【四、鴉の王】



『――あの、唐栖って子が何を考えてるのかは解らないけど…あの口ぶりからして、単なる快楽殺人でないのは確かね。彼は彼なりの正義のもとに行動しているんだと思うわ』



 ――――代々木公園内にて。

 湧はふと横目で雨紋の顔を見やった。

(ヤツなりの正義…か。こいつは、それを知っているんだろうか?)

 唐栖を倒すまでの共同戦線ということで、彼は湧たちと共に来てくれた。

 だが実の所、雨紋自身は唐栖を敵とみなしていないような印象を受けた。

 別段、湧たちに対して含むものがあるとは考えていないが…。



「…うっひょーッ、ウワサどおり、すげェカラスの数だな」

「なんか、怖い…前に来た時は、こんな雰囲気じゃなかったのに…」

 京一と小蒔が声をあげた…確かに公園中の木にびっしりと鴉が留まっている光景というのは、見ていて気持ちの良いものではない。

 その上――。

「この氣は、ただ事じゃないな…」

「空気が、憎しみと憤りに溢れてる……園内に人はいないのかしら?全然気配がしないけれど…」

 園内に入ってからずっと感じる不快な《氣》に、醍醐や美里も不安を隠せずにいた。

「あいつがここに来るまでは、こんなじゃなかったが…ウワサだと、入ったヤツが何人か出てこないらしい」

 ぶっきらぼうな雨紋の答えに、小蒔の顔が蒼ざめる。

「それって、もしかしてカラスに…」

「かもしれねェな。オレ様も出来るだけ人を近づけないようにしてきたけど、それでも面白半分、肝試し半分で入り込むヤツが後を絶たないのさ」

 ひょいッ、と肩を竦める仕草とは裏腹に、彼の口調には苦いものが混じっていた。

「とにかく…これ以上、関係ねェ人間が死ぬのを見ンのはゴメンだ」

「優しいのね…雨紋くん」

 美里の言葉に、しかし雨紋は「そんなんじゃねェ」と首を振った。

「オレ様はただ…自分の生まれ育ったこの街を、この手で護りたかった。…ただ、それだけさ」



(――ここに来てる連中は、きっとみんな同じ気持ちだよ…雨紋)

 湧は無意識のうちに笑みをこぼしていた。

 大切にしたい何かのために、自分に出来る事をやろうとする気持ちは誰も一緒なのだと。

 ……けれど。

 不意に笑みを曇らせた湧は、仲間たちから顔を背けた――表情を隠すために。

(…俺が今、護りたいものは……何だろう?)

