久遠刹那 第四話





【序、黒翼】



 ――――汚れた街…星の光さえ消し去る偽りの灯明。

 ずっと以前から、それら全てが嫌いだった。

 長く伸ばした髪を風が弄るに任せ、美しく整った顔に冷ややかな色を浮かべ、鉄塔の上から夜の都会を睥睨する。

 眼下に広がる醜くも忌まわしい夜景と、その中で蠢く卑小な人間たち。

――――ならば…壊してやるがいい――――

「母なる星を蝕む害虫…滅びを知らぬおごった人間どもよ…」

 呟く声に限りない侮蔑と嫌悪を滲ませながら、身を包む陶酔感に笑みが漏れる。

 自分は、至高の使命を果たすのだから。

「淘汰の時はすぐだ……この僕の手によって」

――――そうだ…お前にはその《力》がある――――

 一ヶ月前から頭の中で響く声…だがそれも、今となってはどうでも良い事だった。

 “選ばれた”のだ、自分は。きっかけなど、もはや些細な事でしかない。

――――目醒めるが良い…《力ある者》よ――――

 あの時出逢った青年――恐らくは彼も、『選ばれし者』なのだろうが…。

「…さあ、行くがいい。僕の可愛い子供たち…」

 クックッ、と一頻り篭った笑い声をたてると、持っていた横笛を唇に当てて吹き鳴らす。

 ――――バサバサバサッ。

 甲高い笛の音と共に、十数羽の鴉が夜空へ飛び立つ。

 突風で彼の纏う黒い外套も激しくはためいた。

 狩りの時間が始まったのだ――――。






偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜



第四話 鴉







【一、 不穏】



「――フフフッ、変なコトを訊くようだけど…」

 そう言って、マリアは嫣然と微笑んだ。

 掻き揚げられた金髪…露わになったうなじから薔薇を思わせる甘い芳香が立ちのぼり、鼻をくすぐる。

「石動クン、アナタ……年上の女性は好き?」

 マリア先生ファンが言うところの、『魅惑の眼差し』が湧の瞳を捉える。

 紅く艶やかな唇が誘うように僅かに開かれ、普段白い頬はほんのりと上気して、得も言われぬ色香を醸し出す。

 大胆に組まれた長い脚と豊かな胸元を強調するように大きく襟刳りの開いた服が、彼女の妖艶な魅力をこれ以上なく引き立てている。

 健康な成年男子ならば思わずよろめいてしまうシチュエーションの中、湧は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、答えた。

「もちろん好きですよ、マリア先生」

 …にっこり満面の笑顔付き、である。



 ――――ここは真神学園職員室…間違っても色気のある話が出来る場所ではない。

 放課後になって呼び出され、来てみると何故か他の教師がおらず、二人でたわいない話をしているうちに妙な雰囲気になってきたのだが…。



『――俺の熱い想いを打ち明けに…って言ったら信じて貰えます?』

 …転校初日に自分がマリアに言った台詞。

『――俺なんて、外人だからと思って挨拶代わりにキスしようとしたら、思いっきしスネ蹴っ飛ばされたからな。まァ、お前も気をつけるこった』

 …京一が彼女を評して言った言葉。

 これらの記憶と、いきなりなマリアの発言から湧が考えた事は、

(――――その手には乗りませんよ、マリア先生?)

