久遠刹那 第伍話
【序、渇望】
その時まで、自分は死んでいた。
――――ドウシテ?ドウシテ…ボクバカリガ?
ボロボロに傷ついた身体を抱えて、いつも通り帰路についたあの日。
これからも、一生こんな痛みを与えられ続けて生きるのだと、そう思っていた。
『――どうしたの?酷い怪我…』
彼女に、出逢うまでは。
『目を瞑って、そう……もう、大丈夫よ』
彼女は濡らしたハンカチで傷口の泥を丁寧に拭き取り、繊細な白い指先が血で汚れるのも構わずに頬を撫でた。
暖かな優しい感触にうっとり目を閉じると、いつしか痛みは嘘のように引いていた。
それは、ただ一時の出遭い…名前さえ、聞けなかった。
逢いたい。もう一度逢って、ちゃんとお礼を言いたい。
あの優しい人なら、きっと…自分の話を聞いてくれると思う。
知らない制服――高校生だろうか?どこに住んでいるんだろう?なんて呼んだらいいんだろう?
――――逢イタイナラ、捜シニ行ケバイイノニ。
だけど、もし…彼女が覚えていなかったら?あれが、あの人にとって些細な出来事でしかなかったとしたら?
あの人に…『お前なんか知らない』と、拒絶されてしまったら?
――――ソレデモ、逢イタイ?
あんな瞳は、初めてだった。痛みが引いたことを告げた時、彼女が見せた心からの笑顔。
今も鮮明に思いだせる。夢の中の彼女は、とても優しく微笑んでくれる。
…夢でなら、逢いに行けるのに。自分の気持ちを、ちゃんと伝えられるのに。
――――夢の中でならば。
偽典・東京魔人學園〜久遠刹那〜
第伍話 夢妖
【一、 夢占】
「それじゃあ、私はこれで…」「うん、後でね、美里ちゃん」
書類の片付けをする杏子を残し、美里は新聞部の部室を出た。
「…ふう…」
知らず、溜息が漏れる。
――――頭が重い。
病気でもないのに、ここ数日ずっと気分が優れない。
「夢見が…悪いせいかしら…?」
呟いて、しかし彼女は苦笑した。体調不良の原因を、いちいち夢のせいにしても始まらない。
夢の内容さえ、ろくに憶えてもいないのだし。
例えそれが、死ぬほど怖ろしい悪夢でも…何かから“必死で逃げ出すように”目覚めるのだとしても。
所詮、夢は夢だと。
半ば以上は自分に言い聞かせるようにして、美里は背筋をピンと伸ばすと3−Cの扉を開けた。
――――罪ニハ罰ガ必要ダ。
殺しはしない…だが。
――――オ前ニ相応シイ報イヲ、クレテヤロウ。
あの時…どうして、彼らは…。
「――あッ、ほら、帰ってきたよ」
小蒔の声に湧が顔を上げると、ちょうど美里が教室に入ってくる所だった。
「あら…どうしたの?みんなで集まって…」
美里の席の左隣り――つまりは湧の席を囲むように、京一、醍醐、小蒔が立っていた。
何をしていたかというと…まあ、恒例の四方山話なのだが。
授業中に熟睡して(ついでに課題のレポートも忘れて)犬神先生に4回も当てられた京一の愚痴めいた戯言から始まって、小蒔が犬神とマリアの仲は怪しいと言ってみたり、果ては生徒会の用事で新聞部に行った美里を「新聞部なんかに一人で行ったら、アン子にヤられちまうぞ」と、京一が心配(?)してみたり。
抜粋するのも面倒な馬鹿話を、小蒔が極めて簡潔に説明する。
「へへへッ、生徒会も大変だなァって話してたトコ」
「うふふ…ありがとう、小蒔」
…いささか簡略化し過ぎな気がしないでもないが、何も知らない美里は素直に礼を言った。
「――美里。お前ちょっと、顔色悪いぞ。どこか、具合でも悪いのか?」
醍醐の指摘に、湧たちも美里の顔を注視する。
もともと白い肌色をしている彼女だが、よく見れば今は特に血色が薄い。
表情にも、どことなく生彩がないようだ。
「ほんとだ…大丈夫?調子悪いなら、早く帰って休んだ方がいいよッ」
「そうだな。何だったら、俺たちが家まで送るけど?」
口々に言った小蒔と湧に、美里は笑ってかぶりを振った。
「ありがとう。でも、わたしなら大丈夫よ。もうすぐアン子ちゃんも来るから…そうしたら、みんなで帰りましょう?」
「うッ、うん。でも、ホントに――」
なおも心配そうに言いかけた小蒔の言葉は、景気よく開いた扉の音に遮られた。
「おっまたせェーッ。おッ、あいも変わらず揃ってるわね、皆の衆」
