなさい、今日はアン子ちゃんと約束が――」

 美里も転校生には興味があったのか、京一の誘いに残念そうに首を振った。

「――呆れたヤツだなァ、葵まで誘うなんて」

 心底呆れ果てた、といった表情で後ろから小蒔が口をはさんだ。

「ホント、葵は人がいいんだから。このアホの話につきあう事ないよ。…だいたい、ドコの世界に生徒会長を校則違反に誘うヤツがいるのさッ」

「ココにいる」

 ふんぞり返って断言した京一に絶句する小蒔。呆れて声も出ない彼女に、京一は重々しい口調で告げる。

「小蒔…俺の行動を理解しろとはいわねェ。所詮、凡人のお前には永久に理解する事はできねェしな…だが、俺のやる事には全て意味があるというコトを忘れるな」

「…寄り道するコトに何の意味があるんだよ」

 もっともな事を訊き返す小蒔。しかし、京一の返事を聞いて目が点になった。

「――腹が減った」

「……はァ?」

 ぽかん、と口を開ける小蒔に構わず、京一は拳を握って力説した。

「だ・か・ら、腹が減ったって言ったんだよ!したがって、俺は石動とラーメンでも食って帰ろうってワケさ」

 何がどう『したがって』なのさ、そもそも石動クンの意思はどうなのさ、と色々な言葉が小蒔の頭の中を廻り…思いつく行動は、一つだった。

「……京一。チョット、こっち来なよ」

「?なんだよ、いった――――ぐはッ!!」

 …鉄拳炸裂。

「ふーッ。さッ、葵、行こうか」

「え?えェ…」

「――チョット待ていッ!!」

 素早く復活した京一が、小蒔に木刀を突きつけて睨んだ。

 …もっとも、頬にくっきりついたパンチ痕のせいで迫力は無い。

「お前なァッ!!何でいきなり殴んだよッ!」

「ふんッ、あんましアホな事ばっか言ってるからだよ。どお?少しは目が覚めた?」

 そのまま永眠したらどーすんだッ!と言う京一を小蒔はそれもイイかもね、と笑い飛ばす。

「…くっそーッ、いつか復習してやる…」

「京一ィ、字が間違ってない?勉強の『復習』と仕返しの『復讐』は違うんだからねッ」

 さり気に国語の成績の悪さまで指摘され、京一はぐうの音も出なかった。

 ちゃんとまっすぐ帰るんだぞッ、と言って教室を出る小蒔(と美里)の後姿に向かって、京一は一人呟いた。

「……くそッ、こうなりゃ意地でもラーメン食ってってやるッ」

 まずは醍醐のヤツも誘って…、と計画を立てる京一。湧に断られるかも、とは欠片も考えていないのが彼らしい。

 限りなく平和な一日であった――――少なくとも、この時点では。





「――おッ…よォ、石動。一緒に帰らねェか?」

 学園正門で待っていた京一は、歩いてきた湧を見つけて声をかけた。

「蓬莱寺…どうした、そのカオ?」

 赤く腫れ上がった頬を見て、湧がプッと吹き出す。

「うるせェ。行くのか行かねェのか、どっちなんだ」

「いいけど…ラーメン屋か?」

 くっくっ、と笑いを堪える湧を見て京一はおや、と思う。

 …何か、昨日まで彼に感じていた壁のようなものが薄れた気がする。

 湧が張り巡らせていた『警戒心』という心の壁…たった二日ほどの付き合いで、それは急速に崩れつつあった――本人は気付いていなかったが。

「…へへッ。行きつけのイイ店があんだ、チョット寄ってこうぜ」

 何となくいい気分になって京一は相好を崩した。

 醍醐との一戦以来、この転校生への興味がますます膨れ上がっているのを感じていた。

 飄々としているかと思えば変に子供っぽくもあり、それでいて自分や醍醐を凌ぐほどの技を見せた少年…。

(――この俺がヤローにここまで執着するなんざ、らしくもねェ…)

 そう思いつつも、何故だか好奇心を押さえられない――杏子の気持ちが少しだけ解る気がした。

「――実はな、もう一人誘ってあんだ。ここで待ち合わせしてんだが……おッ、来た来た」

 部室の掃除を終えた親友――休部中だというのにご苦労な事だ――が来るのを見て、京一は軽く手を挙げた。



「――待たせたな、京一。…よう、石動」

 やって来た醍醐を湧はしげしげと眺めた。

 実は今日彼が登校してきたのを見て、ずっと思っていたのだが…。

 …制服が所々綻びているのは昨日の闘いのせいだろうが、当人にはダメージが残っている様子がまるで無い。

(……全力の《発剄》喰らって何でピンシャンしてる訳…?)