 …だった。



「――だけど、先生も大胆だなあ。二人っきりでそんなこと言われたら、俺ヘンな気になっちゃうかもしれませんよ?」

 頭の後ろで手を組み、いけしゃあしゃあと言ってやる…この手の言葉遊びは好きだから。

 相手は自分の担任とはいえ、冗談だと判り切っているから気楽なものだ――と湧は思っている。

「…あら、フフッ。そう…?」

 マリアは一瞬意外な反応を見たように目を瞬いたが、すぐにまた微笑んだ。

 椅子を回して姿勢を変えると、僅かに二人の距離が狭まった。

 彼女の瞳はいつしか妖しい色彩を帯びていたが、無警戒に笑っている湧は気づかない。

 吐息がかかるほど互いの顔が近づこうとした、その時――――



 ガラガラッ、とやけに大きな音を立てて職員室の扉が開いた。

「――石動湧じゃないか」「え…?」「――ッ!?」

 急に名前を呼ばれて振り向くと、白衣を着た長身の生物教師がこちらを見ていた。

「犬神先生…」

 最近良く会うな、などと思いつつ応える。背後で息を呑んだマリアがさりげなく距離を離したのは、湧には判らなかった。

「よお。何してんだ、こんなとこで?若い美人教師と男子生徒が二人きりなんて、感心せんなァ」

「犬神センセイッ!!」

 からかうような口調の犬神にマリアが険しい声をあげた。

 これは失敬、と肩を竦める犬神とマリアの視線がぶつかり合う。

「――はははッ。そんな顔したら美人が台無しですよ、マリアせんせ?」

「…で、何か御用ですか?」

「はははッ、これは嫌われたもんだ。いや、ちょっと煙草を吸いに…ね」

 言ってポケットから煙草を一本出すと、咥えてみせる。

「生徒の手前、廊下で吸うわけにもいかないもんで。男子トイレで吸うのも、飽きたし」

 はははッ、と再び声を立てて笑う犬神に何か不自然さを感じて、湧は彼の顔を見つめた。

 口の端を笑みの形につり上げ、軽い口調を装ってはいる。

 だが、眼鏡の奥に見える瞳は鋭い光を湛えてマリアを見据えていた――――敵を牽制するかのように。

 対するマリアも、先刻までの雰囲気が嘘のように険悪な表情で犬神を睨みつけている。

「…あのー、先生…?」

 ピン、と張り詰めた空気に耐えかねて湧が声をかけると、マリアがフウッと息をついた。

「……石動クン、ありがとう。もう、帰っていいわ」

 続きはまた今度…と彼女が小声で囁いた時には、既にいつもの優しい微笑みを取り戻していた。

 無言で見ている犬神も作ったような笑いを止め、仏頂面で煙草をふかしている。

「気をつけてね。最近はこの新宿まちも物騒だから……」

 柔らかな声に送られて、湧は職員室を後にした。

 彼女の言葉に含まれた不穏な意味に気がつくのは、まだ少しばかり先の事――――。





「――あー、すっかり腹が減っちまったぜッ!」

「…早弁のあげく居眠りこいてた奴がよく言うよな」

「エヘヘッ、でもみんなでわいわい食べるのも楽しいもんねッ」

「うふふッ…小蒔ったら」

「まァ、ちょうど腹も減ってきた所だしな。みんなで行くとするか」



 湧が教室に戻るといつもの四人が集まっていた。

 他愛無い会話をしながらラーメン屋へ行こうとする彼らだったが…



「――ちょおっと待ったぁーッ!!」

 景気よく扉を開けて入ってきた少女に遮られた。

「げッ…アン子」

 思わず京一が呻く。

 あからさまに顔を顰めたのが見えなかった筈もないのだが、杏子は全く意に介さず近づいて来た。

「そこのいつもの五人組〜、ちょっとでいいからあたしの話を聞いてみない〜?」

 満面の笑顔に猫撫で声…揉み手でもしそうな彼女の様子に、他の四人が一歩退くのが判った。

「ま、まあ聞くだけなら…なに、遠野さん?」

 そう答えた湧も、何やら不吉な物を感じていたりする。

「やっぱり石動君は頼りになるわ〜。お礼に、タダでうちの新聞あげちゃうッ」

 ハイッ、と新聞を手渡すと、杏子は残る四人ににじり寄った。…はぐらかされた気がしないでもない。

「さ〜て、他の人たちは…?」

「聞きたくない…」

「あッ、何よ桜井ちゃん。その態度は…」

「俺も同感。お前の頼みを聞くと、絶対にロクな事にならねェ気がする」

 難色を示す小蒔と京一、それを何とか掻き口説こうとする杏子と困ったような顔で見ている美里に醍醐…という構図になった。

 置いて行かれた形の湧は、仕方なく新聞の一面にざっと目を通した。一番の目玉は『レスリング部活動開始』の記事で、醍醐のトレーニング中の写真が大きく載っている。

 湧はその記事を見ながら、傍にいた醍醐に話し掛けた。

「――部活、もう再開するんだ?」

「ん?…ああ、試合は当分お預けだが、トレーニングは欠かしたくないしな」

 新聞に目をやった醍醐があっさりと答えた。

 休部から一週間も経っていないのに?と思ったのだが、どうやら練習のために必要な部室の施設を使うだけらしい。

 いかにも努力家らしいな、という内心の感想とは裏腹な悪態が口から飛び出す。

「ふーん…クソ真面目」

 さすがにムッ、と口を開きかける醍醐だが、

「――もォ〜そんなこと言わずに…ねッ。ちょっとでいいんだからさ。ねェ、醍醐く〜ん」

 …と、いきなり杏子から話を振られ、慌てて言葉を呑みこんだ。

「そ、そう言われても、なァ…。俺たちはこれから、ラーメン屋へ行く所だし…」

 とっさに上手い言い訳を思いつける筈もなく、出てくるのは歯切れの悪い逃げ口上ばかりである。

「なによッ、あたしの話とラーメンと…どっちが大事だって言うのッ!?」

「うッ、うむ…そう言われると、困るが…」

 正面から睨まれて、まさか『ラーメン』と言うわけにもいかず醍醐はたじろいだ。

 そんな親友の窮地を見かねて、『ラーメンが大事』と言い切る男が口を挟む。

「やめとけやめとけッ。コイツの味方しても、何の得もしねェぞ。こき使われるのがオチだって。なァ、湧?」

「いや、何もそこまでは…」

 苦笑して言いかける湧に、京一はチッチッと指を振った。

「判ってねェなァ…アン子を普通ただの女だと思ってると酷い目にあうぜ?何せ、特ダネの為なら何でもやる女だからな」

「ちょっとッ!!勝手な事言わないでよねッ!!……判ったわ…判ったわよッ!あたしがみんなまとめてラーメン奢ってあげる。それで問題ないわねッ!」

 それを聞いた醍醐たちが心底意外そうな顔をした。そして…

「――なんだよなんだよ!水臭ェなァ、アン子。なァに、どんなモメ事だろうとこの蓬莱寺京一様が一発で解決してやるから安心しなッ!」

「…ホントッ!?いや〜、やっぱり京一君は頼りになるわ。よッ!真神一の伊達男ッ!!」

「わっはっは!苦しゅうないッ、良きに計らえーッ!」

 そう言って意気揚揚と扉に向かう京一と杏子。

 目を点にした湧が思わず呟く。

「……あいつ…馬鹿…?」

「お調子モノなんだよ、単に。結局、自分が一番乗せられちゃうんだからね…」

 小蒔がやれやれ、と呆れたように首を振った。

「…まァ仕方ない、俺たちも付き合うとするか。遠野が人にものを奢ってまで頼み事をするとは、よっぽどの事なんだろうしな」

「そうだね。ラーメンはタダだし、アン子の話も…実はちょっと気になるしね」

 興味はあったのだろう、醍醐と小蒔が口々に言った。美里も笑って付け加える。

「うふふッ、そうね。京一くんはもうすっかりその気みたいだし…」

「――おいこら、お前らッ。早くしないと置いてくぞッ!さあて、タダ飯タダ飯ッ」

「ちょっと、京一ッ!ちゃんとあたしの話も聞きなさいよねッ!?」

 四人は顔を見合わせて笑うと、先に出て行く京一たちを追いかけた。





 玄関を出た所で、見覚えのある白衣の背中が目に入った。

「あ…犬神先生」

「げッ、犬神ィ?」

 湧と京一の声が聞こえたのか、振り返った犬神が近づいてきた。

「よお…お前ら、揃ってどこかへ行くのか?」

「ラーメン屋です。他の先生には御内密に」

 笑ってぬけぬけと言った湧に、犬神は軽く微苦笑を洩らす。

「そうか…お前らは、本当に仲が良いな」

 呆れたような口調だったが、瞳の色は職員室の時よりも心持ち穏やかに見えた。

「あッ、そういえば…犬神先生、さっき廊下でミサちゃんと話してませんでした?」

 杏子の言葉を聞いて、京一が思わずげんなりと呟く。

「裏密と犬神…なんて取り合わせだ。世界を破滅させる計画でも練ってたのか?」

「聞こえてるぞ、蓬莱寺。…ただ、ちょっと面白そうな話を聞いただけだ」

「面白そうな…話?」

 杏子の瞳が獲物…もとい特ダネを見つけた記者特有の光を帯びる。

「ああ。よくは判らんが…ひつじの方角に獣ととりの暗示が出ているそうだ」

「……?」

「未の方角っていうと…南西の事ね。ふむふむ…他には何か?」

 理解不能な顔をする小蒔をよそに、杏子は手帳を取り出すと犬神の言葉を書きとめていく。その表情は真剣なジャーナリストのそれだった。

「他に…?裏密の奴、今は陰陽系の占星術に凝ってるって言ってたが…」

「なるほど…」

 何がなるほどなのか、傍で聞いている湧たちにはさっぱり解らない――恐らくは、何か事件に関わる事なのだろうが。

「――あァ、それから石動。裏密が、お前に…」

 そう言って犬神は白衣のポケットに手を突っ込んだ。

「…ん?どこに入れたかな…」

 ごそごそとズボンやシャツなどあちこちのポケットを探ること一分近く。

「…おッ、あったあった。裏密がお前にこれを渡してくれと…」

「……何です?その汚い鉢巻き…」

 黄色い布地に目を模した刺繍が施された、いかにもいわくありげな代物…なのだが、ポケットの中に無造作に突っ込まれていたおかげで、ぐしゃぐしゃのよれよれになっていた。

 おまけに糸屑やチョークの粉までくっついていて、ちょっと自分で着けてみたいとは思えない有様だった。

金箆こんべい、だな。密教の儀式に使う法具だったと思うが…俺も詳しくは知らん」

「…はあ。コンベイ、ですか?」

 自慢ではないが、密教なぞにはてんで無縁な生活をしてきた湧に、法具に関する知識がある訳もなかった。

(…昔、手拭いを水に濡らして武器に使った時代劇があったっけな…)