うるさいのが来た、とぼやく京一を「辛気臭い顔してんじゃないわよ」と一言で切り捨てる新聞部部長。
「それでなくても、あんたは脳天気さ“だけ”が取り柄なんだから」
「俺は、お前と違って悩み多きフツーの高校生なんだよッ!」
京一の台詞に、小蒔・醍醐・湧の三人が顔を見合わせる。
「…誰の悩みが多いって?そーゆーのは葵か醍醐クンのセリフだろッ」
「お前のどこが“普通の高校生”なんだ。図々しいにも程があるぞ」
「京一の“悩み”って、煩悩の事だよな?百八つ越えてて鐘撞いても祓いきれねーけど」
容赦ない言い草の友人たちを、京一は恨みがましく睨んだ。
「おーほほほッ、アンタの評価は決まったようねッ。…それに、あたしにだって悩みくらいあるわよ?たまには目覚ましや、原稿から逃れて…思いっきり、眠りたいときもあるんだから」
「ははははッ、バイタリティーの塊の遠野の口から、そんな台詞が聞けるとはな」
心底意外だ、と笑う醍醐に杏子はむくれて見せた…が、その口から大欠伸が漏れる。
「ふあァーあ…昨日だって、一晩中原稿書いてたから眠くってしょうがないのよ。湧君だって、一日中寝てたいって思うこと、あるでしょ?」
湧は大きく頷いた。
「そりゃあ、もう。入部した早々、部室の模様替えだとか膨大な資料のファイリングだとか何百種類もあるネガの整理だとか…一日中やらされた翌日の朝なんかは特に」
「そーでしょ、そーでしょ。前はあたし一人で全部やってたんだもの。それで寝て起きたら次の日だったりして。解ってくれて嬉しいわ〜」
…力いっぱい皮肉を込めてみたのだが、サラリと躱されて湧は肩を落とした。
「遠野…お前、湧にそんな事をさせてたのか?」
「だから言ったじゃねェか…新聞部はやめとけ、って」
呆れ顔の男二人をものともせず、杏子は涼しげに笑った。
「でも…夢も見ないでゆっくり眠りたいっていうの、ボク、よく解るなァ…」
杏子につられてか眠たげな表情を見せると、小蒔は言葉を続けた。
「昨日の夜、ヘンな夢見ちゃって…寝不足気味なんだ」
――目の前に伸びる長い道。小蒔は、どこかへ行くためにその道を歩いていた。
しばらく行くと分かれ道。それから更に進むと開けた場所に着いた。
その広場には様々な乗り物があって、小蒔はそのうち列車・飛行機・バイクのどれに乗るかを迷っていた。
しかし結局、どの乗り物にも乗らず、彼女は長い道を歩き続ける…という内容の夢だったらしい。
「…でも、またその道が長くてね。疲れて目が覚めちゃった」
話し終えた小蒔を、醍醐が気遣わしげに見やる。
「疲れて目が覚める…か。桜井、何か悩みごとでもあるのか?それとも、ストレスが溜まっているとか」
「あははッ。考えすぎだよ、醍醐クンは」
「あらッ、桜井ちゃん。そんなことないわよ。――夢って、心の奥にしまわれた意識の象徴だっていうわ」
杏子の言葉に、京一は「馬鹿らしい」と鼻を鳴らした。
「相変わらず大げさだな、アン子は。夢なんて、ガラクタの寄せ集めみたいなもんじゃねェか。だいいち、夢のこと気にしてたら、おちおち眠ってもいられねェ」
「まったく…あんたの気楽さには頭が下がるわ。いい?昔から、夢は神のお告げ、魂の働きだと言われてたのよ――」
友人たちの会話を、美里はどこか遠くのもののように聞いていた。
帰り支度をしようと教科書類を鞄に入れていた手も、いつの間にか止まっている。
思考がまとまらない。耳から入ってくる言葉は、まるで意味を無くした音の羅列。
時おり出てくる『夢』というフレーズだけが、頭の中でぐるぐると廻る。
(夢…わたしの夢は…)
――どこまでも続く、荒涼とした広い砂漠。所々に公園で見かけるようなジャングルジムや、ブランコの残骸が埋まっているのが見える。
「ここは…どこなの…?」
足元を砂にめり込ませながら、美里は歩いていた…もうずっと、長い時間歩き続けた気がする。
何のために歩いていたのだろうか――出口を捜すため?それとも…。
――――美里 葵……
「…ッ!?……誰なの?」
辺りを見回すが、周囲に人影はない。ごく近くから、さっきの声は聞こえたのに。
――――おいで……
とても近くで響くその声…どこか聞き覚えのある声の主を、美里は探した。
(あなたは、一体…?)
