久遠刹那 第参話





【序、宵闇】



 ――遠野杏子は、走っていた。

(急がなきゃ…急がなきゃ、みんなが…ッ!)

 旧校舎に再び現れた『赤い光』…自分や美里を逃がすために、四人の友達が囮役を買って出たのだ。

『――アン子ちゃんは先生を呼んできて!私は…』

 そう言って杏子の手を振り切ると、美里は旧校舎の中――みんなの所へ戻ってしまった。

(どうしよう…どうしよう…)

 下校時間などとっくに過ぎている…第一、先生が居たとしても何と説明すればいい?

『旧校舎に化け物が出たんです!助けて下さいッ!!』――そんな馬鹿げた話を誰が信じるだろうか。

 半ば無駄だと判っていても、杏子は走った…それしか、彼女に出来る事は無かったから。

 祈るような気持ちで、彼女は職員室の戸を開けた――そこには。

「アラ、どうしたの?遠野サン…」「――マリア先生…」

 良かった…彼女ならちゃんと話を聞いてくれる――安堵のあまり瞳を潤ませる杏子に、マリアは優しく笑いかけた。



「――判ったわ。知らせてくれて、ありがとう…遠野サンは、もうお帰りなさい」

 話を聞き終えたマリアは、落ち着いた様子でそう言った。

「そんな事できません、あたしも…」「――遠野サン」

 一緒に行きます、と言いかけた杏子を遮り、マリアは彼女を見つめた。

「後の事は私がやるわ…大丈夫だから。アナタは…“安心して、お帰りなさい”…いいわね?」

 勿論そんな事を素直に聞く杏子ではない――普段ならば。だが…、

「……はい…」

 彼女は何故だか頷いていた――マリアに任せれば本当に大丈夫だ…そう思えたのだ。

 …自分の瞳がいつの間にか焦点を失っている事に、杏子だけが気付いていない。

「――良いコね。もう時間も遅いわ…気をつけてお帰りなさい」

「はい…さようなら、マリア先生…」



「――困ったコたちね……」

 旧校舎の方を眺め、マリアは紅色の唇に笑みを浮かべた…生徒たちの前では決して見せる事の無い、妖艶な微笑み。

 血のように紅い夕映えが、職員室を鮮やかに染めていた――。





 帰り際、杏子はいつもどおりに新宿中央公園を通りぬけた。何故か頭に霞みがかかったように思考が纏まらない。

 見事な夜桜にも…そして辺りに漂う微かな異臭にも気付く事無く、彼女はただそこを通り過ぎた。

 ――結局の所、杏子はとても運が良いのだろう。普段の彼女であれば確実に気付いただろう異変を今日に限って見逃し…結果として命拾いしたのだから。

 …もっとも彼女自身がそれを知るのは、だいぶ先の事になるが。

 不幸にも彼女より少し前に公園を歩いていた一人の女性が、すぐ傍の茂みの裏で屍になっている事など、今の杏子には知る由も無い。

 新たな事件は、この時すでに始まっていたのだ――――。



 男は桜の樹に凭れて足を投げ出し、ぼんやりと散る花びらを眺めていた。

「――数百年あまたの時を越え…今なお、なんと衰えることを知らぬ斬れ味よ――」

 目の前の人影が何か言っている…なんだろう…?

「そればかりではない。その刀身は紅の鮮血を浴び、芸術品の如き眩耀さを増しているではないか…」

 刀身…刀?目を向けると自分の右手には日本刀が握られていた。…どうしてこんな物がここにあるのだろう…?