 そもそもの身体の頑丈さが違うという事なのか、勝った自分の方は未だに胸と肩が痛かったりする。

 …大体、鳴瀧の下にいた門下生などはあれを喰らった後、軽く三日は寝込んでいた筈だったが。

 ――――勝者のプライドに賭けて、自分の方がダメージが大きかったなどと思われてなるものか。

 そう決めると、湧はニッコリ笑って顔をあげた…ガキっぽい、と言うなかれ。

「よお。身体は大丈夫か、醍醐」

 …言っている自分が痛みに顔を引き攣らせていては世話は無い。

 伸ばした前髪で表情を見られなくてすむ事に、ちょっとだけ感謝する湧だった。



「石動…。お前は、その……」

 醍醐は思わず口ごもった。

 その技は一体何処で覚えたんだ?とか、昨日は付き合せてすまなかった…とか、お前こそ怪我は大丈夫なのか?とか色々言いたい事はあったのだが…。

 いざ実際に会ってみると、もどかしいほど言葉が出てこない。

 結果、顔を見合わせたまま気まずい沈黙が続いた……こんな時は、自分の口下手ぶりが恨めしくなる。

「――ナンだ、男同士で。気持ち悪いヤツらだな」

「ふむ…京一、男の嫉妬はみっともないぞ」

 ――――今回ばかりは京一の悪態もありがたい。

 何で俺が野郎相手に嫉妬すんだよッ!と妙にむきになる京一をからかう事で、醍醐はようやく落ち着きを取り戻した。



「――なァ…俺、腹減ったんだけど」

 二人の言い合いに付き合いきれなくなったのか、湧が声をかけた。

 当初の目的を思い出し、二人は口をつぐむ。…もともと彼らの喧嘩はレクリエーションのようなものだ。

「…そうだな。じゃあ、いつもの所にでも行くか」

「へへッ、よっしゃあ。それじゃ、ラーメン屋に…レェーッツ――」

「「ゴォォーッ!!」」

 京一の声に後ろから現れた少女の声が被る。

 振り返ると、部活の帰りなのか弓道の道具一式を持った小蒔がそこにいた。

「…って、こッ、小蒔ッ!?」「さッ、桜井…!」

 狼狽する男たちを見据え、小蒔が呆れたような声をだす。

「まったく、もォ。葵にあれだけ釘刺されときながら…まだラーメンラーメンって。ホント、いい根性してるよ」

「あんだとォ。お前だって、今『ゴーッ!』とか言っただろッ!!」

 もっともな京一の反論に、しかし小蒔はベーッと舌を出し言い返した。

「ふんッ。だからって、転校生に悪いコト教えるのとはワケが違うよ」

「…いやだねェ、物事悪い方悪い方に考える人間は。俺は、転校したてで、一人で!孤独でッ!寂しい石動を励まそうとだな…」

 誰がじゃ、と湧は心の中で突っ込んだ――それではまるで孤独死寸前の老人ではないか。

「京一ィ、そんな言い訳通用すると思ってんの?そんな見え透いた手、今どき小学生でも使わないよ」

「まったくだ。京一、ウソはいかんぞ、ウソは」

 小蒔ばかりか醍醐にまで突っ込まれ、京一は言葉を失った。

「まッ、そんなコトはどーでもイイや。早くラーメン食べに行こうよ」

「…へ?」

 前言をあっさり翻した小蒔に目を丸くする男三人。

「だ・か・ら、ラーメン食べに行こ。奢ってくれんでしょ?」

「――ナンでお前みたいな男女にラーメンおごらにゃならねェんだよッ!!」

 あっけらかん、と図々しい事を口にした小蒔を京一が怒鳴りつける――――が。

「ふーん、そういうコト言うんだ…。――いぬがみセンセーッ!ほーらいじがですねーッ!!」

 くるり、と校舎の方を向いた小蒔が不意に大声を出した。大慌てで彼女の口を塞ぐ京一。

「ばッ、ばか野郎ッ!!何てコト口走りやがんだ、お前はッ!」

「…どーしたんだ、コイツ?」

「卒業式の一件でな、犬神先生に睨まれてるのさ。…自業自得って奴だ」

 傍観者と化した湧の疑問に醍醐が答える…真神新聞に載っていたあの件らしい。

 …その後、醍醐が二人を(と言うか小蒔から京一を)引き剥がしたり、結局京一が小蒔にラーメンを奢ることを約束させられたりしたが、四人は概ね平和にラーメン屋へと向かうのだった。

「――えへへッ、じゃあ早く行こ、行こーッ!」

「…ったく、タチの悪い女だぜ。――醍醐、お前も半分出せよ」「はははッ、判ってるって」

 明日香にいた頃の比嘉とさとみを思い出す。――――とかく、男は女に敵わないという事か。





 ラーメン屋に向かう道すがら、小蒔がふと思い出したように口を開いた。

「…そういえばさ、帰りがけにアン子から聞いたんだけど…知ってる?旧校舎の噂――」

「行方不明のことだろ?」

 何を今更、と京一が小蒔を見る。

 ――旧校舎に向かった生徒二人が消えた。今朝、ホームルームでマリアも話していた事である。

 正確には、始業式の日以来行方不明になっている二人の生徒が最後に目撃されたのが、現在封鎖中の旧校舎の近くだという話だったが…。

「ブー、はずれ。――旧校舎にでる幽霊の話だよ」

「ゆッ、幽霊ッ!?」

 いきなり上擦った声をあげる醍醐に驚き、湧は彼を見た…何やら肩に不自然に力が入っているように見えるのは気のせいだろうか?