その声の主が、この悪夢の元凶だと…半ば判っていても。彼女が出来ることは他になかった…。
美里の異変――外見上の変化は特にないのだが――に気づかない湧たちは、杏子の夢診断を聞いていた。
彼女曰く、どこかに出かける夢は『旅立ちや人生の漠然とした予告』を表し、出てきた乗り物などは『人生の過ごし方や行動の仕方』を表しているという。
「例えば、列車は『レールに乗った無難な人生』。バイクは『機動性と自由、危険』。飛行機は――『解放』ってな具合にね」
「でも…ボク、結局歩いたんだ」
「うん、そこが桜井ちゃんらしいっていえば、らしいわね。歩くって事は、『自分の力で人生を切り開く』って事だから」
思わぬ褒め言葉を聞いて、照れ笑いする小蒔。
「途中で目が覚めたようだけど、人生に迷いがあるのかも…」
そう診断を締めくくった杏子に、小蒔が頷く。
「うん、そうなんだ。進路指導も、もうすぐ始まるしね。自分が何したいか、まだよく判んなくて…」
「進路、か…。まァ、避けては通れない道だろうな」
醍醐が真面目な顔で両腕を組んだ。
高校三年ともなれば、将来の進路は身近な問題だ――すぐ目の前、と言ってもいい。
「美里は、大学進学だろ?」
それまでずっと黙っていた美里は、不意に話し掛けられてビクリと肩を震わせた。戸惑ったような表情で友人たちを見回す。
「え…あ、えェ。でも…正直いうと、私もまだ何をしたいのか、はっきり決められないでいるの…」
気弱げな美里の微笑みを将来への不安と取った小蒔は、励ますように明るく言った。
「みんな、そんなもんだって。そういえば、アン子も大学目指すんだっけ?」
「まァね」
「ふーん、なんか意外だな。部長の事だから、卒業したらすぐにでもどっかの新聞社に入って下積みでもするのかと…」
茶々を入れかけた湧に、「お前こそどうなんだ」と醍醐が話を振る。
「遠野と違ってジャーナリストになりたい訳でもないんだろう?卒業してからの事とか…」
「一応、就職狙ってるけど?ずっと“保護者”のスネ齧ってるわけにもいかないしさ」
こともなげに答えた。両親が死んでからというもの、自分を育ててくれた姉に早く楽をさせてやりたいというのは、湧が以前から考えていた事である。
あえて『親』でなく『保護者』という表現を使った不自然さには気づかず、醍醐は感心したように言った。
「そうか…お前は結構、しっかりしてるんだな」
「へへへッ、俺たちみたいな行き当たりバッタリとは違うってことさ」
「あのなァ…お前と一緒にするなッ」
心外だ、と言わんばかりに醍醐は京一の頭を小突く真似をした。
「しかし、将来の夢に夜見る夢――夢もいろいろだな…」
感慨深く言った醍醐に、小蒔も頷いた。
「そうだね。こうやって考えると、夢って何かステキだなァ」
だが、突然杏子が思わせぶりな口調で呟く。
「夢は、いつか醒めるから夢なのよね…。――それが、もし醒めなかったら…」
「どしたの、アン子?」
「なんだよ、いきなり…」
小蒔と京一が目を瞬いた。しかし、付き合いの短い湧でも判る。
杏子がこんな言い方をするのは、聴く者の関心を惹き付けるため。
そして、彼女が新聞記事としてでなく湧たち五人にだけ知らせたい事といったら――。
「…察するに、また怪事件発生ってわけだ。今までの話はその前振りと見たけど?」
「さすがは湧君。その洞察力、部員にした甲斐があったわ〜。…最近、墨田区周辺で起こってる事件、知ってる?」
「ん?……えーと、そういやファイリングした資料の中に幾つか…」
最近起こった怪死事件のファイルで、墨田区の名前も見たような気がする。
もっとも、あまりの分量に読む気も萎えたため、内容までは憶えていないが。
「あァ、確か…原因不明の突然死や謎の自殺って奴か?」
新聞で見た、という醍醐に杏子は頷いた。
「まだ、はっきりした事は言えないけど…ここ一週間で6人、普通じゃないでしょ?」
平均すると一日に一人が墨田区周辺で死んでいる事になる。交通事故ならともかく、謎の自殺や突然死の数としては明らかに多過ぎると言えた。
「警察もハッキリとは公表してないけど、あたしの仕入れた情報によるとね…死んだ人間には、奇妙な符合があるの」
一拍おいて湧たちを見回した杏子は、厳かに告げる。
「一見、何の関係もない彼らを繋ぐキーワード…。それは――――夢」
その言葉に、美里の肩が揺れた。
(いやだわ…また、頭が…痛い…)
――――夢を見ながら死んでいく人。夢を残して、自ら命を絶つ人。全ての人が、夢に関わって命を落としているわ…。
杏子たちの声が、酷く遠い所から聞こえる。
(…夢……墨田区……あの声は…確か、あの時の…?)