 見下ろした身体にはべっとりと赤黒いものが染み付いている…。

「天海よ…常世の淵で見ているがいい。貴様が護ろうとしたこの街が、混沌に包まれていく様を。貴様の街は、ヒトの欲望によって滅ぶのだ…」

 ――ゆっくりと思考が動き始める。刀、返り血…傍に横たわるのは、女――自分が、殺した。

 …思い出す。獲物を追い詰め、その恐怖に引き攣る表情を楽しみ、肉を斬り裂く手応えに快楽を覚えた。

 罪悪感と恐怖が浮かび上がり、先程まで感じていた筈のおぞましい欲望とぶつかり合う…吐き気が、込み上げた。

「さあ…殺すがいい――くくくくッ…」

 囁かれた言葉は、とても甘美なものに聴こえた――――ゆだねてしまえば、楽になれる…。

 男は顔を上げた…その瞳は濁り、口元には虚ろな嗤いが浮かんでいた。

 話していた筈の人影は、もう何処にもいなかった――――。







偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜



第参話 妖刀







【一、 歓待】



「――…花見?」

「オウよ。舞い散る花びらを見上げながら、男同士、友情について熱き語り合いをだな――」

 放課後、醍醐と湧が話している所に、やって来た京一が言ったものだ。

「…その本音ココロは?」

 どうせロクな事ではないだろうが、と腕を組み半眼で問い掛ける醍醐。

「いや、さぞかし酒が美味いだろうなァ…」

「……京一、お前な…」

 溜息をつきつつ窘めようとした醍醐に京一はへらへらと笑いかけた。

「まァまァ。相変わらずおカタイなあ、真神の総番殿は」

「お前がやわらかすぎるんだッ」

 ――酒は武道家としての健全な肉体と精神を鈍らせる。そもそも俺たちはまだ高校生だ、社会的道徳的にも…云々。

 ――あいにくと酒で鈍るほど俺の腕は悪かねェんだよ、社会や道徳で宴会できりゃ苦労しねェや…かんぬん。

(…なんつーか…仲がイイねェ)

 正論で説得を試みる醍醐と、それを屁理屈で躱す京一…二人を見ながら、湧はぼんやりと昨日の出来事を反芻していた。

 ――旧校舎、異形の蝙蝠たち、美里の《力》、湧にとっては二度目の覚醒…通常ではありえない怪異の数々。

 醍醐も旧校舎での一件を心配して、身体に異常は無いかと訊いてきたのだ。…京一が来た事でうやむやになってしまったが。

 実の所、二度目とは言っても湧自身あの現象が何を意味するのか、はっきり解っている訳ではない。

 今予測できるのは、あの場にいた全員に何らかの《力》が宿っただろう事――自分や美里のように。

 さしあたって彼らに変わった様子は見られない…表面上は。だが――、

(……何もナシに済む訳は、無いか…)

 そんな、妙な確信だけはあった。

「――何だよ、じゃあ石動にも聞いてみろよ」「むう…」

 急に話を振られ、湧はきょとんと目を瞬いた。

「お前はどうなんだ、石動。高校生が酒なんて、もっての他だと思わんか?」

 飲酒云々の話がまだ続いていたらしい。真顔で問い掛けた醍醐を見て少し考える。

(コイツ、結構こーゆートコ堅いんだな…じゃあ――)