「そォ。何でも夜になると赤い光が見えるとか、人影が窓越しに見えたとか…目撃した人の話を集めればキリがないよ」

 小蒔が具体例を挙げていくごとに醍醐の顔色が悪くなっていく気がする。

 と、その時目的のラーメン屋『王華』の前に着いた。

「今どき幽霊ねェ……」

 京一が気のない返事をしながら引き戸を開ける――中から美味そうな匂いが流れ出した。



「――へい、らっしゃい!」

 威勢のいい店主の声に出迎えられ、四人は席に着いた。

「大体、幽霊ってなァ夏にでるモンだろ?あッ、俺、味噌ラーメンね。――なァ、石動?」

「……その根拠は?」

 これが怪談話なら確かに夏が相場だけど…と言って湧は京一に半眼を向けた。

「なッ、なんだよ。昔から、蚊と幽霊は夏に出るって言うだろーが」

 …初耳である。

「誰がそんな事言ってんだよッ」

 と噛み付く小蒔に京一が答えるが、その内容に彼以外の三人は絶句した――なんとなれば。

「――徳川家康。いやッ、聖徳太子だったかなァ?うーん、宮本武蔵ってテも……」

「おじさーん、ボクは塩バターお願い」

「俺は、カルビラーメン大盛を」

「俺、とんこつをチャーシュー入りで」

 京一の戯言を完璧に無視した三人は、さっさと自分たちのメニューを注文するのだった。



「――ところで桜井さん、さっきの続きだけど…」

 スープを啜りながら、湧は話の先を促した。少しだけ引っかかる事があったからだ。

 ――――『赤い光』と『人影』、まさかとは思うが……。

「え?うん、その噂を聞きつけて、面白半分で旧校舎に入る生徒もいるって」

 肉を頬張っていた醍醐が思わずむせる。

「ごほッ…。なッ、中にか!?あそこは確か、柵があって立入禁止になってる筈だろ?そんなに簡単に進入できるとは思えんが…」

 慌てて飲み下し早口で否定するその額には、何故かじっとり脂汗が滲んでいた。

「――ひゃっぐぁ、にゅげびじがんぁぶって、ひっでたぜたしか、ぬけみちがあるって、いってたぜ

「きったないなァ、食べながらしゃべんなッ!!」

 ラーメンを頬張りながら何事か話す京一に、小蒔が顔を顰める。

 と、京一も負けずに怒鳴り返した――――口の中を麺で一杯にしたまま。

「う゛ろじゃひばぁ!!」

「うわァッ!?バカ、汁が飛んだだろ!!」

「あーあ、顔にナルトくっ付けて…醍醐、大丈夫?」

「…俺を盾にしておいてよく言うな、石動」

 ――――食事中の皆さんゴメンナサイ、な一幕があった事はさておき。



「(モグモグ、ゴックン)…抜け道があるんだってよ」

 京一はそう言った。何でも、剣道部の部員から聞いたらしい。

 アン子も同じ事言ってたッ、と小蒔も続ける――もっとも、二人とも正確な場所までは知らないらしいが。

「――アン子ったら幽霊をスクープすんだって。ナンか、すんごい張り切ってたけど大丈夫かなァ…」

「大丈夫、大丈夫。アレは、殺しても死なねーよ。第一、幽霊って話自体眉唾モンだぜ」

 少し心配げにする小蒔に、京一は何気に失礼な事を請合う。

「うッ、うむ。京一の言うとおりだ」

「……?醍醐クン、顔色悪いよ?」

 心なし青ざめた顔で頷く醍醐に小蒔が無情な突っ込みを入れた。

「そッ、そうか?それに、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って言うだろ?」

(…のわりには声が裏返ってるんですけど。ってーか、意外な弱点……)

 引き攣った笑顔を浮かべ答える醍醐を横目で見つつ、湧はラーメンを啜った。

 少しからかってみたい誘惑に駆られるが、『漢の面子』だの『武士の情け』だのといった単語が脳裏を過ぎるので止めておく事にする。



 湧がラーメンを食べ終えた頃、ガララッと戸を開けて白いセーラーの少女が飛び込んできた。

「――遠野さん?」

 息も絶え絶え、といった風情でよろけながら近づいてくるのは、取材中の筈の杏子だった。

「アン子!?」「ほら、なッ。噂をすれば…だ」

 驚く小蒔に向かって京一はそらみた事か、と肩を竦めた。

 この後、杏子に自分の水を取られた事で京一が大騒ぎするのだが、杏子が言った次の台詞に気楽なムードは一瞬で吹き飛んだ。

「ハァ、ハァ…。み…美里ちゃんを捜してッ!!」



「――そういや美里の奴、お前と約束があるとか何とか言ってたっけな」

 事情を聞き終え、京一が納得したように呟く。

 大体の話はこうだった。

 かねてから旧校舎の取材を計画していた杏子は美里に頼み込んで旧校舎の鍵を借り出してもらい、彼女一人で行かせる事を心配した美里と共に旧校舎へ潜入した。

 そこまでは良かったのだが、中で怪しげな『赤い光』に追いかけられ、美里とはぐれてしまったのだという。

「お願い、美里ちゃん捜してッ!!あなたたちしかいないのよ、頼りになるの…」

 だが、必死の表情で懇願する杏子に対し、京一の反応は今ひとつ鈍かった。

「あのなァ、俺たちゃ普通の高校生なんだから。そんな事言われてもなァ…」

 んなわざわざ面倒臭ェ、という本音がありありと見て取れる…とは言っても、別に彼が薄情な訳ではない。

 京一にしてみれば、はぐれたとはいえ所詮学校の敷地内の事、『赤い光』についても見間違いか何かだろうと思っているため、杏子の心配ぶりの方が大袈裟過ぎるように思えたのだ。