 この街で、自分は異邦人――――自分だけが、彼らの中で強い動機を持っていない。

 目的を見失ったような不安感が、湧の心にさざなみを立てる。



 ――――今の自分に、闘う資格があるのだろうか?――――





 天高く聳えるバベルの塔は、神の怒りに触れて粉々に砕かれたという。

 目前に建つ骨組みだけの鉄塔は、さながら古に朽ちた塔の屍を想起させた。

「…これも、奴の趣味ってワケか?」

 湧はげんなりと呟いた。

 カラス騒ぎで工事が中断された、鉄骨の塔――雨紋によれば、唐栖はここにいるのだという。

「うわー……なんか、イッパイ飛んでるよ…」

 ここまでくると恐怖も麻痺したのか、小蒔はただ呆然と周囲を見回した。

 木々や鉄塔に所狭しと留まっている鴉たち…その上留まりきれなかったものは、幾つかの群れをなして上空を飛び回っている。

 あれが一斉に襲い掛かってきたら――想像したくもない。

「今のところ、襲ってくる気配はないようだが…あの唐栖とかいう奴が命令しているのか?」

「あァ…。ヤツは、この上にいる。いつも高みから、偉そうに地上を見下ろしてンのさ」

 醍醐の問いに雨紋は頷き、厳しい目で塔を見上げた。

「足を踏み外せば、一巻の終わり…か」

 実際に闘う状況を想定してみた醍醐が難しい表情で腕を組む。

 要所に足場としての鉄板が渡してあるとはいえ、大部分は細い鉄骨なのが下から見ても判る。

 ただでさえ足元が不安定な場所で、相手は自由に空を飛べる無数の鴉たち――状況としては不利な事この上ない。

「なァに、心配する事ないって。下見なきゃイイのさ」

「そういう問題かよッ!」

 無茶な事を言った雨紋に京一がつっこむ。二人のやり取りに醍醐は肩の力を抜いた。

 …どっちみち、決着をつけるには登るしかないのだ。ここで延々考え込んでも仕方がない――そういう事なのだろう。

「ま、それはさておき…どうする?引き返すンなら、今のウチだぜ?」

 そう雨紋に訊かれ、醍醐は女性陣に目を向けた。

「そうだな…。美里、桜井……本当に、大丈夫か?」

「もうッ、くどいッ!女にだって二言はないのッ!!」

 足手纏い扱いされたように感じられたのだろう、小蒔は本気で憤慨した。

「桜井…」

「まったくッ、醍醐クンは余計な心配し過ぎなんだよッ!」

「小蒔ったら…醍醐くんは、私たちのことを本当に心配してくれてるんだもの」

 宥める美里にも不満を隠さず、小蒔は湧に話を向ける。

「だって…ボクたち、なんだか全然信用されてないみたいじゃないか。ね、石動クンもそう思うだろ?」

 よほど悔しかったのか涙さえ滲ませる小蒔を見ていられず、湧は視線を塔へと逸らした。

「……塔の上って…風、強いよな」

 ポツリ、とこの場に関係なさそうな事を言った湧に、全員が怪訝な表情をした。

「強い風…そしてセーラー服。京一、お前はこの二つの単語から何を連想する?」

「へへッ、そりゃあ決まってるぜッ。風で捲れるスカート、中から覗くお姉ちゃんのパン――」

 …京一がみなまで言うよりも早く、重低音が二回響いた。



「――ゴメン、醍醐クン。さっきはボク、変なコト言って…」

「いや、俺の方こそ心配していたつもりが、余計な気を使わせてしまった…すまん」

 殊勝に謝りあう二人。微笑ましい光景ではある――足元に横たわる二つの物体さえなければ。

「京一くん、石動くん……頑張ってね…」

 ひゅるりらと風が吹き抜ける中、美里の祈りが静かに続く。

「あンたら…いつもこんなコトやってンのか……?」

 雨紋の問いに応える者は……とりあえず、いなかった。





 ――――鉄塔内部にて。

 作業用の狭い階段を鴉たちに警戒して上りながら、京一はふと雨紋に話し掛けた。

「なァ…そろそろ話してくれてもイイんじゃねェか?お前、あの唐栖って奴と知り合いだろ?」

 それは他の面々も感じていたので、湧たちは黙って答えを待った。

 暫し無言でいた雨紋は、ゆっくりと重い口を開いた。

「ヤツは…唐栖亮一は、初めからあァだったワケじゃないンだ…」



 二ヶ月前、神代高校に来た転校生…それが唐栖だった。

 転校間もない事と狷介な性格ゆえに、学校でも孤立しがちだった彼…その数少ない友人が雨紋だったのだという。

「そのヤツが、あの日――」



『――――雨紋……君は、神の存在を信じるかい?
 神は、等しく生きとし生けるものを創ったというけど、あれは間違いさ…。
 …神が創り出したのは、二種類の人間だよ。
 《力持つ者》と《持たざる者》…人は、生まれながらにして、その資格を定められている。
 ……クックッ…そして、僕は選ばれた…。神たる《力》をもつ者に――――』



 ギリ、と奥歯を噛み締める。

 あの日…あの時から、雨紋は友人と袂を分かち、その暴挙を止めようと闘い続けて来たのだ…。

(――いや…結局オレ様は、今までヤツを止められなかった。けど、今度こそは…)



「それが…一ヶ月前?奴はそれからずっと鴉を操って人を殺し続けてるのか?」

 なんで、そんなまどろっこしい真似を…と考える湧の脳裏に一つの仮説が浮かんだ。

 もしも唐栖の《力》が、自分たちのそれと同質の物だとすると…?



「…ちッ。何だか今年になってから、ワケのわからねェことが立て続けに起こりやがる」

 話を聞き終えて、京一が揶揄するように言った。

「人間をカラスの餌にしたがる奴はいるわ、旧校舎でおかしなコトに巻き込まれるわ…変な技を持った男は転校してくるわ…なァ、湧?」

「こらッ、京一ッ!石動クンに失礼だろッ!?」

 …京一自身は軽い冗談のつもりだったかもしれない。

 しかし、その言葉に表情を強張らせた者が一人いた――――醍醐が。

(――確かに、偶然にしてはあまりにも…だが、まさか……?)

 知らず、湧に視線が向く――彼は皆から顔を背けるように立っていた。

 湧の肩がぴくりと震えた。やがて彼は――――嗤い出す。

「……クックック…鋭いじゃないか、蓬莱寺京一…」

 唐栖のそれとよく似た、陰鬱な篭った嗤い声に全員の動きが止まる。

「…湧くん…?」

「石動クン…ど、どうしちゃったの?」

「湧……嘘だろ…?」

 不審の目を向ける仲間に構わず、湧は嘲るような口調で話し続ける。

「――――何故、俺がこんな時期に転校してきたと思う?
 二年間真神にいて何もなかったお前らが、突然《力》に目醒めたのはどうしてだ?
 俺たちが行く先々で怪異に出遭う、その理由は――――」

「湧ッ、てめェッ!?」

 激昂した京一は湧の胸倉を掴み上げ……呆気に取られた。

「――俺が知るワケないだろ?ばーか」

 …謎多き転校生は、満面の笑みを浮かべてのたまった。



「石動クンの…馬鹿馬鹿馬鹿ァッ!!!!」

「この…ッ、てめェがそういう事するとシャレにならねェんだよッ!!」

「ちょッ、待てッ!二人ともタンマッ!」

「湧くん…今のは、いくら何でも良くないと思うわ…」

 京一と小蒔、二人がかりでお仕置きされる湧の姿に、醍醐はぐったりと溜息をついた。

「醍醐サン……あンたも、大変だな…」

「言わんでくれ……」

 ドッと疲れを感じて傍の鉄骨に寄りかかる――こんな事をしている場合ではないのだが。

(そんなはずはない、か…。信じていいんだな?湧……)

 醍醐の口元には、僅かに安堵の笑みが――限りなく苦笑に近かったが――浮かんでいた。



(――ホント…鋭いよ、京一おまえ……)