 埒もない事を考えながら、受け取った布を鞭のように振り回してみる。

「ぶッ!?」「…あ、ごめん京一」

 思ったよりも長さがあったため、京一の顔面を直撃した。

「…じゃあ、確かに渡したぞ」

 ――余計な事に首を突っ込んでないで、まっすぐ帰れよ。

 そう言い残して校舎に戻る犬神の背中を見つめ、杏子が呟いた。

「うーん…やっぱり犬神先生は只者じゃあないわね。一度、取材させてもらうべきかも…」

「なに、真剣に悩んでんだよッ。さっさとラーメン食いに行こうぜッ!」

 これ以上長居はごめんだとばかりに京一が声をあげ、六人はラーメン屋に向かった。







【二、 風聞】



 ――ラーメン屋『王華』にて。

 それぞれの注文を済ませた後、杏子が口を開いた。

「そういえば醍醐君、知ってる?佐久間が入院したって話…」

「…何だとッ!?」

 驚き立ち上がりかけた醍醐に店内の視線が集中する。

「落ち着いて、醍醐。…遠野さん、それ確か?」

 先を促す湧に頷くと、杏子は話し始めた。

「あたしも、今日入手したばかりの情報なんだけどね――」



 ――なんでも土曜の夜に、渋谷にある高校の生徒五、六人と佐久間が喧嘩をしたらしい。

 理由は目が合ったとか合わなかったとか実にくだらない事だったらしいが、結果として佐久間と相手の生徒が三人も病院送りになり、職員室でも問題になっているという話だった。



 それまで無言で聞いていた醍醐が、重く苦しげな表情で呟く。

「……最近のあいつを見てると、何かに苛立っているようだった。俺が、もっと早く相談に乗っていれば…」

「醍醐クン…」

 小蒔が気遣うように醍醐の横顔を見つめ、京一がポンポンと親友の肩を叩いた。

「安心しな。あいつは殺したって死ぬようなタマじゃねェよ。すぐ退院してくんだろ」

「…………すまんな」

 友人に余計な心配をさせた事に気づき、醍醐はぎこちなく微笑んだ。



(――“何か”…か)

 彼らの様子を眺めながら、湧は内心でひとりごちた。

 佐久間が何を望み何に苛立っているのか、正直言って湧には解らない。

 ――自分に対する敵愾心、は無論あるだろう。

 出会った当日に喧嘩を売ったも同然の態度、その上完膚なきまでに叩きのめしたのだから、彼のプライドを著しく傷つけただろう事は容易に想像できる。

 …しかし醍醐への態度を見ていると、それだけでは片付けられない何かがあるように思えた。

 その正体が何なのかは、今の湧には理解できなかったが……ただ、『早まったかもしれない』という微かな後悔の念が過ぎった。



「――で、頼みってのはなんだよ?まさか、新聞部に入れってんじゃねェだろうな?」

「あら。それもいいわね」

 醍醐を慮ってか、京一が話の方向を変えた。もっとも、あっさり肯定する杏子にガクッと肩をこけさせたが。

「お前なァ…」

「冗談よ。でも、入りたいって言うなら話は別だけどね――そうだ」

 杏子は湧に顔を向けると、ごく軽い口調で言った。

「どう、石動君。新聞部に入る気、ない?」

 湧が口を開くより先に、京一が割り込む。

「やめとけよ、湧ッ。なんせアン子が部長だからな、新聞部なんかに入ったら命がいくつあっても足りねェぜ」

「ちょッ…どういう意味よ!」

「お前に付き合ってたら、何させられるかわかんねェって言ってんだよ!湧、悪いこたァいわねェ。新聞部だけはやめとけッ」

「…いいよ?入っても」

「ほら見ろッ、湧だって入るって言って…何ィッ!?」

 予想外の返答に京一が目を剥いた。慌てて駆け寄ると、湧の両肩を掴んで揺さぶる。

「お前、今までナニ聞いてたんだよッ?!新聞部だぞ?あの悪名高いアン子が部長なんだぞッ!?強請りたかりは朝飯前、盗撮盗聴の手伝いやらされたあげくに弱み握られて霊研に売り飛ばされちまってもイイのかッ!?」

 真剣そのものの表情で訴える京一…湧は彼の背後にチラリと目をやると、軽く目を伏せ溜息をついた。



「――京一…クン」

 顔を上げた湧と京一の目が合った。

 艶やかな前髪から覗いた漆黒の瞳が、けぶるように微かな憂いを含んで京一を捉える。

 不意に至近距離から中性的な美貌の主に見つめられ、京一は暫し言葉を喪い固まった。

(――お…落ち着け俺ッ!こいつはヤローだ、キレーな顔してても、そこらのオネェちゃんより色気があっても、一枚脱げばムネはなくてナニがある男なんだぞッ!?)