「――だが、このまま見過ごす訳にもいかんだろう。京一、一緒に学校に戻るぞッ!石動、お前も来るよな?」

 そう言った醍醐に、湧はひとつ頷くと立ち上がった。

 京一の気持ちは解らないでもないが、何しろ自分は本物の怪異を体験しているのだ――――たとえ些細であれ、事件に関わる事なら見逃す訳にはいかない。

 頼りにしてるぞッ、と言う醍醐に笑顔で応え湧は出口に向かった。

 …未だ渋る京一に振り返ると、満面の笑みと酷い一言を残す。

「蓬莱寺クン……そんな訳だから、ここの払いはヨロシクな」

 ちょっと待てェッ!!と京一の罵声を背中に聞きつつ、湧はラーメン屋を飛び出した――――。







【四、覚醒再び】



 人気の無くなった学園前で、湧は最初に追いついて来た人物に手を挙げた。

「――よッ、早かったな蓬莱寺」「石動ィ…てめェ…」

 肩を怒らせ近づいてくる京一に笑いかけると、湧は彼に向かってピンと硬貨を一枚弾いた。

 受け止めた京一が手の中身を見て怪訝な顔をする。

「…五百円玉?」

「ラーメン代。釣りはいらないぞ」

 持ってんなら最初ッから出せよな、とぼやく京一に片目を瞑って見せると、

「――おかげで来る口実が出来たろ?」

 しゃらっ、と言ってのけた。

「…そのためにやったってのか!?」

「ここまで来たんだ。今更帰るなんて言わないよなァ、蓬莱寺クン?」

 邪気の無い笑顔でぬけぬけと言い放つ湧に、京一は空いた口が塞がらなかった。

 その時ようやく追いついた他の三人と合流し、彼らは揃って旧校舎へと向かった。

 心なし疲れた様子の京一も後ろからついていく。

(――――アイツ…もしかしてアン子よりイイ性格してるんじゃ…?)

 今ごろ気付いても、後の祭りであった。



「――うわァー…、なんかスゴイなァ…」

「うむ…。辛うじて建ってるって感じだな」

 改めて間近で見るのは初めてなのか、小蒔と醍醐が何とも言えない声をあげた。

 高い塀越しに見える古びた建物――――真神学園旧校舎。

 半木造三階建てのそれは、所々朽ちたり崩れたりして化け物屋敷さながらの様相を呈している。

 湧たちが着いた時には既に陽が傾いていた事もあって、夕映えの中不気味なシルエットを浮かび上がらせていた。

「なんてったって、戦火をくぐり抜けてきた建物だからね。建てられたのが第二次世界大戦の頃だから…ざっと、六十年近く経つわ」

 事前に仕入れたらしい知識を披露すると、杏子は一同を柵のとある場所へと導く。

「この板を外して…よいしょっと。――ここから、中に入れるわ」

 しっかり打ち付けてあるように見える板の一つを引っ張ってずらすと、かなり大きな亀裂が現れた…どうやら、以前の補修の時に手を抜いたらしい。

「こんなトコロに穴が…」「こりゃあ、センセーも判んねェハズだぜ」

 杏子は驚く皆に真剣な表情を向けると、ポケットから懐中電灯を取り出して言った。

「…行きましょ」



「――まったく…こんな所に抜け穴こんなものがあったとはな…」

 五人の生徒が旧校舎内に消えたのを見届けると、その人物は苦々しく呟いた。

 物陰から姿を現すと、しんせいの煙を深く吸い込む――――生物教師、犬神杜人。

 手練れの少年たち数名にさえ、全く気配を感じさせずに彼はそこにいた…まるで、闇そのもののように。

「生きて戻れる保証も無いのに…酔狂な事だ」

 言って皮肉げに口元を歪める。だが、ふと何かを思い出したかのように目を細めた。

「…石動、湧…か。もし奴が“そう”なら――」

 吹き抜ける風が続く言葉を攫い、くたびれた白衣を弄った――――。



 踏み出す度に埃の舞い上がる廊下を、一行は進む。

 使われなくなって久しい校舎に電気など通っている筈もなく、打ち付けられた窓の隙間から僅かに洩れる明かりと、杏子の持つ懐中電灯の光だけが頼りだった。

「――気をつけて。何が出てくるか判らないからね」

 追いかけられた時の恐怖が甦るのか、緊張した面持ちで警告する杏子だったが…。

「男が四人もいるんだ、別に怖いこたァねーさッ。――なァ、小蒔?」

「京一ッ!男は全部で三人だろッ!!」

「だってお前、付いてるじゃねェか……ナニが」

「なんだとーッ!!」

 …緊張感のない事おびただしい。「あんたたちねェ…」と杏子が眉間を押さえる。

「お前ら、少し静かにしろッ!」

 醍醐に一喝され、京一と小蒔は首を竦めて互いをつつき会う。

 まるで、小学生を引率する教師のような風情であった。

(…お前ら本当に同い年か…?)