 京一に締め上げられながら、湧は内心で呟いた。

 先ほどの言葉は、実のところ湧自身が抱いていた疑問でもあった。

 そういう意味では嘘はついていない――ただ、言っていない事実があるだけ。

 自分が転校してきた本当の経緯…それを明かす事は即ち、自分の罪を彼らに教える事。

 かつて、自分の意志で一人の人間を破滅に追いやった事実。

(…知られたら、やりにくいもんな…)

 我ながら“正直”な事だと自嘲する湧…だが、彼は気づいていない。

 彼らに知られたくない理由が、他にもある事に。

 自身の心の変化を湧が知るのは――――まだ、暫くは先の事だった。





 やがて最上階へたどり着くと、唐栖は宣言どおりそこにいた。

 階段から離れた位置にある広い足場で、無数の鴉を下僕のように従えている。

「――――遅かったね…待っていたよ。ずいぶんと楽しそうだったけれど……」

「ケッ…観察してたってワケかよ、悪趣味な野郎だぜ。こんな高い場所から見下ろしてりゃ、さぞやイイ気分だろうな」

 京一の皮肉にも冷ややかな笑みを崩さず、唐栖は語り始める。

「クックックッ…もちろんだよ。ここからは、この汚れた世界がよく見渡せる。
 神の地を冒涜せんと、高く伸びる高層ビル…汚染された水と大気…。
 そして、その中を蛆虫の如く醜く蠢く人間たち…奴らは愚かで穢れた存在なんだ…。
 もはや人間という生き物に、この地で生きる価値はない……」

「…だから、鴉たちに人を殺させてたってのか?一人一人…地道なこったな」

 湧が挑発的に言い放った――実のところ、確かめたい事があったからだが。

「その通り…だが、それももう終わりさ。僕はもうすぐ、ここから飛び立つ。鴉たちを率いて、人間を狩るためにね…」

 ――今の台詞で、湧は自分の推測が正しい事を確信した。もっとも、それは決して芳しいものではない。

「勝手なこと言うなよッ!そういうキミだって人間じゃないかッ!!なのに――」

 頭に血を上らせた小蒔の言葉に、唐栖はさも心外だという顔をして見せた。

「僕が?君たちと同じ人間だって!?クックッ…冗談じゃないね。僕は、神に選ばれた存在なんだ。愚かな人間たちを裁くために、ね…」

「…冗談もほどほどにしなッ、唐栖ッ!」

 堪りかねて雨紋が叫ぶ…だが唐栖はかつての友人にさえ、軽蔑しきった眼差しを向けた。

「選ばれた証の《力》を持ちながら、この僕を裏切った…君などにもう用はない。僕が逢いたかったのは……君だよ、美里葵…」

「なぜ、私の名前を…?」

 鴉たちが教えてくれた、と答えて唐栖は陶酔した笑みを浮かべる。

「僕たちの《力》は、この東京を浄化するために神から与えられたものだ。そして…君のその美しい姿は、この不浄の街に降り立つ僕の傍らにこそ相応しい…」

 さあ、と誘うように手を差し出す…が、美里はゆっくりと首を横に振った。

「私は…私は、あなたとは行けません」

「…なぜだい?どうせ彼らはすぐに死ぬんだ…僕の可愛い鴉たちに喰い尽くされてね。何も悩む事なんてない筈だろう?さあ……」

「――行きません」

 美里はきっぱりと撥ね付けた。手を止めた唐栖に向かって静かに語りかける。

「ここにいるみんなは、私の大切な…仲間だから。
 それに、私は信じています。人間の持つ、優しい心を。誰かを愛し、護ろうとする力を。
 もしも…あなたがみんなに危害を加えるというのなら、私は……」