いつしか美里の意識は、再びあの悪夢の砂漠へと飛んでいた。
「…前日の夜まで変わりなかった人が、朝、布団の中で冷たくなって発見された事。自殺者の中に夢に悩まされていた人が多かった事。中には夢見のせいで、気が狂って自殺に及んだ人もいる――しかも、その全ての事件が墨田区とその周辺で起きている…」
「犠牲者は墨田区に住む者。そして、夢の中に真実が隠されている…か」
「馬鹿言うなよ。そんなもん、証明のしようがねェじゃねェか」
話の要点をまとめた醍醐に、京一が反駁した。
確かに、実体のあった鴉と違って、相手が『夢』では手の出しようも無い。
一連の事件を関連付けた杏子も、それは判っていたらしく肩を竦めて頷いた。
「残念ながら、今の段階では警察もお手上げね」
「ぶちょー…警察だけじゃなくて、それじゃ俺たちもお手上げだって。どうやって調べりゃいいんだよ、そんなの…」
大きく溜息をついた湧だったが、ふと脳裏を瓶底眼鏡の少女が過ぎる。
(もしかして…ミサちゃんだったら何か判るかも…?)
唐栖の一件でも世話になった裏密の占いは、百発百中と専らの評判である。
こんな雲を掴むような事件でも、彼女ならば有益な助言をくれるかもしれない。
問題は、当然同行を渋るであろう男二人だが…。
「――葵…葵ッ、どうしたの?顔が真っ青だよッ!」
突然あがった小蒔の焦ったような声に、湧の思考は途中で断ち切られた。
既に美里の五感は、完全に現実と切り離されていた。
砂漠に立ちすくむ彼女を、例の声が絡め取るような感触さえ伴って呼ばわる。
――――おいで、葵… ボクの処へ……
「やめて…お願い、私をここから出して…ッ」
美里は謎の声から逃れるように駆け出そうとし…身体が沈み込む感覚に驚いて下を見る。
足元の砂が渦巻き、早くも膝辺りまで呑みこまれていた。
―――― つ・か・ま・え・た…
必死に抗おうとするも空しく、流砂に囚われた彼女はほんの数秒で全身埋もれて見えなくなる。
(…た、すけ…て……)
空を掴むように伸ばされた指先も砂中に消え――――砂漠に静寂が訪れた。
【二、 呪縛】
「――安心して、葵…これからは、ボクが護ってあげる。誰にも君を汚させはしないよ…」
薄暗い部屋の中で、少年は満足げに呟いた。
贔屓目に見ても、大人しそうな印象を与える小柄な少年――口さがない者なら『陰気で顔色の悪い貧相な男』とでも評するだろう。
「終わったの?麗司…」
横合いから少女が声をかけた。『麗司』と呼ばれた少年は一瞬怯えたように肩を震わせたが、相手の顔を確かめると安堵した…しかしどこか神経質な笑みを浮かべる。
「あ、亜里沙(か…うん、い、今すんだよ。…これで、葵はボクのものだよね?」
「そうね…」
確認するように問うた『麗司』の言葉を、妖艶な雰囲気を纏う少女――『亜里沙』は大した関心もないのか、素っ気無く肯定する。
「そんな事よりも…次はどいつにするの?」
言外に『そんな女の事よりも』というニュアンスを含ませ、少女は問い掛けた。
微妙な含みに気づかなかったのか、そういう言われ方に慣れているのか…少年は暫し思考を巡らせると口を開いた。
「や、やっぱり、あいつだ…。だって、ボクの上履きを焼却炉に捨てたんだ。僕はやめてって言ったのに…あいつら笑いながら…」
当時の記憶を甦らせボソボソと呟く少年の表情が、悔しさと他者への怖れを映して泣きそうに歪む。
と、彼の肩に少女の手が置かれた。
「そうよ…許しちゃダメ…。復讐するのよ…おんなじ苦しみを味あわせてやるの…」
励まし、力づけるような口調と置かれた手の暖かさに、彼の『他者を怖れる心』がゆっくりと薄らいでいく。
「あなたの心の苦しみを、解らせてやるのよ…」
耳元で囁かれる蠱惑的な声が、彼の抱く『諦め』を別の色に塗り替える。
自信――――手に入れた《力》を躊躇わず行使させるための。
「うん…ど、どんな風にしようかな…?」