 そう思った湧を咎めるのは酷というものだろう。

「まったく…。――そうだ、醍醐君。ミサちゃんから聞いた話なんだけど…」

 この中で一番頼りになりそうだと判断したのか、杏子は醍醐に話を振った。

 杏子と醍醐(彼は祖父が軍人だった関係で色々と聞いていたらしい)の話から、旧校舎は元々陸軍の訓練学校である事や、地下に軍の実験用の施設があったらしい事などが判った。

 一階の奥に地下へ降りられる梯子があると聞いて、京一が目を輝かせる。

「面白そうだな…おい、石動ッ。今度入ってみようぜッ」

「京一ッ、葵はどーすんだよッ!」

 お遊び気分の京一を小蒔が叱る。…だが、湧はそんな会話を上の空で聞き流していた。

(――何だろう…?胸がざわつく……)

 名状し難い感覚に、湧は顔を顰めた。

 旧校舎に入って暫くは気づかなかったのだが、奥へ行くにつれて段々と強まってくる…違和感。

 他の四人は何ともないようだが――――。



「――あッ、ちょっと待って。…これ、逃げる時にあたしが落とした御札だわ」

 そう言って、杏子は床に落ちていた御札を拾い上げた。

 …もう校舎のかなり奥まで入り込んでいるが、まだ美里の姿は見つかっていない。

「なんで御札なんか持ってくんだよッ」

「だって、地縛霊とかいたら危ないじゃない」

 当然でしょ、と京一の問いに答える杏子。

 地縛霊、という単語に一瞬醍醐の身体が震えたのには気づかなかったようだ。

「…?石動クン、どこ行くの?」

「――え…?」

 小蒔に呼ばれ、湧は自分がフラフラと歩き出していた事に気づいた。

「何でだろう…急にこっちへ行きたくなったんだ」

「…確かその奥よ、赤い光に襲われたの……」

 思わず顔を見合わせる…偶然だろうか?

「行ってみよう――」

 湧は無意識に右目を押さえた…。



 ――最初に見つけたのは、誰だっただろう…。

「あれ…?ねェ、何か…光が。――ほら」

「遠野…お前が見たって光はあれか?」

 奥まった教室の一角…乱雑に積み上げられた机の向こうから立ち上る蒼い燐光を見て、杏子は首を横に振った。

「違うわ、赤くて小さい光だった。それが、すっごくたくさん…」

「…おいッ、石動どうしたッ!?」

 一人教室に踏み込んだ湧に京一が声をあげた。

 だが、湧はまったく聴こえていないかのように光の傍へと近づいていく。

(――――右目が…熱い…)

 熱に浮かされるように、吸い寄せられるように…ただ衝動のままに歩を進める。

 近づくにつれて光の源が見えてきた――机の陰から徐々に覗く、すらりとした脚、白いセーラー…長い黒髪。

「――美里、さん……?」

 意識を喪い倒れている少女の身体を、三ヶ月前の…“あの時”の自分と同じ、蒼い光が包んでいた――――。



「…葵、しっかりしてッ、葵ッ!?」「これは…美里が光ってるのか?」

 小蒔たちの声を遠くのもののように聞きながら、湧は美里を抱き起こした。

 腕に伝わる重みと温かな体温に、ほっと息を吐く。

「――ん…」

 身じろぎした美里に起きる気配を感じ、湧はじっとその顔を覗き込んだ。

「…う…ん…。――いするぎ…くん…?」

 ゆっくりと見開かれた瞳は……変わること無き、黒曜の色を映している。

「わたし…、一体……?」「大丈夫?立てるかい?」

 ――美里が意識を取り戻すと同時に光は消え、湧の右目の熱もひいていた。

 訳が判らない、といった様子の彼女を安心させるように微笑むと、身体に負担をかけないよう手を添えながら立ち上がらせた。

「葵ッ、大丈夫!?どっか痛いトコない?」「小蒔……」

 一気に緊張が解けたのか、涙ぐんで問い掛ける親友を美里は優しく見つめる。

 暫し、穏やかな空気が流れた。

「――何にせよ、美里が見つかって良かった」

「そうだな…後は早いトコ、この薄気味悪い場所とおさらばするだけだ」

「…みんな、ありがと。美里ちゃん、ごめんね」

「うふふ、そんな…謝らないで。ありがとう、捜しに来てくれて」

 本当にすまなそうに謝る杏子に気にしないで、と美里は微笑んだ。他の三人も美里の無事を喜びこそすれ、誰も杏子を責めはしない…そんな彼らに好感を覚えながらも、湧は美里に気になっている事を尋ねた。

「美里さん、気を失う前に何があったのか……憶えてる?」

「…ええ。あの時、赤い光が追ってきて『逃げられない』って思ったとき、突然目の前が真っ白になって意識が遠く…」

「それなんだけど、美里ちゃんが気を失っている時――」

「お前らッ、その話はまた後だ」

 蒼い光が…と言いかけた杏子を、京一が鋭い口調で遮った。

 見ると、醍醐共々周りを警戒するように見回している。

(――しまった…油断してた……)

 遅れ馳せながら周囲の気配を探り、湧は舌打ちした。――――囲まれている…“何か”に。

「――どうやら、『赤い光』の正体が確かめられそうだな…」

 油断なく暗がりに目をやりながら、醍醐は不敵に呟いた――――。



「な、何よこれ…ッ!?」

 じりじりと後退りながら廊下に出た杏子が掠れた声をあげた。

 天井に、隅の暗がりに……幾つもの赤い光が現れていた。

 『罠にかかった獲物』――自分たちの状況はまさにそれだった。

 恐怖に足を竦ませた彼女を、羽音も高く“何か”が襲う。

「キャアァッ!!」「――遠野さんッ!?」

 湧が気づいたときには遅かった…迫り来る『赤い光』に向かって、杏子は無我夢中でポケットから出した物を振り回した――――その瞬間。

 パシィッ、と小さく爆ぜるような音がして襲ってきた何かは弾き飛ばされた。

「え…?」「遠野さん、それ…」

 呆然とする杏子の手の中で淡く白い光を放っているのは、彼女がお守りに持ってきたという“御札”だった。

 清浄な《氣》が御札を中心に彼女の身体を包んでいるのが視える。

(――――《北斗符》か…珍しいな…)