 煩悶しつつも目を合わせたまま動けない京一…と、湧は憂いの表情を消し去り、ニッコリと微笑んだ。

「…油断してると、危ないよ?」「――へ?」

 次の瞬間、京一の後頭部を強い衝撃が襲い――――彼の意識は彼岸の彼方へ飛び去った。



 ごすっ――――バタッ。

「――お見事、遠野さん」

 京一を床に沈めた強烈なエルボーの主に向かって、湧は惜しみない賛辞を送った。

「石動君…今の、ホント?」

 爛々と目を輝かせた新聞部部長は、足元の物体を踏み越えると湧の隣の席に座った。

「本当に、うちの部に来てくれるの?」

「うーん、それには三つほど条件があるんだけど…」



 一つ、怪しい事件の情報は互いに細大漏らさず教え合う事。

 二つ、危険の予想される取材は部員と合意の上で行う事。

 三つ、部員のプライバシーは尊重する事。



 ――――以上が湧の提示した『条件』である。

 何の事はない。

 部員として労働力を提供する代わりに、杏子の持つ情報や人脈を利用するつもりなのだった。

 …ついでに、自分への突っ込んだ取材をさせない為の牽制でもあったりする。



「……良いわ。その条件、呑みましょう」

 数秒の間を置いて、杏子は答えた。

 湧の魂胆は概ね読めているが、部員獲得のまたとないチャンスを逃す訳にはいかない。

 それに、プライバシーの尊重という条件があるとはいえ、部活動の名目で一番の取材対象に堂々と張り付けるのだ…杏子にしてみれば、かなりの好条件ともいえた。



 共に相手を利用し、隙あらば出し抜こうとする者同士――――殺伐とした部活動もあったものである。



「そうと決まれば、さっそく活動開始ね!部長としてハンパは許さないわ…石動君、二人であの報道の星を目指すのよッ!!」

「はい、部長ッ!」

 杏子と湧はラーメン屋の天井を仰いだ――――この時、手を取り合った二人の目にひときわ輝くウツクシイ星が映っていた…かどうかは定かでない。



 …そして、同じ制服を着た残り三人はといえば――――。

「――あーゆーの、『狐と狸の化かし合い』って言うんだろーね…」

「う、うーむ……」

「…京一くん、大丈夫かしら……?」

 昏倒した少年を踏みつけて寸劇を繰り広げる同級生を、店の片隅から他人の振りして見守りつつ、各自ラーメンを啜っていたという。





「――それで、本題なんだけど…みんな、これを見てくれる?」

 ラーメンを食べ終えた彼らは、復活した京一を交えて奥のテーブルに陣取った。

 杏子が机上に広げた新聞を五人で覗き込む。

「なになに…『渋谷住民を脅かす謎の猟奇殺人事件!遂に九人目の犠牲者』…って、これの事か?」



 この記事については他の面々(京一を除く)も知っていた。

 遺体の写真こそ載っていないが、記事によれば被害者は全身に酷い裂傷を負い、眼球を抉り取られ、腹を裂いて臓物を引きずり出されていたらしい。

 現場には必ず鴉の羽根が散乱している事と、“無数の鳥の群れに啄ばまれたような”遺体の惨状から、近来多発し始めた猟奇事件の一つとして世間の注目を浴びていた。



「まさか…この殺人犯を捕まえるのを手伝えって言うんじゃないだろうね!?」

 杏子なら凶悪犯相手にでも突っ込んでいきかねないと思ったのか、小蒔が声をあげた。

 そして、彼女の予想もあながち間違ってはいなかったらしい。

「うーん、近いけどハズレ。捕まえるのは公僕の仕事でしょ?あたしたち新聞部の仕事は、事件の真相を究明する事よ」

「どっちだって同じようなもんじゃねェかッ」「そうそう」

 京一の台詞に湧も深く頷いた――――そもそも『高校の新聞部』の仕事に殺人事件の捜査が含まれるとはとても思えない。

 醍醐が杏子を宥めるように言葉を継ぐ。

「…なあ、遠野。これは殺人事件として警察が捜査をしているんだ。俺たち一般人が――それも、一介の高校生が首を突っ込むべき事ではないと思うがな」

 が、そんな事でめげる杏子ではなかった。

「相変わらず堅いわねェ、醍醐君は。安易に『猟奇的』なんて言葉で片付けて欲しくないわ。みんな、この前の事件を忘れたの?」

 ――旧校舎に巣くう化け物、妖刀を持った殺人鬼…確かに警察がどうこうできるものではなかったかもしれない。

 一連の事件を思い出し、真剣な表情を浮かべる湧たち五人――――しかし、次の台詞に全員が肩を落とす。

「こんなオイシイ…じゃなかった、不可思議な事件を警察に任せておけると思う?」

「オイシイって…お前なァ……」

 呆れた声で呟いた醍醐を杏子が遮る。

「ま、まあ、とにかくあたしの話を聞きなさいよッ!」

 …処置なし、であった。



「――へえ、鴉が人や獣を襲うって事件は前からあったんだ?」

「鴉の爪や嘴は、猛禽類に劣らないほどの鋭さだもの。肉や皮を切り裂くくらい、わけないわ。現に、放牧中の仔馬が生きたまま鴉の集団に喰い殺されるって事件もあったしね」

 杏子の持つ情報の豊富さに、湧は思わず舌を巻いた――――必要上集めたのだろうが、それでも大したものだ。

 ただ知識を諳んじるだけではなく、状況に応じて必要なものとそうでないものを分類し、瞬時に関連のありそうな情報と結び付けて推論する…プロの探偵やジャーナリストでもなかなか出来ない事だろう。

「でも…確か、鴉が人を襲うのは主に雛の養育期の頃――それも、雛を護ろうとする時くらいのはずでしょう?」

「さすがね、美里ちゃん。そう、その通りよ…普通はね。でも、今回の事件は鴉の捕食行動との共通点が多すぎるのよ。例えば、死体の眼球が損失している所とか…ね」

「……つまり、カラスが人を襲って――喰べてるってコト?」

 話の流れからようやく杏子の言いたい事を悟り、小蒔が声をあげた。

「そんな事、あるわけないよッ。おかしいじゃないか、そんなの普通じゃ……あッ」

「――そう、普通じゃないのよ」

 “普通ではありえない事件”――――すなわち、一連の怪異。

 沈黙した一同に向かって、杏子は静かに言を継いだ。

「鴉は人間をも上回る、雑食性の生き物なのよ。栄養となる物なら、牛の糞から車に轢かれた猫の死体まで、それこそ何でも喰べるんだから。あたしの推理が正しければ、犯人は恐らく――――」

 杏子はここで間を置くと、思わせぶりに五人の反応を窺った。

 事件に興味のなかった京一までが続きを聞こうと身を乗り出す。

「――――鴉よ」

 がたがたッ。

 湧と京一が顔から机に突っ伏し、醍醐と小蒔は呆れたように肩を落とした。

 一拍遅れて美里が杏子に訊き返す。

「えッ…?」

「そのままじゃねェか…。幾ら現場にカラスの羽根が落ちてるからって、そりゃあねェだろ。あまりにも短絡的だぜ…」

 真面目に聞いて損した、と首を振る京一。さすがにそこまで言われて杏子がムッとする。

「馬鹿にしないでよッ。あたしだって、いろいろ考えて出した結論なんだからッ」

「――だが、鴉のやり方を模した人間の仕業だとも考えられる」

 醍醐が常識的ともいえる意見を口にし…しかし杏子は得たり、とばかりに表情を改めた。

「そう、あたしの懸念もそこなの。これは明らかに捕食というよりも殺す事を目的としてる。逆に、これをやったのが鴉だとしたら、大変な事になるわ」

「…大変なコト?」

 意図の読めない小蒔が首を傾げ、杏子がそれに答える。

「現在、都心に暮らす鴉はおよそ2万羽…。この鴉たちが、一斉に人間を襲うようになったら…」

 ――空を黒く埋め尽くす鴉の群れが、一斉に舞い降りて街を歩く人々に襲いかかる…そんな情景を想像し、小蒔の顔が蒼ざめた。

「そッ、それは…いくら何でも考えすぎだよ…」

 弱々しく呟く小蒔に、杏子は一言「わからないわよ?」とだけ返した。

「つまり、それを確かめるのに俺たちの力が必要って事か」

 醍醐のまとめに杏子は大きく頷いた。

「そういう事ッ。けど、女の子一人じゃあ、なにかと物騒じゃない?だから、渋谷まで一緒に来てくれないかなァなんて…ねッ」

 お願いッ!と両手を合わせて拝むポーズをする杏子。

「…けどよォ、一つだけ気になるんだがな」

 口を挟んだ京一に他の五人が目を向けた。

「例えば、この事件が本当にカラスの仕業だったとして、カラスは自分たちの意思で人間を襲ってるのか?もしかして…」

 その言葉に杏子と湧の二人が表情を変える。

 杏子はあらかじめ得ていた推論から、そして湧は転校前に遭遇した怪異の記憶から――。

(操る…人を自分の傀儡に変える《力》――――莎草…)