「――まあ、法律上飲酒が許可されるのは二十歳だよなァ…」

「ほら見ろッ、石動はお前と違って自分の立場をきちんと理解している」

「はいはいッ、あーそーですかッ!ったく、物分かりのイイ奴だぜ、どいつもこいつも…」

 …一般論だけど、と続けた湧の小さな呟きは彼らの耳には届いていない。



「――まったく、もう見てらんないよッ」

 元気な少女の声に三人が振り向く。

子供ガキなんだから、京一は。ホンノーの赴くままだもんねッ」

 からかうようにそう言ったのは小蒔…隣では美里が笑いを堪えている。

「なんだよ、二人ともいたのか…」

「さっきからいたよッ。ボクと葵と…美女が二人も。ねェ〜、石動クン?」

 バツの悪い顔をした京一に応える小蒔。ついでに湧にも水を向ける。

「確かに。こんな美人の接近に気付かないなんて修行が足りないんじゃないか、蓬莱寺?」

 とっさに調子を合わせる湧――この場合、自分のことは棚上げである。

「あのな、石動…こんなコトいいたかないが、お前一度眼医者に行った方がいいぜ。俺にゃ美女は…いや、そもそも女は美里一人しか見えねえぞ」

 な・ん・だ・とォ〜…と拳を握って腕捲りする小蒔を醍醐が慌てて押しとどめた。

「まあ、落ち着け桜井。…そうだ、どうせなら皆で花見に行かないか?中央公園も、もう満開だろう」

 醍醐の提案に、小蒔がぱぁッと顔を輝かせる。

「えッ、花見に行くの!?いいね、それ。ボク楽しみだなァ、中央公園は屋台も出るし…」

「うんうん、『花より団子』って言葉はお前のためにあるようなモンだ」

 やきとり、やきそば、おでんにお好み焼き…と嬉しそうに指折り数える小蒔を京一が野次った。

「ベーッ、だ。花を見ながら屋台の食べ歩き、これが花見の醍醐味だろ?それに、キレイな桜に食欲も増すってモノさ。ねッ、葵?」

 …美里は応えない。見ると、視線を宙に彷徨わせ、なにやら考え込んでいるようだった。

「葵ってば。…どーしたの?ボーっとして」

「…え?あッ、ううん…なんでもないの。ちょっと考えごとをしていただけ」

 心配そうに問い掛ける小蒔に向かって美里は微笑んだ。はぐらかすように続ける。

「中央公園は、きっと夜桜も綺麗でしょうね…みんな、どうかしら。石動くんの歓迎会も兼ねて」

「歓迎会ッ!?そうそうそれだよ!やってなかったじゃねェか、歓迎会」

 得たり、とばかりに京一が声を上げ――さらに。



「――決まりねッ、今日はみんなで花見よッ!」「…アン子ッ!?」

 廊下に面した窓から杏子が身を乗り出していた。何でここに…と顔を顰める京一に向かって軽く鼻を鳴らすと教室内に入ってくる。

「あーら、そんな事どうでもイイじゃない。――石動君の歓迎会だもん、あたしにも参加する権利はあるわよ」

 ねッ!と断りを許さぬ勢いで迫られ、湧は苦笑した。

「権利も何も…歓迎してくれるってのを断る理由なんて無いよ」

「…石動ィ、嫌なら嫌とハッキリ言っていいんだぞ?」

京一アンタには訊いてないのよッ!…でも、ありがと。石動君にはお礼にウチの新聞あげちゃうわ、はいッ」

 ちなみに一面は旧校舎潜入レポート…昨日の今日で既に出来ている所が凄い。写真には美里と何故か杏子自身まで写っているのだが、彼女以外にカメラマンなど居なかった筈だ――セルフタイマーでわざわざポーズをとったのかと思うと、なんだか笑える。

「――ったく、しょーがねェなァ。お前がいると、またなんかロクでもない事が起きそうだぜ」

 ウンザリ、といった様子で溜息をついた京一に片眉を跳ね上げ「失礼しちゃうわ」と言った杏子は、芝居がかった仕草で髪をかき上げる。

「有能なジャーナリストはね、己が本能の赴くままに行動するの。――あたしが事件を起こしてるんじゃなくて、事件の方があたしを求めてやって来るのよッ!」

 …物凄い自信、と言って良いのだろうか?要約すれば、『近くにいるとロクでもない事件に巻き込まれる危険人物』だという事を、彼女本人がこれ以上なくキッパリと肯定している訳だが…。

「はははッ、物は言いようだな」

「ちッ、やってらんねェぜ、まったく…」

 醍醐が呆れ気味に笑い、京一が舌打ちする。美里や小蒔も笑っていた。

(……誰も否定しないワケね…)