「すご…ホントにご利益のある御札なんて、初めて見た…」

「…へ、へへッ、どんなモンよ。どっからでもかかって来なさいってね!」

「馬鹿言ってねェでさっさと逃げろッ!おフダの効き目が切れたらどーするッ!!」

 小蒔の呟きに調子に乗った杏子を、京一が怒鳴りつけた。湧も続ける。

「遠野さん、君一人ならそれ持ってれば大丈夫だから逃げてッ!ここは俺たちが食い止める!」

 でも、と躊躇う様子を見せる彼女を醍醐が厳しい口調で促す。

「遠野ッ、美里と桜井を連れて早く行けッ!後は俺たちに任せろッ!!」

 ――――ふと、湧は自分の言葉に違和感を覚えた。

(――俺…今、彼女たちを逃がそうとは思わなかった……?)

 それどころか、無意識のうちに“俺たち”の中に美里と小蒔を含めていた気がする…自分と同等の腕を持つ醍醐や京一はともかくとして、美里も弓を扱う小蒔にしても暗がりの中襲われれば危険なのは杏子と同じ筈なのに。

「…ボクも残るッ!」

 小蒔の言い放った言葉に、湧の思考は断ち切られた。

「なッ…ふざけるなッ!!俺たちに任せて、お前も行けッ!」

「イ・ヤ・だ。ボクも一緒にいるよ、だって…」

 怒気も露わに怒鳴りつけた醍醐を小蒔は気丈に睨み返す。弓を握り締める拳が微かに震えていた。

「――醍醐ッ、来るぜッ!!」

 緊迫した京一の言葉と、何より小蒔の真っ直ぐな瞳に込められた強い意志に醍醐は根負けした。

「…ッ。遠野ッ、早く行けッ!」

「わかったわ。後で話を聞かせてもらうんだから、無理しないでよねッ!」

「あ、アン子ちゃん…」

 言って杏子は美里の腕を掴むと駆け出した。振りかざした御札の放つ《氣》に赤い光が退いていく。

「醍醐クン…ッ」

「――仕方ない……行くぞッ!!」

 襲い来る無数の羽ばたきに、四人は身構えた――――。



 ――懐中電灯を持っていた杏子が行ってしまった事で、視界が殆ど利かなくなった。

 赤い光と羽ばたきの音、そして窓から漏れる微かな明かりだけを頼りに、湧たちは敵を迎え撃つ。

「――やッ!」

 一番手は、小蒔――暗闇の中、矢をつがえた彼女は飛び回る赤い光に驚くべき集中力で狙いを定め、射抜いた。

「はッ!」「てやあッ!」

 湧と京一が同時に動く――近くで聴こえた羽ばたきに向かって一気に間合いを詰め、ほぼ勘のみで振るった拳と木刀が音の源を叩き落す。

「――うるああッ!」

 醍醐は小蒔を庇うように一歩踏み出して待った――周囲を素早く飛び回る気配がギリギリまで近づいたその一瞬、繰り出した回し蹴りがそれらをまとめて薙ぎ払う。

(――今のは…蝙蝠?)

 暗くてはっきりとは見えなかったが、僅かな明かりに照らされたその姿は確かに蝙蝠のようだった。しかし……。

「…石動ッ!ボサっとしてんじゃねェッ!!」

 京一の声にはっと顔を上げると、別の蝙蝠が正面から二匹迫っていた。

 とっさに《発剄》を放って吹き飛ばす――――が。

「く…ッ!?」

 湧は痛みに顔を顰め、胸を押さえた。動きの止まった彼に新たな蝙蝠が襲いかかる。

「――剣掌ッ!!」

 駆け寄った京一が木刀を一閃、放たれた広範囲の《発剄》が蝙蝠たちを打ち落とした。

「どうした石動ッ!?昨日より動きが鈍いぞッ!」

 叫んだ醍醐に思わず湧も怒鳴り返す。

「…悪かったなッ!肋骨あばらにヒビ入ってんだよッ!!」

「――何ィッ!?」「マジかよッ?!」「ヒビ…って何でッ!?」

 三人――そのうち二人には心当たりもあった――が驚きの声をあげた。

 …湧自身すっかり忘れていたが、昨日の傷がまだ癒えていなかったのだ。

 うっかり《発剄》など撃ってしまったために肋骨と無理矢理嵌め直した肩までが痛み出した。

 《結跏趺坐》で痛覚を抑制しようにも、こう間断なく襲われたのでは《氣》を練る暇さえ無い……。

 どうしてくれよう、と考える湧の視界の端で何かが動いた。

「――蓬莱寺、後ろ…ッ!」

「なに…うォッ!?」

 机の陰から現れたひときわ巨大な蝙蝠が一声鳴くと、京一の身体を不可視の刃が切り刻んだ。

 闇の中、紅い飛沫が散る。

「うッ…くそォッ」「「京一ッ!?」」「蓬莱寺ッ!!」

 大蝙蝠の目が不気味に輝く。片膝をついた京一を見て醍醐と小蒔が慌てて駆け寄るが…。

(“音”の刃…間に合わないッ!)