気弱げな口調は残るものの、その瞳には弱者を弄る昏い喜び――遊びで無力な虫の手足をもぐ幼児のような――が宿っていた。
少女は切れ長の目を細め、いとおしむように囁く。
「フフフッ、あなたの思うままに…」
それは――例えば、我が子を溺愛する母親のように。
気づかぬ内に自分も相手をも喰い荒らす、盲目的な愛のように。
「あなたの…望みのままに……」
――――甘やかな、毒にも似て。
「…美里ッ!?」「おいッ、美里!!」「葵ッ!!葵…しッ、しっかりして…」
突然力を失い倒れこんだ美里の身体を、湧は辛うじて抱き止めた。
(――冷たい…)
触れた手のひらはしっとりと汗ばみ、まるで冷水に浸したように体温をなくしている。
閉ざされた目蓋と浅く繰り返す呼吸から、完全に意識のない事が知れた。
「どうしよう…ボクが…ボクが調子に乗って夢の話なんてしたから…」
「落ち着け、桜井。何も、お前のせいじゃない」
半泣きで取り乱す小蒔を醍醐が宥めた。湧の横に跪き、気絶した美里の顔を覗き込む。
「やはり、よほど調子が悪かったんだな…あの時、無理にでも帰しておくべきだったか」
「んなコト言ってる場合かよッ。こうしてても、美里の状態は良くならねェだろ?とりあえず――」
「医者に診てもらうのが先決だな。よッ、と…京一、先に廻って扉開けてくれ」
京一の言葉を遮り、湧は美里を抱きかかえて歩き出した。
「ありがとう…よろしく頼むね、湧クン」
礼を言う小蒔に「大した事じゃない」と首を振る湧。ついでに、教室に残っていた他のクラスメイトには「美里が貧血らしいから保健室へ連れてく」と言っておいた。
「湧、重かったらいつでも代わってやるからな」
「キミには頼んでないのッ!!」
「くだらん事を言ってる場合かッ!!」
余計な口を挟んだ京一に、小蒔と醍醐の鉄槌が飛んだ。
「――そういえば桜井ちゃん、何で夢の話と美里ちゃんが関係あるわけ?」
廊下を歩きながら、杏子がふと疑問を口にした。
些細な事なので誰も気に留めなかったが、言われてみれば確かに不自然だ。
「う…うん。葵、笑って言ってたからボクも気にしなかったんだけど…最近よく怖い夢を見るって言ってたんだ。起きた時には、もうよく覚えてないんだけど、でも、『時々眠るのが怖いくらい』だって…言ってた」
「…それって、いつ頃からなの?」
抑揚のない、硬い声で訊ねた杏子の様子に気づかず、小蒔は少し考えてから答える。
「確か……墨田区にあるお祖父さんの家に、遊びに行った頃からだって…」
それを聞いて、京一と醍醐も表情を強張らせた。
「墨田区だと?」「まさか…」
杏子が深刻な面持ちで頷いた。
「その可能性もあるわね…。もしそうなら――って、湧君、どこに行くの?」
見ると、湧は一階への階段を降りずに、二階の廊下を奥へと歩いていく。
「湧ッ、保健室は一階だぞ?そっちじゃ…」
呼び止める京一に振り向きもせず、湧は答えた。
「保健室は後回しだ。霊研へ連れてってミサちゃんに診てもらう」
「――うふふふふふ〜。オカルト研へようこそ〜」
暗幕のかかった薄暗い部屋――オカルト研究会、通称『霊研』――に入ると、人形を抱いた瓶底眼鏡の少女が含み笑いをしながら出迎えた。
…一瞬、何もない空間から忽然と現れたように見えたのだが、暗幕の影から出てきたのだろうと自分を納得させた。
京一が何故か入口近くまで後退り、醍醐の顔色が真っ青になっているのは見なかった事にする。
「精神的緊張(のアスペクトが、天蠍宮と双魚宮を結ぶ時〜、囚われの精神は、悲しみの闇に沈む〜。決して醒めぬ、夢の迷宮〜…」
こちらの事情を見通したような台詞に驚く一同を笑って眺めやると、裏密は奥の机に置かれた小さなクッション…その上の拳大ほどある水晶球を指した。
「この前、インターネットで買ったウァッサゴーの水晶〜、これでみんなのこと覗いていたんだ〜」
――暗闇の中、水晶に映る自分たちの姿を不気味な笑みを浮かべて見守る霊研部長…ゾッとしない想像を頭から追い出そうと、湧は2〜3度かぶりを振った。