 湧は明後日の方を向いて、ひとり乾いた笑いを洩らした――――。



 その後、杏子の提案でマリア先生も呼ぶことになった。何やら企んでいたらしい京一が色々とゴネたのだが…。

「なによ、京一。…アンタ、なんか都合悪い事でもあんの?」

 キラリ、と眼鏡を光らせた杏子の言葉に渋々承諾した。小蒔を先頭にぞろぞろと戸口へ向かう。

「…幼稚園の遠足じゃあるまいし、せっかくの花見にせんせーの引率かよォ…」

 肩を落として愚痴る京一の肩を叩くと、湧は小声で囁いた。

「蓬莱寺、そうクサるなって。――酒のことなら任せなさい」

 ギョッと目を瞠った京一が振り返る。

「だ、だってお前さっき…ッ?!」「俺はあくまで一般論を述べたまでだよ、蓬莱寺クン?」

 京一と湧は互いの顔を見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた――時代劇の悪役の如く。

「…石動屋、おぬしもワルよのォ〜」「いえいえ、蓬莱寺様ほどでは…」

 くっくっく、とほくそ笑む男が後ろに二人いる事を、他の四人は知らない……。



「――わッ!…いてててッ、ドコ見て歩いてんだよ…?」

 小蒔の声に入り口の方を見ると、険のある視線が湧を見据えていた――佐久間だ。

「佐久間、どうした?身体の方は…」「――俺に近寄んじゃねェッ!!」

 声をかけた醍醐を撥ね付け、佐久間は湧の前に立った。

「石動…俺と、もう一度闘え…」「佐久間くん…」

 美里の呼び声さえ無視して、佐久間は更に言い募る。

「……やるのか、やらねェのか、どっちなんだ…」

「――手合わせだったら受けてもいいけど…違うんだよね?」

 相手が普通の人間と判っている以上、湧の方には闘う気など毛頭ない…とはいえ、佐久間の表情を見る限りでは何を言っても無駄に思える。

 湧が口をつぐんでいると、助け舟のつもりか京一が軽口を叩く。

「バーカッ。てめェとやったところで、石動が勝つに決まってんだろッ?」

 その言葉に佐久間は京一をギッと睨みつけた。一触即発の空気を醍醐が遮る。

「やめろ二人ともッ!私闘なら、俺が許さんぞ」

 一瞬怯んだ佐久間は、しかしより強い憎しみを込めて醍醐を睨め上げた。

「……そうやって、親分風吹かしてられんのも今のうちだぜ。石動の次には、醍醐…てめェをやってやる」

「佐久間……?」

 思いもよらない言葉に醍醐が戸惑う。

「いつも、俺の前ばかり歩きやがって――」

 低い呟きを残すと、佐久間は背を向け歩き去った。

「おい、佐久間…」「よせよせ、醍醐も石動も気にすんなって」

 追おうとした醍醐を京一が止めた。「どーせ、ひとりじゃ何にも出来やしねェよ」と言った京一に複雑な顔をする醍醐。

「さァて、さっさと花見でも行ってどんちゃん騒ぎしよーぜッ。ホラホラ――」

 暗くなりかけたムードを払拭するように京一が皆を急き立てる。

 気を取り直して職員室へ向かう彼らの後ろを歩きながら、湧はさっきの佐久間の姿を思い出していた。

(――どうしたモンかな…?)

 直接仕掛けられたなら撃退できる自信はある。互いの実力差を考えるなら脅された所で怖くも何ともない。

 逆に脅しつける事もはぐらかす事も、やろうと思えば出来たのだ。だが、結局それでは実力で叩き伏せるのと同じ――何の解決にもならない。

 憎しみに凝り固まった人の心を解きほぐすのは並大抵の事ではない…出会ったばかりの相手では、尚更だ。

(やっぱ、最初がマズかったよな…)