「――相変わらず、アンタってそういうとこは鋭いわねェ…」

 掛け値なしに感嘆した声音で杏子が呟いた。



 鴉を操り、人間を襲わせている何者かの存在――京一と杏子の達した結論はそれだった。

 今の所はまだ推測の域を出るものではないが、もしそんな事の出来る者がいるとすれば…。



「その人は…私たちのような《力》を持った人かもしれない…」

 考え深く言った美里に杏子は頷いた。

「そうね…。そう考えれば、みんなにも無関係とは言えないわよね?」

 恐らくはここまで推理した上で話を持ち込んだだろう杏子の言葉に苦笑しつつ、醍醐も同意する。

「全く、調子のいい事を言ってくれるよ。だが…渋谷はこの新宿と隣り合わせ。いつ他人事でなくなるか判らんのも確かだな」

 渋谷に行ってみるしかないか、と結論付けた醍醐に杏子が喜びの声を上げ――しかし続けられた台詞は、彼女の期待を大きく裏切るものだった。

「――だが、遠野。お前を連れて行くわけにはいかん」

「な、なんでよッ!?これは、あたしが追ってる事件ヤマなのよっ!!」

「…遠野さん、さっきの条件覚えてる?『危険が予想される取材は部員と合意の上で行う事』――悪いけど、俺は部員として今回は部長自らの取材には反対するから」

 “部員として”の所を強調した湧に杏子がうッ、と言葉を詰まらせる。

 嫌なら入部の話は無かった事に…と言外に匂わせている訳で、体の良い脅迫である。

「まァ、そういう事だ。相手の正体が判らない以上、お前を連れて行くのは危険すぎる」

 笑いを噛み殺しながら、醍醐は鹿爪らしく頷いた。と、表情を改め美里と小蒔に目を向ける。

「本当は…美里に桜井、お前たちにも残って欲しいところなんだが…」

「醍醐くん……」

「あのねェ。ここまで来て急に仲間ハズレなんて納得いかないよッ」

 彼女らの反応は予想の内だったのか、醍醐は説得の言葉を探すように暫し口を閉ざした。

「――私…ずっと考えてるの…。私の《力》は一体何なのか…何のためにあるのか…」

「美里……」

 思ったよりも遥かに深刻な美里の声に醍醐が戸惑う。

 いつしか沈黙した全員の視線を集めている事にも気づかず、美里は話し続けた。

「みんなと一緒なら、きっとその答えが見つけられる――そんな気がするの…。足手纏いにならないようにするから…だから、お願い。私も連れて行って…」



 ――実際に無数の鴉に襲われるような状況になったとしたら、「足手纏いにならない」というのはまず無理だろう。

 小蒔の矢も美里の《力》も無限に使い続けられる訳ではない…体術に長けていない彼女たちでは、囲まれでもしたら真っ先に倒されてしまう。

 そうなった時に二人を護りきれる自信は…正直言って、湧にはない。

 しかし――――。

(…だとしても、置いてって誰かが怪我したり死んだりしたら、きっと自分を責めるんだよなあ…二人とも)

 短い付き合いではあるのだが…解ってしまう。

 彼女たちに限らず、ここにいる者は誰かが傷つくのを何もせずに見過ごせる人間ではないのだと。

 自分だけ安全な場所へと逃げて、友人たちにもしもの事があったら…恐らく自分自身を許せないだろう。

 それが解るだけに――――湧はただ、頷くしかなかった。

「…まあ、二人の《力》には俺たちも何度か助けられてるし、いいんじゃないか?その代わり、なるべく慎重に行動するって事で。幸い二人とも、最低限自分の身を護るくらいは出来るわけだし」

 なッ、と醍醐の脇腹を肘で小突くと不承不承だが彼も頷いた。

「あ、ああ…仕方ないな。美里も桜井も、くれぐれも無理はするなよ。遠野もいいな?何か情報を得たら、必ず連絡する」

「ありがとう…湧くん、醍醐くん。大丈夫…そんなに心配しないで」

「ちぇ…わかったわよ。あたしは学校で待機してるわ」

 情報面ではともかく、実戦では足手纏いになる自覚がある杏子も渋々納得した。

 新規部員を失う事を恐れたのかどうかは…問わぬが花だろう。

「――さて、そうすっと…とりあえずどこに行けばいいんだ?」

 結論が出るのを待っていた京一が訊いた。

「そうね、代々木公園へ行ってみてくれる?あそこは元々、都心に暮らす鴉の半数以上が寝床としてるの。最近になって、更に数が増えたっていう噂があるわ」

 話す前から目星を付けていたのだろう、杏子がテキパキ答えた…本当に準備が良い。

 ともあれ、勘定を済ませた湧たちは一路渋谷へと向かう事になった。



「頑張りなさいよッ。――特に石動君!新聞部部員として、しっかり特ダネ掴んで来てよねッ!!」

「ハイハイ、部長殿。行ってきまーす」

「…お前、本気で新聞部やる気かよ…」

 呆れ返ったような京一の呟きは、この際無視する湧だった。





【三、雷獣】



「――うわッとォ!?」「きゃッ!!」

 胸の辺りに衝撃を感じ、湧の視界がいきなり反転した。

 とっさに腕をついて危うく地面とのキスは免れたが…身体の下に柔らかい感触がある。

「…う、ぅん…」

 小さく呻いて身じろぎをしたのは――――小柄な女の子。

「!?ごッ、ごめん!大丈夫か?」

 少女を押し倒していたのに気づき、慌てて起き上がる。

「…ごめんなさい、わたしの方こそボーッとしてて。お怪我はないですか?」

 彼女は柔らかく微笑んで身を起こし…僅かに顔を顰めた。

「痛たた…」

 倒れた時にぶつけたのだろう、腰をさする彼女の目尻には涙が滲んでいる。

「おい、そっちこそ怪我してるんじゃないか?!起きられるか?頭とか打ってないか?」

 何でこんな時に限ってみんないないんだ、などと八つ当たり気味に考えながら少女の華奢な肢体を抱き起こした。

 間近で顔を覗き込むと――湧自身は特に意識しなかったが――その少女はみるみる頬を紅く染めた。

「あの…わたしは、大丈夫ですから」

 恐らく湧と同年代と思われる、栗色の髪をしたその少女は恥ずかしそうに目を伏せた。



 ――――ここは渋谷駅前。

 流行の発信地である渋谷のまさに中心部…らしいのだが、湧にとっては『忠犬ハチ公がある所』ぐらいの認識しかない。

 新宿から電車で移動した湧たちは、この駅で一旦降りて代々木公園まで歩く事にしたのだが…ここの人込みというやつは、地方出身者である湧の想像を遥かに越えていた。

(――みんな、さっさと行きやがって…薄情者)

 歩いている最中にあれこれよそ見をしている方が悪いのだが、それはともかく。

 油断していると人の流れに押されてあらぬ方向へ運ばれそうになる中、他の四人についていくのが精一杯だった湧は変わる信号を急いで渡ろうとし…この少女にぶつかったのだった。