 彼女の言葉はくぐもった笑い声によって遮られた。

「クックッ…大切なもの、だって?そんな事のために僕の誘いを断るのかい?くだらない…」

 唐栖の嗤いは徐々にヒステリックな調子を帯びていき…そして、彼の身体から緋い《氣》が立ちのぼる。

「そんなもの…僕が手に入れたこの《力》の前では塵に等しい」

 カッと見開いた唐栖の瞳――そこに宿る狂気は、既に尋常な人間のそれではありえなかった。

「わかったよ…僕を拒む奴らは、みんな死んでしまえばいいさ。君も、雨紋も、お前らもみんな……お前らの信じる希望ってやつと一緒に死ぬがいい…」

 唐栖の《氣》が一瞬大きく膨れ上がり、それに応えるように周囲の鴉たちが羽音も高く湧たちに襲いかかった。



「――みんな避けろォッ!!」

 上空から十数羽の鴉が突っ込んできたため、湧たちは大きく左右に跳んだ。

 湧・京一・雨紋は左へ、醍醐は美里と小蒔を抱えて右へ。

 初撃は回避できたとはいえ、戦力を二分する形になってしまった。

「…みんな、唐栖の狙いが判ったッ!」

 湧の叫びに全員が目を向ける。

「奴の《力》も俺たちと同じ…成長するんだ!自分の《力》を高めるために、奴は俺たちを練習台にする気だッ!」



 ――気づいてみれば、簡単な事だった。

 選ばれし者だ何だと言い出した辺りで、彼の目的が人間を滅ぼすかそれに近い事だろうとは想像できた。

 それにしては、彼のやり方では効率が悪過ぎるだろうとも思ったが…恐らく初めのうちは、唐栖の《力》はさほど強いものではなかったのだ。

 だからこそ一人ずつ殺していくなどという手間をかけていた――――《力》を使いこなすための“練習”として。

 湧たちが旧校舎の闘いでより強力な《力》を身につけたように、一般人をただ殺すよりも同じ《力ある者》を斃す方がより強い《力》を得られる…そう考えたのだろう。

 そしてここは、唐栖の《力》が最も有効に作用する場所だった。



「奴を逃がすなッ、ここで俺たちが負けるか奴が逃げ延びたら…次は東京中の鴉が人間に襲い掛かるぞッ!!」

 不利になっても逃げる事は出来ない、勝てたとしても逃げられてしまえば意味がない…予想よりも厳しかった現実が、彼らに一層の緊張をもたらした。

「クックッ…今更気づいても遅いよ。君たちはここで…死ぬんだから!」

 そう言って唐栖が取り出した笛を吹き鳴らすと、塔に留まっていた鴉たちも獲物を目指して一斉に飛び立った。



「――ハァッ!!」

 小蒔の《嚆矢》が鴉の群れを貫く。射線上の鴉が次々に失速し落ちていくが…。

「…だめッ、効かないッ!?」

 全体数が多すぎるのだ…4羽や5羽落としても『焼け石に水』でしかない。

「おるあァァッ!!」

 三人めがけて飛びかかってきた鴉たちに醍醐が拳を叩き込んだ。躱した数羽は自分の身体で食い止める。

 逞しい胸板に、鮮血が散った。

「醍醐クンッ!?」「待ってて、治療を…」

 癒しの《力》を使おうとする美里を醍醐が止めた。

「俺はいい、美里は護りの《力》に専念するんだ。桜井は…」

 鴉たちをラリアートでまとめて叩き伏せ、小蒔を見る。

「桜井は、なるべく矢を使うな」

「…なんでさッ!ボクじゃ役に立たないって言うのッ!?」

 こんな時までッ、と声をあげた彼女に醍醐は小声で囁く。

「ここから奴を狙えるのはお前だけなんだ。鴉をいくら落としてもキリがない…チャンスを待て、桜井」

 そう言うと彼は腰を落として身構えた。敵がどの方向から来ても対応できるよう、忙しなく周囲に目を配る。

「醍醐クン…」

「今は言うとおりにしましょう、小蒔。身体持たぬ聖霊の燃える盾よ、私たちに守護を…」

 光の障壁が三人を包み込んだ…だが、いつまで耐えられるだろうか?



「――破ァッ!!」「剣掌ッ!!」

 湧と京一の放った広範囲の発剄が周囲の鴉を吹き飛ばす。

「あンたら、張り切りすぎてバテるンじゃねェぞッ!――オラァッ!!」

 雨紋の槍が正確に鴉の胴体を貫いた――可哀想だが、手加減している余裕はない。

 護りの《力》を借りられないのは痛かったが、無手・木刀・槍…異なる三種の間合いで闘う三人は、なかなかのチームワークを見せていた。

「…とはいえキリがねェな、こりゃ」

「あァ…。雨紋、いっそ唐栖のとこまで一気に跳べないか?」

 湧に訊かれ、雨紋は渋い顔で首を振った。

「ムリ言うなって…ヤツに届く前に、カラスどものイイ的になっちまう」

 いくら常識外れのジャンプ力を持っていても、空中での自由度は翼のある鴉には遠く及ばない。ろくに回避も出来ず落ちるのが精々だろう。

「と、なると……湧、“アイツ”に替われねェか?」

 今度は湧が首を振る番だった。

「駄目だ。あんまりやりたくないのもあるけど…どうすれば替われるのか、判らない」

 それは事実だった――替わった間の記憶は残っていても、自分の意思でそうなった事はないのだ。

 さっきから何度か試してはいるのだが…。

「ちッ、そうかよ…」

 京一は思わず舌を打った。正体不明なのが気に入らないとはいえ、あの戦闘能力は今の状況では頼りになったろうに、と。

「?なンだよ、誰のコトだ?」

「なんでもねェよッ!くそッ、どうする…」

 話している間にも、三人は鴉たちを撃退しながらじりじりと進んでいた。

「…見たところ、あの笛が怪しいんだよな」

 湧が呟いた。唐栖の持っている横笛…彼は鴉たちを操るたびにそれを吹いているようなのだ。

「あれを壊せば《力》も消えるってか?けど、どうやって?」

 途中のカラスはどうすんだよ?と言った京一に暫し考え込み、湧は答える。

「京一と雨紋の《力》で鴉の群れに大穴を開ける、でもって突っ込んだ俺が発剄で笛を狙う…って事でどうだ?」

 失敗すれば湧一人で鴉たちの只中に取り残されるという、かなりリスクの高い案ではある…が。

「…それしかねェか」

「一発逆転、期待してるぜッ!」

 行動型の男二人は、腹を括るのも早かった。

「それじゃあ、行きますか。せーのォ…」

「――剣掌・旋ッ!!」

 突如吹き荒れた颶風が前方の鴉たちを吹き飛ばした。風がおさまるのも待たずに湧が走り出す。

 進路上にはまだ数羽の鴉が残っていた。駆け抜けようとする彼の顔面めがけて飛びかかり…

「ライトニング・ボルトォッ!!」

 落ちていく消し炭には目もくれず、走り抜けた湧は発剄の構えに入る。

 間合いまであと少し…という所で甲高い笛の音が響き渡った。

(――なにッ!?)