 他の皆に悟られないよう、湧はこっそり溜息をついた――――。



「――あ、そうだ。どうせなら、ミサちゃんも誘おうよ」

「いいわね、きっと盛り上がるわよ!多分まだ霊研に…」

 廊下の途中でそう言い出した小蒔と杏子に、京一と醍醐が難色を示した。

「よーく考えろ、石動。裏密は魔女なんだ…ヤツはきっと研究中の毒薬をジュースに混ぜて、それを飲んだ俺たちは…」

「俺は決して裏密が嫌いな訳ではない、だが…。何と言うか、こう…あいつに傍に寄られると背中を寒いものが走るんだ」

 …だそうだ。まあ、無理もない事ではあるが。

 (一応)歓迎会の主役である、湧に視線が集まる。暫し考えた後に出した答えは…、

「――そりゃ盛り上がるだろうけどさ……花見の席で百物語でもやりたいワケ?」

 一同、絶句。ナニかを訴えかける男性陣の視線に、思わず目を逸らす言い出しっぺの二人。

「…ま、まあ、ミサちゃんと親睦を深めるのはまた今度って事で。とりあえず職員室へ行きましょ」

 アハハ、と笑う杏子の言葉に従い、六人は一階へ降りた。





 職員室に入ってみると、マリアはいなかった。代わりに――、

「げッ、よりによって一番会いたくないヤツが…」

 くたびれた白衣の背中を見て京一が呻く。

「――ヤツじゃなくて、先生…だろ?蓬莱寺」

 聞きつけた背中の主が振り返った――煙草を咥え、皮肉げな笑みを浮かべる…3−B担任、犬神杜人。

「…相変わらず地獄耳だな。名前の通り、犬並だぜ」

 そう言った京一を犬神は鼻先で笑い飛ばした。

「フッ、犬とは良く言った…お前にしては上出来だ。だが、俺は鼻も利くって事を忘れるなよ、蓬莱寺?お前が何を企んでいようが、すぐに判る」

「なッ、なんのコトだよッ!?」

「とぼけるのが上手いな――お前ら、昨日の夕方、旧校舎に入っていっただろう…なァ、石動?」

「…よくご存知で」

 肩を竦めてあっさりと白状した湧に、犬神は意外そうな顔をした。

「お前は素直だな、石動……蓬莱寺もお前くらい素直ならな」

「石動…お前、素直すぎんだよッ」

「どの道、真神新聞が売られれば判る事でしょーが?」

 ねェ?と湧に視線を向けられ、苦笑する杏子。

「フン…まあいい。お前らも知っていると思うが、旧校舎は立入禁止だ。余計な怪我をしたくなければ、二度と近づくな」

「余計な怪我って、まさか…先生、あそこに何がいるか…?」

 言葉尻を聞きとがめた杏子が問いかける――が。

「――『何がいるか』?…何がいるんだ、遠野?」

 ニヤリと嗤った犬神が彼女を見た――鎌をかけられたのだ。

「俺はただ…あそこは老朽化していて、床板が割れたりすると怪我をする――と言いたかっただけなんだがな」

「…!?や、やだ、そーなんですか?もゥ、先生ったら、お茶目なんだからッ」

 引き攣った笑顔を浮かべながら、杏子がその場を誤魔化す。馬鹿アン子、と京一が小さく毒づいた。

「ところで…お前ら、これからどこかへ行くのか?」

「はい、これからお花見なんです――中央公園まで」

 美里が答える。先生は行かれないんですか?と彼女が問うと、犬神はなにやら言葉を濁した。

「あァ…。俺はどうも――桜って奴が好きになれなくてね」

「へへへッ…昔、桜の下で女にフられたとか?」

 茶化す京一には取り合わず、犬神は何処か遠くを見るように目を細めた。



 ――何故、今更こんな事を言い出すのか…自分でも解らぬまま、犬神は言葉を紡ぐ。

「…桜って奴は、人に似ている。美しく咲き誇る桜も、一瞬のせいを生きる人も。だが――」

 彼らに…“ヒト”に話してどうなるというのだろう?

「――どんなに美しかろうが、やがては散ってしまうのだ。俺には…俺には散りゆくために、無駄に咲き急いでいるように思えてならない」

 惜しんで、いるのだろうか?かつて目の前で喪われた…自分の前で逝った、数多くの命たちを。

 ――ふと、銀色の光が自分を捉えるのを感じた。転校生…石動の伸ばされた前髪から僅かに覗く右目。

(……お前は、どうなんだ?それでもヒトを……“彼ら”を…?)