「――本当にごめんなさい。ちょっと考えごとをしていて…」

「ああ、いいよいいよ。俺がよそ見しててぶつかったんだし」

 内心、迷子同然の我が身を情けなく思いつつも、湧は笑って手を振った。

「いいえ、ぼんやりしてたわたしがいけなかったんです。でも、良かった。あなたに怪我がなくて…」

 んなオーバーな…と少女を見返すと、彼女もじっとこちらを見つめている事に気づく。

「…どしたの?俺の顔、何か付いてる?」

「あッ、いえ…。――あの…あの、よかったら…お名前を教えて頂けますか?」

 思い切って、といった感じの彼女の言葉に一瞬湧の思考が止まった。

「…………ナンパ?」

 馬鹿な台詞が口をつき、しまったと思った時には彼女は耳まで真っ赤にして俯いていた。

「いやッ、ごめん今の冗談だからッ!俺は――」

 名前を名乗ると、彼女は「いするぎ、ゆう…さん…」と一音一音噛み締めるように繰り返した。

「…あッ、ごめんなさい。おかしいですよね?初めて会ったはずなのに、何だか――」

 昔…どこかで……、と呟く彼女の姿に湧も記憶を探るが…思い出せない。

 そもそも、湧は最近東京に来たばかりなのだから、『昔の知り合い』がここにいる筈もないのだ。



「――――湧くん……どこなの…?」

 気のせいじゃないか?と言おうとした時、微かに美里の声が聴こえた。

 湧がはぐれたのに気づき戻ってきたのだろう。と、少女もハッと我に返ったように顔を上げた。

「あの、変なこと言ってごめんなさい。それじゃあ…」

 ――――また…会えるといいですね――――

 笑顔でそう言い残すと、彼女は人込みの中へ消えていった。



「――湧くんッ。良かった…。いつの間にか、いなくなっちゃうから…」

 人込みの中からようやく湧の姿を見つけ、美里は近づいて声をかけた。

 彼は美里に背を向けたまま立ち尽くし、振り返ろうともしない。

「…どうかしたの?」

 知り合いにでも遭ったのだろうか?そう思い、もう一度呼びかける。

「――――いや…なんでもない」

 冷たく響いたその声に、美里は表情を凍らせた。

「湧、くん…?」

 彼であって、彼ではないその声音――――“刹那”。



 ――――行ッテシマウ…ドコカ、遠クヘ…。



 言い知れぬ不安に駆られ、美里は思わず彼の制服の袖を掴み、引いた。

「……?どうしたんだ、美里?」

 振り向いた顔にきょとん、とした色を浮かべて、普段通りの黒い瞳が彼女を見ていた。

「あ…ううん。みんな、待ってるから…行きましょう?」

 強張った表情を微笑みで取り繕うと、美里は湧を促した。

(気のせいね……きっと)

 そう思いながらも、彼女は湧の腕を離せずにいた――。





「――もうッ!石動クンッ、どこ行ってたんだよッ」

 他の三人に追いつくと、開口一番小蒔に怒られた。

「…美里ォ、桜井ってば俺を捨てて先に行ったくせにあんな事言うんだよォッ」

 よよよ、と泣き崩れる真似をする湧。

「だッ、誰が誰を捨てたんだよッ!?」

「まァまァ、いいじゃねェか。それより醍醐、さっきの話――――」



 京一に促され、醍醐は裏密の予言について考えた事を話し始めた。彼女を苦手とはしていても、その能力には彼自身一目も二目も置いている。

「…『禽』っていうのは、もしかして鴉の事を指しているんじゃないかと思うんだ」

「もしくは、カラスを操っている誰か…のことだよね?そうすると…『獣』っていうのは一体、なんのことだろ」

 これも人を指すのかなァ?と言った小蒔に醍醐が頷く。

「そうだな…その可能性もある。誰かが既に、この事件に関わってるのは間違いなさそうだ」

 『獣』と『禽』…少なくとも二つの勢力が絡んでいる、と考えて良いのだろうか?

 これだけではまだ何とも言えないが、『禽=鴉』を敵と仮定して『獣』がその対立者ならば――。

「ボクたちに協力してくれるような人だったらいいね」

「そうだな…」

 楽天的な小蒔の発言に頷きつつも、醍醐は不安の色を隠せない。

 何もかもが、まだ仮定の話でしかないのだ。裏密の予言にしても、杏子の推理にしても…。

(協力…しないだけならまだ良い。だが、そいつがもし敵に回ったら…?)

 こんな時、悪い方にばかり考えてしまう自分を苦々しく感じながら、醍醐が思考の深みに嵌りかけたその時――――。



「――きゃあああぁぁぁぁッ!!」



「今のは…ッ!?」

「どっちから聴こえた…って、京一?」

 醍醐が顔を上げ、湧が見回す…と、京一が眼光鋭く宙の一点を見つめていた。

「聴こえた…聴こえたぜッ。俺の耳にはハッキリと…」

 言うなり、ギュンッと擬音が付きそうな勢いで駆け出す。

「――お姉ちゃんが助けを求める声がなあぁぁぁッ!!」

 ドップラー効果を残して走り去る京一に、湧は追いかける事も忘れて呟いた。

「さすが…好色バカ一代…」

「馬鹿なコトいってないで、ボクたちも行こうッ!」

「みんな、あそこの路地の方よッ」





「――助けてッ、誰かッ!!」

 先刻より確かに声は近くなったものの、入り組んだ路地のためにそれらしい姿は見えない。

「ハァ、ハァ、一体、どこに…」

 瞬発力はあるものの持久力に欠ける京一は、早くも息を切らせている。

 おかげで他の四人も追いつけたが…このままでは、手遅れになりかねない。



「――おいッ、あンたらッ!!」

 不意に上の方から男の声が聴こえた。

 湧たちが振り仰ぐと、どうやって登ったのか路地の塀の上に、金髪を逆立てた派手な印象の少年が立っていた。

「レディが助けを求めてンだ。その気あンなら、手ェ貸しなッ!!」

 赤い十字架の意匠を施した学生服、携えている布で包んだ長い棒は…武器だろうか?

「てめェ…」

「キミは、いったい…?」

 京一や小蒔が訊くのに構わず、金髪の少年は先ほど悲鳴が聴こえた方を見ると、表情を引き締めた。

「早く助けねェとレディが危ねェ…先に行くぜッ!!」

 言い捨てるが早いか、彼は跳躍した。

「――んなッ!?」「スゴ…」

 唖然とする一同…今の少年は、助走もつけずに数メートル先の塀まで“跳んだ”のだ。

 着地するや否や、再び跳ぶと路地の向こうへ消えた――――常識外れの跳躍力である。

「人間離れ…なんてもんじゃないな。あれがあいつの《力》なのか?」

「感心してる場合かッ!多分あそこに襲われてる人がいるんだ、行くぞッ!!」

 醍醐に叱咤され、湧たちは少年を追って走り出した。



「――助けてッ、誰かッ!!」

 彼女は助けを呼びながら、死に物狂いで抵抗していた。

 周囲を飛び回る無数の黒い翼…鴉の群れ。

 それらが明確な殺意を持って襲ってくる――信じ難い事だったが、これで三度目とあっては疑う余地もない。

 以前襲われた時には、幸運にもそれぞれ救いの手が入ったが……。

「…あうッ!?」

 手の甲に激痛が疾り、彼女は盾代わりのカメラバッグを取り落とした。

 思わず顔を庇った腕に鋭い爪が食い込み、数条の深い傷を残す。

 ふくらはぎに嘴が突き刺さった。肩、背中、腕、首筋――――たまらず据わりこんだ彼女を容赦なく啄ばむ鴉たち。

 一連の猟奇殺人による被害者の惨状が脳裏に浮かぶ。

 目を抉ろうと正面から突っ込んでくる鴉を見つめ、彼女は今度こそ『死』を意識した。



「――でぇやァァァッ!!」

 救い主は、閃光を伴い降って来た――――まるで雷そのもののように。

 紫電を纏った少年の槍が、女性を襲おうとした鴉を真上から地面に縫い止めた。

「あなたは…!」

 彼女はその少年に見覚えがあった。

 金髪の少年は彼女を見て一瞬意外そうな顔をしたが、

「…そのまましゃがんでなッ!――旋風輪ッ!!」

 槍を一閃すると、群がっていた鴉たちを吹き飛ばす。

「――いたぞ、こっちだッ!」「よっしゃあッ、行くぜッ!!」

 今度は路地の向こうから、高校生らしき五人の男女が駆けて来た。



(私……夢でも見ているのかしら…?)