 唐突に、湧の視界が真っ暗になった。慌てて態勢が崩れ――――足が虚空を踏んだ。



「湧ッ!?」「石動ィッ!!」

 駆け寄ろうとする京一と雨紋。しかし、再び集まった鴉に阻まれる。

「クックッ…いい格好だね…」

 嘲笑う唐栖――湧は片手で鉄骨に掴まっていた。

(…くっそォ。そういや、コイツこんな《力》もあったんだった…)

 自分の迂闊さに臍を噛む。このままよじ登るのを見逃すほど、敵も甘くはあるまい。

 『死』が実感となって湧き上がる――――不思議と、恐怖は感じなかったが。

(どっちかというと頭の芯が冴えてくるような……って、あれ…?)

 意識が冷たく冴え渡る、この感覚は…“あの時”に似ている。

(――――だったら…)

 視力は既に回復している。湧は京一たちの方に顔を向けた。

「湧ッ!待ってろ、今…」

 京一と視線が合った、その瞬間。

「――うわあァァァッッ!!」

 鉄骨から指が外れ、湧は奈落の底へと落ちていった。



「――石動クンッ!?」「湧…くん……」

 小蒔たちの位置からは、湧が落ちるところは見えなかった。

 叫び声に目を向けると、既に彼の姿は視界から消えていた…ただ、それだけ。

 あまりにもあっけない仲間の死に、三人の思考が追いつくまで数秒を要した。

「…ゆ…う……。――ぐゥッ…うおォォォッッ!!」

 醍醐が雄叫びをあげた。光の障壁を飛び出すと、鴉の群れめがけ突っ込んでいく。

「醍醐クン、ダメだよッ!!」「戻って来てッ!」

 二人の制止も聞かず、醍醐は手当たり次第に鴉を屠る。

 鋭い嘴や爪が身体を傷つける痛みももはや構わない…胸の奥に押し込めていた猛々しい感情が、荒ぶる獣のごとく敵に怒りを叩きつけずにはおかなかった。

「――剣掌ッ!!」

 鴉の群れが左右に割れた。その向こうから現れたのは――京一と雨紋。

「落ち着け大将ッ!お前が真っ先にキレてどうすんだッ!?」

 煮え滾るほどの激情は親友の言葉さえ聞き入れさせず、醍醐は唐栖の所へ向かおうとする。と、京一が行く手を塞いだ。

「どけ…ッ!」

 殺気さえ含んだ苛烈な視線に、しかし京一はニヤリと笑って見せた。

「――湧なら、生きてるよ」

 その一言は、冷水を浴びせたように醍醐の怒りを冷ました。

「…なん、だって?」

 呆然と見返す醍醐に、一つ頷いて囁く。

「大丈夫だ。さっき落ちる時、あいつ…微笑ってやがった」

 ――――そう。

 手を離す寸前、京一と目を合わせた湧は確かに――この上なく不敵な顔で――笑っていたのだ。



「――うわあァァァッッ!!」

 一声叫ぶと、湧は鉄骨から手を離した。重力に引かれ、落下が始まる…地面に叩きつけられるまでは数秒もかかるまい。

 間近に迫る死のイメージが湧の意識を極限まで研ぎ澄ます。周囲の時間が、酷くゆっくりと感じられた。

(出て来ないんなら、引きずり出すッ!目醒めろ――――『刹那』ッ!!)

 湧の右手が上着のポケットに突っ込まれ、中から長い絹布――学校で受け取った金箆――を取り出す。

 一振りするとそれは瞬時に蒼い《氣》を纏い、鞭のようにしなって近くの鉄骨に巻きついた。

 すぐに解けてしまうはずの布は、いかなる作用かしっかりと身体を支え…彼は振り子のように反動を利用して浮き上がると、身体を捻って狭い足場に着地を決めた。

「――――まったく…無茶をしたものだな。本当に死んだらどうするつもりだ?」

 言い分は至極もっともだが、そう呟いた本人には恐怖や緊張感など欠片も感じられない。

 たった今、人間業とも思えない曲芸を易々とこなした彼の右目は――金色。

 これが…初めて湧自身の意思で『刹那』へと変わった瞬間だった。

「…蓬莱寺は、気づいたかな?」

 言って上を見る。刹那の視力は最上階の様子を正確に捉えていた。

 彼がいるのは鉄塔の中間部よりもやや下…階段を上っていたのでは手遅れになるかもしれない。

 今度はすぐ上の階の鉄骨を見た――直線距離にして約5メートル。

「ふむ…」

 刹那は無造作に跳躍した。着地…はせずに、そのまま側面を蹴って更に斜め上の鉄骨へと跳ぶ。

 非常識、或いは人外としか言いようのない方法で、彼は最上階を目指し登り続けた。



「――クックックッ…さあ、君たちも彼の後を追うがいい…」

 笛の音と共に鴉たちが集まる。20…40…壁となって、もはや主の姿も見えないほどに。

「醍醐クン…あんなのが、一度に襲ってきたら…」

「くッ…。美里は、防御を頼む。桜井は俺の後ろへ…いや、《嚆矢》で少しでも数を減らしてくれ。京一、雨紋。俺たちで出来るだけ鴉を食い止めるぞッ!」

 冷静さを取り戻した醍醐が指示を飛ばし、五人は防御の陣形を取る。

「わかったわ」「ウンッ!」「オウッ」「任せなッ!」

 各々が《氣》を練り上げる…彼らに諦めるつもりは微塵もない。

 笛の音が、ひときわ高く鳴った。

 鴉たちが一斉に動く――五人に向かって。それはさながら、死を運ぶ漆黒の津波だった。

「…いくぜッ!剣しょ――」



 ――――轟ッ!!