 自分と同じ…或いはそれ以上の時間、人間を見てきただろう存在――“刹那”は一瞬だけ困ったように微笑むと、異形の瞳を隠し…“石動湧”に戻った。



「――でも…でも、先生。だからこそ、桜は美しいのだと思います。儚い命だからこそ…」

 犬神の言葉に暫し考え込んだ美里は、やがて顔を上げて言った。

「人だって、死があるからこそ強く、激しく、そして優しく…懸命に生きていけるのだと……私は、そう思います」

「…それは、死というものを知らない人間の詭弁だよ。“君”は――」

 微かな違和感――普段と変わらぬ筈の無愛想な口調が微妙に変化する。彼は、誰か他の人に向かって話している…。訳も無く、そう思った。

「犬神先生…?」

「――ッ…いや、すまない。話が過ぎたな。で…花見に行くのに、職員室に何の用があるんだ?」

 動揺を取り繕うと、犬神は話題を変えた。小蒔が思い出したように口を開く。

「あッ、そうそう。それで、マリア先生も誘おうと思ったんですけど…」



 マリアは旧校舎の囲いの強化について教頭と会議中との事だった。

「――まァ、花見もいいが気をつけて行けよ。中央公園に桜以外のものが散らんように…」

 そう言い残すと犬神は出て行った。

「ちッ、相変わらず嫌なカンジだぜッ」

 犬神の言葉に不吉な響きを感じ取ったのか、京一が毒づく。ちょうどその時、戸が開いた。

「――アラッ、みんな。どうかしたの?揃って…」

 入って来た金髪の美女は、彼らを見て親しみの篭った笑みを浮かべた――。





【二、桜花】



 ――――うふふふふ〜。お花見〜、桜〜、紅き王冠〜。中央公園…西の方角ね〜。ザインに剣の象徴あり〜。

 ――――紅き王冠に害なす剣…鮮血を求める兇剣の暗示だね〜。……うふふふふ〜。

 ――――ちょっと待って。ミサちゃん、もしかしてそれって……?

 ――――盗まれた刀が、徳川を祟る妖刀?…おい、まさか…。

 ――――うふふふふ〜……。



『――じゃあ、みんな六時に中央公園で集合だねッ。遅れた人は、罰ゲームッ!』

 小蒔がそう言い、彼らはいったん正門で別れた。

 幸い、マリアは二つ返事で同行を承諾してくれた。ただ、出掛けに裏密から聞いた予言と杏子の言い出した『日本刀盗難事件』の話が、何人かの不安を煽っていたが。

「…?石動くんの家もこっちだったの?」

 横を歩く美里も、不安を感じたうちの一人である。

「うーん、それがさ…実は俺、中央公園って行った事が無いんだよね」

 え?と目を瞠った彼女に構わず湧は続ける。

「どーしよーかなァ?公園までは行けるだろうけどさ、その先ドコで待ったらいいのか…一人はぐれて罰ゲーム、なんてヤだしなァ…」

 いやあ、困った困った…と頭を掻きながらワザとらしく溜息をつく。クスッ、と小さな笑い声が聴こえ、美里に目を向けた。

「もう…強引ね。うふふ…それじゃ、私も石動くんに合わせて来るわ。遅れないでね?」

 感謝シマス、とおどけた湧にもう一度笑うと、彼女は帰っていった。





 桜が、舞う…暮れゆく夕日の中、薄紅の花弁が吹雪く様を見つめ、湧は感嘆の吐息を洩らした。

「――石動じゃないか、随分と早く来たな?」

 公園の入口で呆けていると、後ろから声がかかった。振り向けば、頭一つ分高い位置から意外に整った顔が湧を見下ろしている。

「醍醐…?そっちこそ早かったな」

「ん?あァ、せっかくだから何か腹に入れる物を買っておこうと思ってな。――どうだ、中央公園の桜は…見事なものだろう?」

 湧は笑って頷くと、再び桜並木を見上げた。隣に醍醐も並ぶ。

「凄い…綺麗だよな。何て言うか、来て良かった」

「そうだな……本当に、春というのは良い季節だ」

 これは、俺が師と仰ぐ人の言っていた言葉だが…と前置きしてから醍醐は語りだした。

「――春というのは、冬という寒くて暗い寂寞とした死の季節を越え、あらゆるものが再び生命の息吹を開花させる季節だという」

「小難しいな」

 身も蓋も無い感想を洩らした湧に醍醐が苦笑する。

「ははッ、違いない…。――俺が真神に…新宿に来たのも、お前と同じこんな季節の…中だった…」

 声に何か苦いものが混じるのを感じて、湧は横の巨漢を見上げた。

 …さっきとはまるで違う、岩のように堅く強張り表情を無くした顔――遠くを見つめた瞳に映る感情は…後悔、だろうか?