 湧は次の攻撃の気配を感じ、京一を庇うように覆い被さった。

 再び大蝙蝠が鳴き声をあげた――――その時。



「――――石動くんッ!」

 少女の声と共に湧の身体を深緑の光が包んだ。音の刃が光の壁に散らされ、無効化される。

「…今のは…?」「――大丈夫、みんな…?」

 涼やかな声に顔を上げると、そこにいたのは――。

「――美里さん…?」「…葵ッ!?」

 杏子と一緒に外へ逃げたはずの美里が、息を切らせて立っていた。

 長い髪を所々ほつれさせてはいるが、一人で戻ったにしてはどういう訳か怪我一つ無い。

「何で…?いや、どうやってここまで――」「…二人ともッ、避けろォッ!!」

 走ってきた醍醐が叫ぶ――大蝙蝠と頭上から近づいてきた別の蝙蝠が、牙を剥いて湧と美里に襲いかかった。

「……ッ!?」

 避けられるタイミングではなかった…だが、美里がそちらに目を向けた瞬間、彼女の身体と重なるように天使の幻影が現れ、深緑の光となって彼女を包み込んだ。

「――このォッ!!」

 光の壁に弾き飛ばされた蝙蝠を湧が空中で蹴り上げ、《発剄》で壁に叩きつける。

 しかし、がら空きになった背中に大蝙蝠が飛びかかり――。

 ドシュッ、と鈍い音に振り向くと…京一が湧の背中を護るように立っていた。

「…へッ、手間ァ取らせやがって」

「――サンキュ、蓬莱寺」

 立ち上がりざま木刀で串刺しにした蝙蝠の身体を一振りで払い捨て、京一はニヤリと笑って見せた。



 ――――いつのまにか、無数にいた筈の蝙蝠たちの姿が消えていた。

 気配を探ってみても、先程の事が嘘のように静まり返っている。

「終わった、のか…?」「らしいな…ッテテ…」「クッ、まずったぜ…」

 緊張が解けたとたん痛みがぶり返し、湧と京一はその場にへたり込んだ。

「京一くん、ひどい怪我…」

「そうだよッ、早く病院行かないと!石動クンもッ」

 ほぼ無傷の三人が心配げに覗き込む。

 手当てしなくちゃ、とハンカチを取り出した美里が京一の身体に触れた時“それ”は起こった。

「これは…ッ?!」「傷が…塞がる…?」「美里、お前…」

 美里の手が触れた部分から温かな光が拡がり、裂傷がみるみる治っていく。

 …数秒もすると破れた服はそのままに、怪我だけがすっかり消えていた。

「美里さん、その《力》は…?」

「――石動くん……」

 恐る恐る湧にも触れる。美里の手から流れ込む《氣》が内から傷を癒していくのが判った。

 《結跏趺坐》の擬似的な治癒効果などとは違う、本物の『癒し』…。

(――“護り”と“癒し”…。これが、彼女の《力》……?)

 恐らく気を失った彼女が無事でいられたのも、護りの《力》が働いたおかげなのだろう。

 湧と京一の窮地を救ったのも…。



「――醍醐クン…。これ…コウモリなの?」「ん…?」

 大蝙蝠の死骸を指して、小蒔が言った。

 改めて見ると、それは通常の蝙蝠では考えられないほど鋭く発達した牙と爪を持っていた。

「…本来、蝙蝠というのは多少の差はあれ、昆虫や木の実を食べる生き物だと聞いた事がある。中には小動物の血を吸う種もいるそうだが…」

「それにしたって…こんな風に人を襲って食べようとするなんて…」

 難しい表情で答えた醍醐を、小蒔は不安そうな眼差しで見つめる。

 二人とも…いや、ここに居合わせた全員が判ってはいるのだ。

 ――――尋常ではない事態が起きつつある、と。

「醍醐ッ、ともかく表へ出ようぜ。ここは…チョット普通じゃねェッ」

「あァ……」

 真剣な面持ちで言う京一に醍醐が応じた、その時…。

 ――――ドクンッ――――

「!?――葵…?どうしたの、葵ッ!!」「美里さんッ!」

 湧の治療を終えた美里が突然その場に蹲った。震える身体から再び蒼い輝きが溢れ出す。

「熱い…身体が……」「――う…ッ!?」

 湧も右目を押さえ、膝をついた。灼熱の《氣》が右の瞳から全身に拡がる。

(――――“あの時”と同じ…?いや、これは…違う…ッ?!)



『――――目醒めよ――――』



 心の奥深くから響く“声”…魂の奥底に眠る“何か”を呼び覚ます声――三ヶ月前には微かな呼び声程度でしかなかったそれは、いまや圧倒的な“力”を伴って彼らの中に在るものを引きずり出そうとしていた。

(――――すまない……)

「く…ッ…!」

「醍醐…クン?」「醍醐ッ!?」

 苦悶の表情を浮かべる醍醐…その身体も美里や湧と同じように蒼い光を放っている。

(――――また…巻き込んでしまう……)

「――…ッ!!」

 小蒔の身体からも光が溢れる…《氣》の奔流に意識が耐え切れず、彼女はその場にくずおれた。

(――――繰り返す…何度でも……)

「こいつは…ッ!?」

 続いて京一からも…彼は木刀を杖代わりにどうにか持ち堪えようとしたが、及ばず倒れた。

(――――すまない、みんな……)

「…この《氣》は、一体……?」

 その呟きを最後に、醍醐も意識を失った。

(――――――――それでも…本当に……逢いたかったよ…………)

(――何なんだよ……それ…ッ?!)