 呆然と呟く…命が助かっただけでも信じられないのに、現れた少年たちは揃いも揃って超常的な力を駆使し、鴉たちを次々に屠っているのだ。

「ひどい怪我だわ…待ってて、すぐに治しますから」

 長い黒髪の少女がそう言って彼女に手を触れると、暖かい光が身体を包み込んだ。

 痛みが和らぎ、みるみる傷が塞がっていく――その光景をぼんやりと眺めながら、彼女はようやくこれが現実なのだと実感していた。

「――派手にいくぜッ!…ラァイトニングゥ・ボルトォッ!!」

 その時、金髪の少年が振るった槍から眩い電光が迸り、最後の鴉を撃ち落とした。



「…どうやら、片付いたようだな」

「あァ。ところで……お前、いったい何モンだ?」

 ――闘い終わって。醍醐が服の埃をはたき、京一が金髪の少年を胡散臭げに見やった。

「オレ様は、雨紋雷人うもん らいと。ただの通りすがりの正義の味方さ。そんな事より…」

 雨紋と名乗った少年は治療を終えたスーツ姿の女性に目を向け、呆れ顔で話し掛ける。

「…あンたも、懲りない人だな。ホント、いい根性してるぜ」

 その女性はもうすっかり落ち着いたらしく、立ち上がると笑みさえ浮かべて見せた。

 活動的な雰囲気のショートカットが似合う美人の微笑みに、京一が思わず相好を崩す。

「フフッ、あなたに助けてもらうのはこれで二度目ね。ありがとう、雨紋くん」

 あなたたちも、ありがとう…彼女はそう言って取り出した名詞を湧たちに手渡した。

天野絵莉あまの えり…さん。新聞社の方なんですか?」

「以前は、ね。今はフリーランスのルポライターよ」

「ルポライター…って事は、もしかして何かを調べてる途中かい?」

「まァ、そんなところね…」

 美里や京一の質問に答える天野。と、雨紋が溜息をついた。

「ヤレヤレ…。もう、この事件からは手を引いた方が身のためだ。オレ様も、これ以上は面倒みきれないぜ」

「“この事件”って…もしかして、カラスのこと!?」

 小蒔の言葉にしまった、という顔で黙り込む雨紋。

「ボクたち、これから代々木公園に行こうと思ってたんだけど――」

「桜井ッ!!」

「え?あッ…」

 ポロッと口を滑らせた小蒔に醍醐の叱責が飛んだ…が、既に遅し。

「代々木公園って…今、あそこがどんな状況かわかってンのか!?」

 …事ここに至ってはとぼけても仕方ない。

 湧たちは『鴉による連続猟奇殺人』の調査に来た事を告げた――――開き直った、とも言う。



「――あンたら、自分が何を言ってるかワカってンのかよ?カラスが人を襲って殺すなンて、ありえないぜ」

「それを言うなら、バッタみたいなジャンプ力があって槍から電撃飛ばす奴だって“いる訳ない”だろ?」

 あれだけの《力》を見せといて何を今更、と湧が混ぜ返し、雨紋は言葉に詰まった。

「…あの鴉たちは、明らかに殺意を持っていた。それに、さっき鴉以外に感じた気配は――」

「あァ…。あんな“氣”を発する奴は、少なくとも正気マトモじゃねェ」

「あ、やっぱり二人とも感じてたんだ?」

 武道家として気配を察する事に長けた男三人が口々に言うと、雨紋がそれに反応した。

「氣……だと?」

「ああ、《念》…とでも言えるか」

 醍醐が答える――鴉たちの放つ殺気に混じって、もっと強い感情…憎しみ、嫌悪、蔑みなどの《負の思念》とでも言うべきものを感じていたのだ。

 もっとも、そんなものを感じ取れる人間などそうはいない――現に天野や小蒔は怪訝な顔をしている――が、どうやら雨紋も同じものを感じていたらしく、表情を改めた。

「…どうやら、ダテや酔狂で言ってるワケじゃねェようだな。だが……代々木公園は今、スゲエ数のカラスに占領されてて入るどこじゃない」

 ハンパな気持ちなら、やめとくンだな――その言葉に、見くびられたと感じた京一が険悪な声を出す。

「なんだとォ…?」

「待て、京一。…雨紋とかいったな、俺たちの話も聞いてくれ。俺たちはお前と争う気はない。――俺の名は、醍醐雄矢。新宿真神学園の三年だ」

 醍醐が名乗ると、雨紋は驚きの色を浮かべた。

「へェ……あンたが『真神の醍醐』かい」

「知っててもらって、光栄だな」



 湧がちょいちょい、と京一の袖を引っ張る。

「(なァ…ひょっとして醍醐の奴、有名人?)」

「(転校したばっかじゃ知らねェか。『真神の醍醐』っていったら、新宿界隈じゃ有名だぜ?木刀持った俺と互角に闘り合うなんざ、あいつくらいのモンだからな)」

 ちなみに俺は『超神速の木刀使い』で『新宿一のイイ男』だけどなッ、と胸を張る京一をサラリと無視して湧は呟く。

「(…という事は、醍醐に勝った俺はお前よりも強い、と)」

「(……言うじゃねェか。きっちりアバラ折られてたくせによ)」

「(黙れサル。勝ちは勝ちだ)」

 ひそひそと言い合う二人をよそに、雨紋との会話は続く。

「――そういや、この前も真神おたくのヤツがウチの高校のヤツと揉めてたって話を聞いたが…あンたたちの知り合いかい?」

「佐久間の事か…。すまん…迷惑をかけたようだな」

 頭を下げる醍醐に雨紋はカラリとした笑みを向けた。

「なァに、喧嘩なンてお互い様さ。どっちが悪いってワケでもねぇよ」

「はははッ、話がわかるな」

「へへへッ」

 笑い合う二人を見て、美里と小蒔も囁き合う。

「雨紋くんって、いい人みたいね。仲良くなれそうで、良かったわ」

「ホントだよね、石動クンも京一も少しは見習ったら?」

「「誰がこんなヤツとッ!」」

 …しっかりと息が合っている辺り、仲が良いのか悪いのか。

 それはともかく、雨紋は渋谷区神代かみしろ高校の二年生で、当然渋谷には詳しいらしい。

 そう聞いた醍醐が「俺たちに力を貸してくれないか?」と頼んだ。

「なッ…なんで、オレ様があンたたちに…」

「俺が見たところ、あながち違う目的とは思えんが…違うか?」

 雨紋は黙り込んだ。その顔には何やら葛藤の色が見え隠れする…別の目的でもあるのだろうか?



「――クックック…その通りだろう、雨紋?」

 答えは、別の方から来た。突然聴こえた若い男の声に、雨紋が表情を険しくする。

唐栖からす…ッ!!」

 ――――ィィィィィィィィン――――

 声の主を探そうとした時、細く鋭い金属音を思わせる音が一帯に響き渡る。

 耳を貫き、脳を掻き回すかのような不快な音波に、湧たちは思わず耳を塞いだ。

「ククク…。僕や奴の他にも《力》を持った人間がいたとは…いささか計算外だったよ」

「なッ、なに、この音ッ!?」

「くッ、耳鳴りがする…」

 小蒔や京一が呻く…それだけではない。全員の視界が急速に暗くなり、何も見えなくなっていた。

「…何者だッ、姿を見せろッ!!」

 醍醐の怒号に、フッと音がやんだ。

「――僕の名は、唐栖…唐栖亮一りょういち…」

 音はやんだものの、視界はまだ回復しない。湧は耳を澄ませ、声の聴こえる方向を探ろうとした。

「あなた…あなたは一体、何者なの?」

 天野の問いかけに、唐栖はくぐもった笑い声を洩らす。

「あなたは…無事だったんですか、残念だ。あなたを十人目の犠牲者にしてあげようと思っていたのに」

「あなたが……カラスを使ってやったの?」

 信じ難い、という思いを滲ませた彼女の言葉に、唐栖は小馬鹿にした口調で肯定を返す。

「だとしたら、どうします?記事にしてみますか?クックッ…したければ、どうぞ…どうせ、誰も信じはしない」

(この声は…上から?空でも飛んでるってのか…?)