 口火を切った京一が剄を放つより先に、群れの中心で巨大な《氣》の塊が炸裂した。

 大気が激しく渦を巻き、鴉たちは残らず天へと吸い上げられる。

 羽毛が周囲に舞い、黒い竜巻が収まった後にいたのは…。

「…馬鹿な……なぜ、お前が生きてる…!?」

「アイツは…石動、か?」

「違うぜ、ヤツは――」

 呆然と呟く唐栖と雨紋に京一が答えようとし…続きを当の佳人が引き取った。

「――――私の名は…刹那――――」

 異形の瞳が、動揺する鴉の王を冷たく見据えていた。







【五、翼】



「――お前の《力》…全て見切った」

「…なに?」

 いきなりな発言に唐栖は怪訝な表情をした。

「相手の脳に自分の《念》を送って感覚を混乱・錯覚させる…それがお前の《力》だ。
 視覚を司る部分に干渉すれば相手は盲目になる。感情についても然りだ。
 鴉たちはいわば我々を…“大切な雛を護るために殺すべき敵”とでも認識していた訳だ。
 そして、相手に《念》を伝達するための媒質は――笛の音、だな」

 淡々と語る刹那とは対照的に、唐栖の表情は余裕を失っていった。

 自分でも知らなかった《力》の原理を暴かれた事は、唐栖にとって神聖な部分を穢されたのも同然だった。

 よりどころである《神の力》を冒涜された怒りに、整った顔が醜く歪む。

「…それが、どうした?そんな小理屈で僕の、《神の力》を防げると言うなら…やってみるがいいッ!!」

 渾身の《念》を込めて笛を吹き鳴らす――あの小賢しい少年を盲目にして、鴉たちに八つ裂きにさせるつもりだった。

 だが。

 ピィィッ、と甲高い音がしたかと思うと、唐栖の《念》は刹那に届く寸前で霧消した。

「――見切った、と言ったはずだ。その本質が判った以上、同じく《念》を込めた音波をぶつける事で《力》の作用を阻害できる。例えば…口笛でも」

 あくまで冷静さを崩さない刹那の姿に、唐栖の虚飾は完全に剥がれ落ちた。

「…ッ。鴉たちよッ!奴らをみんな引き裂いて…僕の前から消し去ってしまえェェッ!!」



 ――襲いくる鴉たちから流麗な動きで身を躱す。舞うように刹那の手刀が閃くたび、《氣》にあてられた鴉は次々と昏倒し落ちていった。

「こら湧…じゃねェ刹那ッ!煽るだけ煽りやがって、どーすんだよッ!?」

 木刀で応戦していた京一が喚いた。逆上した主人の影響か、統率された攻撃でないのが救いだが…それでも公園中の鴉が集まったのではないかという数に囲まれている。

 このまま闘い続ければ、スタミナ切れは必至だった。

(――てめェだって、そう長くは闘えねェんだろうがッ!?)

 過去二回の出現…そして妖刀事件後の体たらくから見て、湧が『刹那』でいられる時間は決して長くはない事を、京一は見抜いていた。

 当の刹那はといえば、最初の一撃以来《力》も殆ど使わず逃げ回っている。

 それどころか肝心の唐栖からは遠ざかるばかりで、刹那を追う鴉たちはどんどんその数を増やしていた。

「ねェッ、このままじゃ刹那クンが殺されちゃうよッ!?」

「うるせェなッ、判ってるよバカ小蒔ッ!!」

 矢も残り少なくなって焦る小蒔に反射的に怒鳴り返してから、京一はある事に気づいた。

(アイツ、追い詰められてるように見えるけど…まさか…?)