「だが、俺の心の中は……未だにあの二年前の冬のままなのかもしれん――」

 そこまで言って湧の視線に気付くと、醍醐は戸惑い気味に笑う――何故そんな話をしたのか自分でも解らない、といった風に。

「すまんな、柄にも無くこんな話を。まあ気にするな…単なる、俺の感傷だ」

 ジュースでも買ってくるから、お前は先に行っててくれ…と彼は近くのコンビニへ走っていった。



「――よッ、美里さん」

「石動くん…早かったのね。まだ…誰も来ていないの…?」

 公園に入ってすぐに美里と会った。醍醐がすぐ後から来る筈だけど、と言って暫し二人で歩く。

「綺麗ね…とても…」

 そう言う美里だが、その横顔はどこか憂いに沈んで見えた。

「…そうだね。これで横の美人が明るく笑ってくれたら、もっと気分イイんだけどな?」

 湧の言葉に美里が顔を赤らめる。もう、と軽く睨むがややあってフッと視線を落とした。

「あのね、石動くん…私、石動くんに聞いてもらいたい事があるの…」

「なんなりと伺いましょう、お嬢さん?」

 軽口を叩いた湧にクスリと笑みをこぼして、彼女は顔を上げた。

「ありがとう…本当に、聞いていてくれるだけでもいいの…。昨日の旧校舎の事――」



「――あの時…あの旧校舎での出来事から、私の中で何かが変わった…」

 赤い光に追いかけられ、杏子ともはぐれて闇の中で独りになったあの時。

 逃げ惑う恐怖の中、身体が燃えるような熱を帯び…意識が真っ白に弾けた――――それからだ。

「それは、私の心に呼びかけてくる暖かい気持ち…優しさ…慈しみ…心地良い温もり…」

 どうして、彼なんだろう…何故こんな事を、出会ったばかりの人に話しているんだろう…?

「…でも……時々、私が私じゃなくなっていくような気がして…元の私が消えていくようで…」

 気づいた時、自分の傍には…彼がいて。支えてくれる、腕があって。

 とても――とても、それは……“懐かしい”――。



「――怖いの…このまま、みんなの事を忘れてしまうんじゃないかって。どうして良いか、わからなくて…この《力》は何なのか、わからなくて……私……」

 細い肩が震える…目を伏せ、自身を庇うように抱き締める。その姿は、まるで夜の闇に怯える子供のよう。

「…美里…さん……」

 ――チリ、と右の瞳が疼いた…意識が遊離するような感覚。
(――――すまないな…『美里』……)
『――泣かないで…泣かないでよ、姉ちゃん……』

 湧の右目が、淡く朱金を帯びる――。
――――俺ハ、イツモ…君ヲ泣カセテバカリダ――――。


 突然、何か暖かいものに包まれて、美里は目を見開いた。

「――――石動…くん…?」「……泣くな…“美里”……」

 気がつくと、彼女の身体は湧に抱きすくめられていた。何かから護るように、包み込むように暖かく…。

 右腕は背中に回され、左手は優しく幼子をあやすように、美里の頭を繰り返し撫でている。

 父親の…或いは母親の腕に抱かれているような安心感を覚え、彼女はゆっくりと目を閉じた。

 ――――イケナイ…!

 心の何処かで、微かに警鐘が鳴る。

 ――――彼ヲ信ジテハイケナイ……。

(…どうして?こんなに暖かいのに…)

 ――――イナクナルノダカラ……イツモ。

(知らない…知らないわ、そんなこと……)

 ――――消エテシマウ……私タチヲ残シテ――――。

(…あなたは、誰なの…?――やめて…“思い出したくない”…ッ!)