「そ、それなら詳しい説明は要らないよな?美里が倒れた原因、調べてくれ」
バサッ、と何処からともなく出てきた黒いマントが独りでに裏密を包んだ――ように湧たちには見えた。
美里を横の長椅子に寝かせるよう指示すると、裏密は水晶を置いた机の傍へ行く。
「これから行うのは〜、いわゆる水晶を媒介にした透視術のひとつなの〜」
「は…?」
理解不能な顔をする一同に、淡々と解説する裏密。
「まず〜、あたしの霊魂を二分化して〜、その片方を葵ちゃ〜んの意識に同化させるの〜。上手くいくと〜、あたしの視たものが水晶に映し出されるの〜」
一応だいたいの概略は解った…内容が著しく常識から外れているような気がする点を除けば。
(……まあ、ミサちゃんだし…)
湧の内心の呟きは、恐らく裏密以外の全員に共通するものだったろう。
一同の沈黙を了承と受け取ったのか、裏密は施術の開始を宣言する。
「それじゃあ、始めるよ〜」
「ちょ、ちょっと待てッ。人体に危険はないんだろうな?」
慌てて確認した醍醐に、裏密は平然と答える。
「うん〜、安心して〜。説明書によると〜、この術で廃人になった被術者は〜世界中合わせても過去に6人しかいないから〜」
「6人ッ!?」
「廃人ってちょっと待てッ!!」
さすがに驚いた湧たちが止める間もあらばこそ、裏密は怪しげな言葉を紡ぎ始めた。
「――エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…」
「お、おいッ裏密…」
「しーッ、呪文よ…たぶん」
「仕方ない……ミサちゃんの腕が確かなことを願おう」
なおも訊こうとする醍醐を杏子と湧が止めた。ここで裏密の邪魔をすれば、それこそ最悪の事態になりかねない。
「ケペリ・ケペル・ケペルゥ…我生りし時、生成りき…ケペル=クイ・ム・ケペルゥ・ヌ、我、始元の時に成りませる…」
呪文が佳境に入るにつれ、裏密の身体に強い《氣》が集まっていくのが感じられる。
不意に、それまで淡く輝くだけだった水晶が一つの映像を結んだ。最初はぼんやりと、そして徐々にはっきりと形をとっていく。
「これは…」
最初に視えたのは、力無くうなだれた美里の顔――身体を黒い鎖で絡め取られ、巨大な十字架に磔にされた美里が、そこに映っていた。
「美里ちゃんだわ、でもこれって…?」
杏子が呟き、水晶球の映像が周囲を映すように動き出す。
「一体、なにが…あッ!?」
いきなり映像が歪み、水晶がそれまでとはまるで違った激しい光を放つ。
内側から強いエネルギーをぶつけられたように何度か震えると、水晶球は微塵に砕け散った。
「あららら〜。す…すごい力〜」
裏密が、間延びした声で言った…どうやら、術を破られてかなり呆然としているらしい。
「ミサちゃん、大丈夫ッ!?」
小蒔の声にも首を振るばかりで反応らしい反応がない。
「一体、なにが起こったんだ?いきなり水晶玉が割れて…」
醍醐に訊かれて、ようやく裏密はこちらを向いた。
「う〜ん、どうやら覗いてるのが見つかっちゃったみたい〜」
「見つかったって…誰に!?」
杏子の問いに、心持ち眉を顰めて答える裏密。
「よくわかんない〜。葵ちゃ〜んの深層意識に〜、誰かが侵入してるみたい〜」
――他人の深層意識に侵入する《力》を持つ“誰か”、それは即ち…。
「新しい、敵か……」
厳しい表情で京一が呟いた。
【三、 癒し手】
「――く…ッ!」
「どうしたの、麗司…?」
顔を顰めて呻いた少年を、『亜里沙』は心配そうに見た。
「…誰かが、勝手にボクの世界に入ってきたんだ。葵のことを、覗いていた…」
「それって…麗司が言ってた“奴ら”の仲間?」
問い掛けた彼女に一つ頷くと、『麗司』の目が不安に揺らぐ。
「すぐに追い払ったけど…どうしよう、亜里沙?奴ら、葵を取り返しに来るかもしれないよ…。もしも、ここを突き止められたら…」
無意識なのだろう、肩を縮こまらせ怯えた表情をした少年の手を握ると、『亜里沙』は真正面から彼の瞳を覗きこんだ。