 その考えを裏付けるように、醍醐が小声で囁いた。

「…京一、雨紋、気づいてるか?」

「あァ、あの野郎…やってくれるぜ。おい、雨紋ッ」

「ワカってるって。醍醐サン、手ェ貸してくれよな?」

 話についていけず困惑する小蒔と美里に、醍醐が手早く説明した。

 彼らの考えが正しければ――――チャンスは、もうすぐだ。



 ――ついに、刹那がその動きを止めた。

 一歩後ろへと足を踏み出せばそこは奈落――鉄塔の端まで追い詰められたのだ。

 周囲は無数の鴉によって十重二十重に囲まれている。

 跳んで逃げる事も出来ず、《力》を使おうとも時間差で襲い掛かった鴉たちが確実に彼を殺す…完璧な包囲網だった。

 勝利を確信した唐栖が、口元に残酷な笑みを浮かべる。

「クックッ…てこずらせてくれたね。だけど…チェック・メイトだ。もう終わりだよ…」

 そう、これで良い。神に逆らった愚か者は、最後には必ず裁かれるものなのだ。

 死の恐怖に怯え、無様な命乞いを始めるはずの相手は、しかし冷ややかに言い放った。

「確かに終わりだ――――お前がな」



「――剣掌…旋ィッ!!」

 旋風が巻き起こり、京一たち五人を囲む鴉の包囲に穴があいた。

「…むんッ!!」

 組んだ手のひらに足を乗せた雨紋を、醍醐が渾身の力で投げ上げる。

 醍醐の怪力に自前のジャンプ力を上乗せした雨紋の身体は、遠く高く…唐栖の頭上まで一気に届いた。

「く…ッ!?」

 唐栖は今になって気づいた――刹那に気を取られるあまり、自分の周囲に鴉たちがいなくなっていた…自分を護るものがいない事に。

 鴉を呼び戻しても間に合わない、彼はとっさに笛を構えようとする。

「いっけーッ!!」

 小蒔の放った矢が過たず細い笛に命中し、唐栖の手から弾き飛ばした。

「――――落・雷ッ…閃ッッ!!」

 自分を護るすべを失った唐栖の身体に、雨紋の雷が炸裂した。



「う…あ…ッ、馬鹿な…」

 唐栖はがっくりと膝をついた。加減されていたとはいえ、電撃をまともに浴びた彼は満足に動く事も出来ない状態だった。

 操っていた鴉たちも彼の制御を放れ、主を見放したかのように鉄塔から飛び去ってしまう。

 彼は今、独りだった。

「…もう、やめようぜ唐栖。この世に選ばれた人間なンて…いやしねェ。テメェだって判るだろ?腐った街なら、これから俺たちで変えていけばイイじゃねェか」

 体力の殆どを使い果たした雨紋は、それでも槍を杖代わりに立ち上がりながら懸命に訴えた。

「なッ?唐栖…オレ様とやり直そうぜッ」

 唐栖は雨紋の説得に無言で耳を傾け…やがて、嗤い始めた。

「唐栖…?」

「クックックッ……相変わらず、甘い事を言ってるんだな、君は…。
 この東京で、何を信じろって言うんだい?日々起こる殺人、恐喝、強盗。
 犯罪の芽は摘んでも摘みきれないほど、この世に溢れている…粛正が必要なんだよ、この街には…」

 それもまた、現実――唐栖の言葉を否定しきれずに、雨紋は唇を噛みしめる。

「黒い水に、たった一滴の澄んだ水を垂らしたところで…その色が変わろうはずもない。
 誰かが、やらなければならないのさ。だから、僕は――」

「――――言っただろう?お前は、ここで終わりだ」

 不意に背後から声が聴こえ、唐栖の首筋に痺れが走った。

 ゆっくりと身体が倒れこみ…暗くなる視界の端に、金色の瞳が映った。



「あンた…いったい、何を…?」

「彼の持つ《力》を消し去る。二度と“目醒める”事の無いように」

 雨紋の問いに、唐栖の身体を横たえた刹那が簡潔に答えた。

「…出来んのかよ、そんなコト?」

 そう訊いたのは京一…いつの間にか、他の面々も近くまで来ていた。

「手荒な事をせずに済むのなら、それに越した事はないが…大丈夫なのか?」

 重ねて訊く醍醐に目を向けないまま、刹那は答える。

「彼の《力》は、東京の現状を憂える心と、他者への過剰な嫌悪感から生まれたものらしい。
 ならば、そういった《想い》の元となる記憶を封じてしまえば、《力》も使えなくなる」

 刹那の言葉を皆が理解するのに暫くかかった。

「それって…まるで、洗脳…」

「そんな事をしたら、この人の心は…」

「少なくとも、東京中の人間を道連れに自滅されるよりはマシだ」

 顔を蒼褪めさせた小蒔や美里に、刹那は冷淡に言い放った。



「――――忘れよ――――」

 刹那の声が呪となって唐栖の意識に染みとおっていく。

(こ…れ、は…?)

 唐栖は、それとよく似た抑揚の声を聞いた事があった…一ヶ月前に。

『――――目醒めよ――――』

 あの時出遭った青年が、自分にいった言葉――なぜ今まで、忘れていたのだろう?

 自分に《力》を与えた声と似た、しかし正反対の性質をその中に感じ取り、唐栖は心底恐怖した。

「――――忘れよ――――」

(あ…ああ…嫌だ……)

 自分を特別の存在たらしめていた《力》が、消えてしまう――――。

(人間は、粛正されなければ…いけないのに……)

 あの声もいつしか聴こえなくなり…抱いていたはずの理想や想いまでもが霞がかったように薄れていく。

 穏やかな、絶望感…唐栖は白く染まる世界に抗えず、自我の全てを手放そうとしていた。

「――おいッ、もうやめろッ!」

「…何故止める?彼の言う理想と《力》は、このまま成長を許すには危険すぎるぞ」

「もう、イイじゃねェか…。このままじゃソイツは…本当に何もかも、なくしちまう…」

(――――う…も、ん……)