 かつて経験した事も無いほどの強過ぎる『想い』が、湧の精神を激しく揺さぶる。

 …つう、と右目から涙がこぼれる……意識が、遠のいた――――。







【五、縁】



「――生きていた、か……」

 不機嫌な声でそう呟いた一人の男――――既に陽は落ち、全くの暗闇であるにも拘らず、彼は平然と歩を進め倒れている五人に近づいた。

「どうにか切り抜けた…。――いや、“見逃してもらった”というところか…?」

 皮肉げに嗤うと、取り出したライターで口元の煙草に火を付ける。

 紅い炎が一瞬闇を照らし、男の姿を浮かび上がらせた。

 紫煙を吐き出す白衣の男――――犬神。

「放って置くわけにも、いくまいな…」

 小さくひとりごちた彼は、手近にいた醍醐の身体に手をかけ…百キロはあるだろうその巨体を“片手で”軽々と持ち上げた。荷物のように無造作に担ぎ上げると、すぐ傍に倒れている小蒔にも手を伸ばす。

「――優しいことだな。…“もりひと”」

 不意に聴こえたその言葉に、犬神は忌々しげに顔を顰めると声の主を見やった。

「これだけの人数が一度に消えたら、何かと厄介なんでな。…眠ってるとばかり思っていたが?――“刹那”」

 意識を失い倒れていた筈の転校生――彼はいつの間にか目を開け、犬神に顔を向けていた。

 その右目に宿るのは……冷たい“銀”の光。

「…“目醒めて”いたなら、さっさと起きるがいい。動ける奴を運んでやるほど俺は“人が良くない”ぞ?」

 言葉に含まれる皮肉に気づいてか、刹那はクスリと笑った。

「生憎だが、“同調”が不完全でな…“まだ”、私の意思だけでは身体を使えそうにない」

 ――すまんが、外まで運んでくれるとありがたい…それだけ言って彼は目を閉じた。

「……勝手な奴だ」

 いったん醍醐を降ろすと、犬神は転校生に歩み寄って膝をつき…その細首に手を掛けた。

 じわり、と力を込める…彼ならば容易に頚骨を砕くことも出来るだろう――少年の命もろとも。

「それも、一興か……」

 呟いて…だが犬神は手を離すと少年の身体を背負った。

 そのまま立ち上がると、外に向かって歩き出す。

「――――いつまで“こんな事”を続けるつもりだ、お前は……?」

 答えの返らぬ事など百も承知で、それでも犬神は問い掛ける。

(――――いつまで“此処”に居なければならない、俺は……?)

 それは同じく“想い”に縛られた存在ものへの哀れみか、或いは自身への嘆きなのか。

 溜息と共に深く吐き出した煙が、夜の闇に紛れて消えた――――。





「――う…む、ここは…?」「いててて…」「…うーん…」

 醍醐、京一、小蒔の三人が漸く目を覚ます。少し前に起きていた湧と美里がそれぞれ声を掛けた。

「よォ、やっと起きたか」「小蒔、大丈夫?」

 ――気がついた時、五人は旧校舎の前に倒れていた。

 どれだけの時間が経ったのか、中天にかかった円い月の輝きが彼らを照らしている。

 気を失った後、何が起こったのか…どうやってこの場所に運ばれたのか、憶えている者は“一人も”いなかった。

「なんだろう…。急に目眩がして、気が遠くなって…」

「ちッ、一体全体、どーなってやがんだッ」

 小蒔と京一がそれぞれ困惑した表情で呟き、醍醐は美里に話を振った。

「…美里、身体は何ともないか?」

「ええ…大丈夫。ありがとう、みんな」

 変わらない笑みを浮かべる美里に、暫しその場の雰囲気が和んだ。

 醍醐はふと、旧校舎に目をやる。

「だが…あの蝙蝠といい、俺たちを包んだ青い光といい…ここには何があるというんだ……?」

「――まァ、イイじゃねェか。美里も無事だったんだしよ」

「何かボク、安心したらお腹減っちゃったよッ」

 再び深刻になりかかった空気を京一と小蒔が明るく茶化す。

 その言葉に醍醐と美里も表情を緩めた。

「……そうだな。じゃあ、何か食ってくとするか」

「やったーッ!行こう行こうッ!」

「ふふふッ…小蒔ったら」

「よっしゃッ、そうと決まりゃ早く行こうぜ、石動ッ!」

 へいへい、と湧は立ち上がり…鼻を掠めた“匂い”に動きを止めた。

(――何だこれ…煙草…?)

 自分の制服から、何故か微かに煙草の匂いがした。

 湧自身は煙草を吸わない、思い当たる事と言ったら……。

(――――まさか…ね…)

「…待てよッ、みんなーッ!!」

 ありえない想像を打ち消し、湧は先を行く四人を追って走り出す。

 闇の中、踵を返す人影があった事など知る由もない。



 あらかじめ出逢うべく定められた五つの星…運命の輪が回り始めた事を知る者は、まだほんの僅かだった――――。







久遠刹那 第弐話 了

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