「しっかりしなよ、大丈夫…あなたには《力》があるんだもの。もし奴らが来たって、夢の中に引きずり込んでしまえばいいわ。あの世界では、あなたが一番強いんだから…」
真摯な声音で掻き口説く少女の言葉に、『麗司』の表情が再び生気を帯びる。
「そうだね…フ、フフ…そうだ、ボクは昔とは違うんだ。何も怖くなんかない…葵だって、きっと奴らよりもボクを頼ってくれる…」
…あるいは、それを生気と呼ぶべきではないのかもしれない。
彼の瞳は『亜里沙』が言葉を重ねるごとに曇り、僅かながらあった意思の輝きを無くしていたのだから。
意思の代わりに宿るものは、子供のように無邪気な――――欲望。
「そうよ…誰にも遠慮する事なんてないわ。あなたは夢の世界の支配者なんだから。あなたを虐げた奴ら、邪魔する奴らを押しのける権利があるの…」
少年から不安の色が完全に消えたのを確かめると、『亜里沙』は満足と安堵の入り混じった微笑みを浮かべた。
不自然なまでに急激な情動の変化…それこそが彼女の《力》であることに、『麗司』は気づいていなかった。
――――ごめんなさい…。
(…もう、これで大丈夫…)
――――もう、生きていくのに疲れました…。
(他人のことを考えて、傷つく必要なんてないのよ…)
――――ごめんなさい、お姉ちゃん……。
(だから…だから、お願い……)
――――さようなら…。
(お願いだから、生きてよ――――“弘司”…ッ)
「――こんなとこに来るヤツは、正気(じゃねェ…」
京一が、絶望的な表情で呻いた。
真神学園からタクシーに乗って走ること十数分、湧たちは昏睡状態の美里を運び、とある病院前に来ていた。
目の前に建つ、古びた…もとい、歴史のありそうな病院の名は――――桜ヶ丘中央病院。
『葵ちゃ〜んを、その病院へ連れてくといいよ〜。桜ヶ丘中央病院は〜、《霊的治療》といって普通の医学では解明できないような〜、魂や氣に影響する病気を治療してくれる病院だから〜』
…という裏密の助言に従い、来てみた次第である。
しかし、怖いもの知らずの木刀使いが、何故か恐ろしげに身震いして呟く。
「ここは、化け物の棲家なんだ…お前らみんな、とって喰われちまうぞ…」
さすがに小蒔と醍醐が不審の目を向けた。
「どしたの、京一?」
「うむ…どうも、いつものお前らしくないな」
ここに来てから――と言うより、霊研でこの病院の名を聞いた時から京一の様子がおかしくなった。
『――さ、桜ヶ丘だとォッ!?嫌だッ、冗談じゃねェッ!勘弁してくれェーッッ!!!!』
さんざ騒ぎ立てる京一を実力行使で黙らせ、到着してからずっとこの調子である。
「本当に、珍しいわね。京一(がビビってるなんて。中に入った事あんの?」
杏子の指摘に一瞬固まると、京一は厭々といった感じで答えた。
「……前に…い、一度だけ…」
「だったら、早く案内しなさいよ」
なに愚図ってんだか、という杏子に目を剥いて反論する京一。
「馬鹿野郎ッ!!お前ら、みんな解ってねェんだ!あの“院長”の恐ろしさは…」
そう言うと、何かおぞましい物でも思い出したかのようにぶるりと身体を震わせ、今度は半泣きで訴える。
「信じてくれよォ、みんなァ。…なァ、湧〜」
男に涙目で縋りつかれても嬉しくない湧は、宥めるように京一の肩を叩いた。
「あーあー、信じるって。ここにお前が恐れるほどの『ナニか』がいるって事だけは、よーく解った」
「…湧ッ!俺はお前を信じてたぜッ!!」
適当にあしらったつもりが、頼みの綱とばかりに抱き付かれてしまった…暑苦しい事この上ない。
いっそブッ飛ばしてやろうかと拳を固める湧にはお構いなしで、京一は捲くし立てる。
「そうだッ、俺は別にビビってるわけじゃねェ。こいつは忠告だッ。一度院長に捕まると地獄だと思えッ。醍醐もそうだが…湧〜、特にお前が危ねェ〜」
オドロ線を背負ってのたまう京一に、杏子が呆れ半分で問い掛ける。