 唐栖の声は、無数の鳥――恐らくは鴉――の羽ばたきの中から聴こえた。

 だからといって、正確な位置も判らない現状では手の出しようもなかったが。

「貴様ッ、いったい何が目的なんだッ!!」

 苛立ち、声を荒げた醍醐を見下すように、嗤って答える唐栖。

「クククッ…地上を這いずる虫螻に、神の意志が理解できる筈もない」

「神の意志…だとッ?」

「そう…僕に、この素晴らしい《力》を授けてくれた神さ。鴉の王たる《力》を授けてくれた…ね」

 

 ――――神に授けられた《力》…そのフレーズが湧の記憶を刺激する。

 かつて、神の《力》を手に入れたと嘯いた少年がいた。

 より強い《力》を求めたばかりに人でいられなくなり、湧に…刹那に斃され破滅した少年――――莎草。

 彼の《力》もまた、他の存在を操るものだった――人と鴉の違いこそあれ。

(……いや…?)

 違和感が生じた。

 莎草に操られていた少年たちと唐栖が操っていた鴉…何かが、決定的に違う気がする。

(人と鴉が違うのは当たり前だけど…そうじゃない、もっと…何かが…)

 更に記憶を探る――浮かぶのは操られた少年たちの恐怖に歪んだ表情…そして先刻の、瞳にまで殺意を漲らせた鴉たち。

 まるで、唐栖の持つ人間への憎悪をそのまま映したように。

(――――心、か…?)

 “刹那”の記憶によれば、莎草の《力》は自分の《氣》を不可視の糸として相手に投射し、肉体の制御を奪うもの…だったらしい。

 当然相手の意識まで奪える訳ではなく、操られた者たちも人形のようにぎこちない動きしか出来なくなっていた。

 だが、先刻の鴉たちは斃されるまでいつまでも執拗に襲い掛かってきた――それが、自分の意志であるかのように。

(けど…だとすると、どうなるんだ…?)



 湧の思考を遮るように、唐栖の声が響く。

「――雨紋も、仲間ができて良かったじゃないか。それだけの数なら、僕を倒せるかもしれないよ…」

「テメェ…」

「僕は逃げも隠れもしない。待ってるよ……僕の城で――――」

 羽音と共に唐栖の嘲笑も遠ざかり…やがて、全く聴こえなくなったところで湧たちの視力が回復した。

「ちくしょーッ!出てきやがれッ!!」

「…無駄だよ、京一。もう近くにはいない」

「どうやら、かなり普通じゃないのが出てきたな。これから、どうすべきか…」

 考え込む醍醐に京一が苛々と声を上げる。

「そんなの決まってんだろッ!?あんなイカレタ野郎、野放しにしておけるはずがねェ。乗り込んでブチのめすしかねェだろッ!!」

「でもさ…あのコが言ってた『僕の城』って…どこ?」

「多分…代々木公園、じゃないかしら…」

 美里の言葉に湧と醍醐が頷く。杏子に聞いた情報からも、そう考えるのが妥当だろう。

「……遠野には悪いが、ここは俺たちで片をつけるべきかもしれんな」

 暫し腕を組み熟考していた醍醐が言った。反対する者は誰もいない。

(…ごめん、遠野さん。何とか記事のネタだけは拾ってくるから…)

 湧は心の中で手を合わせた――今から杏子の怒る顔が目に浮かぶようだ。



「――あなたたちは…一体……?」

 五人の様子を見ていた天野が声をかけた。高校生がこの猟奇殺人事件を解決すると言っているのだから無理もない。

「私たちは、ただ…私たちなりに東京を――この街を護りたいと思っているんです」

 控えめに、しかし強い意志を込めた美里の言葉に雨紋が口笛を鳴らす。

「あンた、いいコト言うねェ」

「で、でもあなたたちは高校生でしょ?そういうのは警察や大人たちの――」

「子供が…と思われるかもしれませんが……みんな、友達や愛する人の住む街を護りたいと思う気持ちは同じだと思います…」

 あくまで穏やかに言い切る美里だが、天野自身感じる所があったのか口を閉ざした。

「私たちの《力》だって、そのためにあるような気がするんです…」

 暫し無言でいた天野は、やがてフウッと息を吐くと穏やかに微笑んだ。

「…まったく、最近の高校生には驚かされるわ。わたしも年をとるワケね」

「へへへッ、ダテに修羅場はくぐり抜けてねェからね」

 京一の茶々に明るく笑うと、彼女は真摯な眼差しになって言った。

「私には、あなたたちみたいに身体を張って闘うことは無理だけど…代わりに、私の持ってる情報を提供させてもらえないかしら?」

「真神学園新聞部部員として、プロのジャーナリストのご意見、ありがたく拝聴します」

「もうッ!調子いいなあ、石動クンもッ」

 小蒔のつっこみにドッと笑いが起こった。





「――じゃあ、気を付けて…また、会いましょう」

 六人に見送られ、天野は帰っていった。

「……ルポライターはあくまで仕事ビジネス…か」

 スーツの後ろ姿を見ながら、湧は呟いた。

 記事に出来ない事件をいつまでも追ってる訳にはいかない、それに悔しいけれど自分の手に負える事件でもない――残念そうに、けれど未練はない様子で彼女は事件から手を引いた。

 どこまで本音かは判らないが、あれがプロというものか、と思う。

 杏子に比べるとずいぶん引き際がいいが…経験の差、という奴だろうか?

「結構イイ女だったなァ…なァ、湧?」

「ああ…さすがにプロの記者ってのは心構えから違うんだな」

 質問の意図とは90度ばかりズレた答えを返され、京一が鼻白む。

「…なんか、お前と女の話しても張り合いがねェなあ」

 ん?と全く理解していない湧が顔を上げた。

「ほんっとに!京一の頭の中には、お姉ちゃんのことしかないんじゃないの?!」

「失礼なヤツだな、他のコトだって考えてるよッ!」

「なにをさッ?言ってみなよッ」

 …が、いつの間にか小蒔と京一の言い合いになってしまったようで、湧はやれやれと溜息をつきながら再び思考に入った。

(に、しても…鴉イコール堕天使、ねえ…?)

 天野から得た新しい情報がそれだった――世界各地の神話に見られる鴉の伝承。

 昔、神の遣いだった鴉たちは、多くの神話で後にその座を追われている。

 かの有名な熾天使ルシフェルも、やがて天界を追われ魔王となった。

 黒く染まりし、裏切りの翼――――人を憎悪し、堕落へと誘う存在。

(なーんて……ちょっと格好つけすぎじゃないか?)

 確かにあのキザったらしい口調は『そーゆーの』を狙っていそうだけど…と思わず苦笑する湧だった。



 ……しかし。

 果たしてそれだけで、あれほどの強い《念》が生ずるものだろうか?

 だが、この時点では核心に至る材料もなく、湧の思考はどこまでも逸れていくのである…。





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