 混乱する想いが、美里に目の前の存在を拒絶させた。力の入らない腕で、弱々しく湧の胸板を押す。



「…いや…離して……」

 ――腕の中から聴こえるか細い声に、湧は我に返った。

(……えーと…?)

 公園の片隅で、俯いた少女をそっと抱き締める自分――傍から見ると、これは『ラブシーン』とかいうものではなかろうか?

 急に突き放すのも躊躇われ、何となく撫でていた左手を宙に泳がせる。…と、彼女の目尻に光るものを見つけた。

(――――ふむ…)

 ふと、悪戯心が湧きあがる――回した腕に力を込め、頭に手を添えて美里の顔を自分の胸に押し付けた。

「…!?ちょっと…石動くん…ッ?!」

「ヤ・ダ。――泣き止んでくれなきゃ、離してアゲナイ」

 ワザと意地悪い笑みを浮かべる。――暗くなってきたとはいえ、ここは人の多い公園である。案の定、真っ赤になった美里は慌てて湧から離れようとするが、見かけによらず力強い湧の両腕がそれを許さない。

「泣いてなんか、ないから…もう、離して…離してったら…ッ!」

 美里が悲鳴のように囁き、先程より力を込めて押すと……湧はあっさりと彼女を解放した。

 頬を染め、涙目で見上げてくる美里にしゃあしゃあと言う。

「――落ち着いた?」「……もう…」

 悪びれない笑顔に、美里は二の句が継げない。恥ずかしさを紛らわすように、そっぽを向くのが精々だった。

 …と、向けた視線の先に見慣れた顔が二つほど見えた。

「――――京一くん……醍醐くん……」



「――よォ、へへへッ…こいつはチョット、来るのが早かったか。なァ、醍醐?」

「…う、うーむ…」

 一体いつから見ていたのだろうか?ニヤつきながら言った京一に、醍醐が心もち顔を赤らめながら言葉を濁す。

「ずっと見てたワケ?趣味悪いな、二人とも」

「わりィわりィ、これでも気ィ利かせたつもりだったんだけどよ」

「うむ、どうにも出づらくて…だな…」

 図らずも覗き見する形になった事をそれぞれ謝る男二人。

「もう…京一くんも醍醐くんも、そんなんじゃないんだからッ。――あッ、小蒔とアン子ちゃんも来たみたいよ」

 タイミングの良い親友の到着に心底感謝しつつ、美里は彼女たちに手を振った。



「――ごっめーん!遅くなって…」

 と笑顔で言った小蒔の手には、なにやら多くの荷物がある。大半は屋台で仕入れたらしい食べ物だが…。

「…ナンで花見にまで弓持ってきてんだよ、お前はッ!?」

「年がら年中、木刀持ってるヤツに言われたくないよッ!」

 なんと、弓道の道具一式まで持ち込んでいたりする。

(――ミサちゃんの予言が気になるのかな、やっぱ…?)

 実は湧自身も特注の革手袋をポケットに忍ばせてきたのだが、それを言うと美里や醍醐がまた気にしそうなので口には出さなかった。

「あーあ、それにしても京一がこんなに早く来てるとはねえ…せっかく音痴な歌を聴いてやろうと思ってたのに」

 残念だわ、と首を振る杏子に京一が食って掛かった。

「あのなッ、結果的に一番最後はお前らだろうがッ!!そんなに歌が好きなら自分たちで歌えってのッ!」

「い、いやァ、どーせならボクたちなんかより、マリアセンセの歌の方が…」

「――私がどうかしましたか?」

 時計は六時ジャストを指していた。計ったような正確さである。

「あははははッ、何でもナイですッ!さッ、みんな揃ったことだし早く行こ行こッ!!」

 そう言った小蒔を先頭にして、一行は場所取りに向かった。

「……見事に自分の立場を誤魔化しとるな」

 後ろを歩く醍醐が呆れ気味に呟いた――。




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