 忘れていた…捨てていたはずの感情が、唐栖に一筋の涙を流させた。



「!?雨紋、てめェッ!」

「やめてッ、雨紋くんッ」

 雨紋は…刹那の首筋に、槍を突きつけていた。

「やめてくれ…頼むから。これ以上やるってンなら、オレ様はあンたを…」

 震える槍の穂先に、微かに電光が走った。

 刹那は静かに雨紋の瞳を見据え…やがて、溜息をついた。

「……残念ながら――――時間切れだ」

「!んなッ…!?」

 怒りと悲哀に顔を歪めさせた雨紋に構わず、刹那は立ち上がる。

「彼の《想い》――その全てを消し去るまでには至らなかった。
 また何かのきっかけで“目醒める”可能性は残るが…仕方あるまい」

「それじゃ…?!」

 雨紋の表情が劇的に変化した。絶望から…希望へと。

「振り出しに戻る、と言ったところか。後は任せる…彼を信じるなり裁くなり、好きにすれば良い――――」

 金色の瞳が黒く戻り…湧の身体はゆっくりと後ろへ倒れこんだ――その後ろには、奈落。

「――わあァァァッッ!?ちょっと待てッ!!」

 雨紋は慌てて湧の制服を掴み…力の入らない身体はそのまま引きずられる。

「雨紋クンっ!?」「湧、雨紋ッ!!」

 ずるずる、と落ちかける雨紋の足を醍醐が掴んで、ようやく落下は止まった。

「雨紋、我慢しろッ!絶対に離すんじゃねェぞッ!!」

「醍醐くん、雨紋くん、頑張ってッ!」

「なンでも…イイから…早くッ、助けてくれェェェッ!!!!」

 湧と共に救出されるまでの数分間、逆さ釣りになった雨紋は地獄を味わったという。





(――――まったく…おかしな連中だったぜ…)

 鉄塔を降りて湧たちと別れた後、雨紋は公園のベンチまで唐栖を運んでいた。

 救急車が来るまでは暫くかかる…その間、別れ際のやり取りに何となく想いを馳せてみる。



『雨紋クン……もう、行っちゃうの?』

『あァ、後始末がいろいろあるンでな』

『そっか…』

『ン?どうしたンだよ』

『だって…ボクたち一緒に力合わせて闘ったのに、このままさよなら…なんてなんか寂しいじゃないか』

 本気で言っているらしい小蒔の表情に当惑を感じ、言ってみる。

『…オレ様もあンたたちも、今回は利害の一致で協力した。ただ…それだけだろう?』

 そう言って見回すと、その場にいた誰もが複雑な表情をしていた。

 と、醍醐に背負われていた湧と目が合う。

『でも、さ…俺が落ちかけた時には助けてくれたんだよな。もう関係なかったはずなのに…』

 ありがとな。そう言って無邪気に笑った彼を見ているのが何とも面映く、雨紋は顔を逸らした。

『…雨紋。お前、これからどうする気だ?』

 醍醐の問いに雨紋は暫し考え込み…やがて答える。

『オレ様は、まだあンたたちを…特にあの『刹那』ってヤツを信用してない』

 その言葉に、小蒔があからさまに落胆の表情を見せた。

『だから……あンたたちだけには任せておけない。オレ様は、オレ様なりに『刹那ヤツ』の正体を見極めてやる…いいモンか、そうでないモンなのかを』

 一瞬、言葉の意味を掴みかねた五人が目を瞬いた。

『それは…つまり、俺たちについてくると…そういう事か?』

 代表して訊いた醍醐に、ではなく湧の目を見て雨紋は言った。

『まッ、そういうこった。なンか事件があったら、ついでに力を貸してやってもイイけどなッ』

『ケッ…俺たちの足手纏いになるんじゃねェぞ?』

『フンッ…そっちこそ助けて欲しかったら、いつでもオレ様を呼んでいいンだぜ?』

 京一とのやり取りに醍醐が大きく溜息をついた。

『やれやれ…先がおもいやられるな』

『へへッ、そういうワケで…よろしくな。石動セ・ン・パ・イ――――』

 不敵に…挑戦的に。

 殆ど睨みつけるようにして笑った雨紋に対して、湧はただ軽く肩を竦めただけだった。



 ――――この選択が自分にとって吉と出るか凶と出るかは…まだ、判らない。

 それでも、自分に嘘を吐きたくはない。

 石動湧センパイが、これからどうするのか――その答え次第では、自分は彼の敵になるだろう。

 雨紋はふと、横で眠っている唐栖の顔を見やった。

「なァ、唐栖よォ…。人間も、カラスも同じさ…」

 眠ったままの友人に構わず、話し続ける。

「薄汚れて、堕ちて生きていくのは簡単だ。だがな…心まで堕ちなきゃ、希望ってヤツに飛んでいける翼を持っている。きっと…誰でもな」

 夕空に薄く輝く月を見あげる。唐栖の目蓋がピクリと震えたのに、雨紋が気づいたかどうか…。

「だから…オレ様は、人を信じている。人の持つ心を…そして、この街を…」

 かつての友人同士に戻ったかのような穏やかな静寂が、二人を包んでいた――――。





 後日――――杏子は湧からの報告を記事に纏めたものの、それを公表する事はしなかった。

 その記事は以下のような文面で終わっている。

『――こうして渋谷における連続殺人事件は無事、終結した。
 警察の発表によると、代々木公園からは数多くの白骨化した死体が発見されたという。
 現在もこの件は連続殺人事件として捜査が進められているが…。
 事件の真実を知るのは、もはやカラスのみとなってしまった。
 これからも、このような事件が起こっていくのだろうか。これからも…』







久遠刹那 第四話 了



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