「何よ、それ…。あたしたちは、どーなのよ?」
それに対する京一の答えは、簡潔かつきっぱりとしたものだった。
「安心しろ。女は奴の興味対象外だ」
「…うーむ、いまいち要領を得んな」
醍醐が困惑した表情で顎を掻き、苛立った小蒔が遂に爆発した。
「ちょっと、京一ッ!!キミの泣き言に構ってるヒマはないんだよッ!!キミが襲われて代わりに葵が回復するんなら、ボクは迷わずそっちを選ぶよッ!!」
彼女の言い分を薄情だ、惨いと評するのは酷というものだろう。
美里が突然倒れてからというもの、小蒔はずっと胸の潰れるような思いで親友の容態を見ていたのだから。
その事を知る杏子も、あっさり小蒔に同調する。
「それもそうね。まッ、そういうわけだからサッサと中に…」
追いつめられた京一は、しかし天啓を得たかのように最後の足掻きを試みた。
「そ、そうだッ。別に俺が入る必要もねェじゃねェかッ!美里を一刻も早く診てもらわにゃならねェんだろ?俺ァ急用を思い出したからよッ、後はお前らだけで――おわァッ!?」
言うなり背中を向けて駆け出そうとした京一の足を、湧が絶妙のタイミングで払った。
顔面から転倒したところを、すかさず醍醐が押さえ込む。
予想外の裏切り行為に、京一は愕然と湧を見上げた。
「ゆ、湧…お前、さっきは信じるって…?」
「いや、信じてるけどさ。それはそれ、これはこれ。どのみち他にアテもないんだし、お前一人の尊いギセイで済むなら安いもんだろ?」
にこやかに言い放たれた無情な台詞に、力無く突っ伏す木刀使い。
「そういう事だな。諦めろ、京一ッ」
醍醐は同情の欠片も見せず言うと、逃げられないよう京一の腕に関節技を決めた。
「――連行ッ」
ビシィッ、と親指で病院入口を指した湧の宣告を合図に、一同は桜ヶ丘の門をくぐる。
「くそォッ!!お前ら、みんな鬼だーッッ!!!!」
引き摺られる京一の叫び声が、空しくビル街にこだました…。
病院の待合室に入ると、湧たちは手近のソファーに美里を横たえ、周囲を見渡した。
「あら?…ちょっとォ、誰もいないじゃない。営業してるの、ここ?」
杏子の言うとおり、待合室はおろか受付にさえ人がいない。
入口の鍵は開いていたから、休診日ではないはずだが…。
「京一、ココっていつもこんななのか?」
「俺に訊くなよ…」
湧の問いに、仏頂面で答える京一…無理もない事ではある。
「すいませんッ!誰か、いませんか?」
「ごめんくださーいッ、急患ですよーッ!」
醍醐と杏子が大声で呼ばわり、待つ事しばし。
「…誰もいないのかなァ?」
不安そうに小蒔が呟いた直後、「は〜いッ」と若い女の声が聞こえた。
「今、行きま〜すッ」
通路の奥からパタパタパタと軽い足音が聞こえ、一人の看護婦が小走りに現れた。
「いらっしゃいませーッ!は〜い、ご用はなんですかァ〜?」
柔らかくカールした栗色の巻き毛にちょこんと制帽を乗せ、朗らかな笑顔を振りまく若い看護婦…甘い響きの声質と相まって、何やら綿菓子のような印象を与える娘である。
「…病院でも、いらっしゃいませと言うのか…?」
「さ…さァ?」
最初に抱いた『さびれた暗い病院』というイメージとはギャップのありすぎる陽気な看護婦の登場に、思わず呆然とする一同。
「――あの、ボクたちは…」
親友のためにといち早く立ち直り、声をかけた小蒔だったが。
「わぁいッ。あはァ、お友達がたくさんッ。舞子、うっれし〜ィ」
見事に浮かれて聞いてない様子の看護婦に、続く言葉をなくしてしまう。
「急患なんだが、至急ここの院長に取り次いでもらえないか?」
「わあ、どこの制服かなー?とってもオシャレ〜。久しぶりのお客様だから、ゆっくり遊んでってね〜」
「おッ、おい。緊急の患者なんだが…」
「えッ?うふッ、わかってるってェ」
醍醐との問答も、かなりズレていて内容を理解してくれているのか疑わしい。
というか、身長2m近くある厳つい大男に話し掛けられてもこの対応とは…ある意味、大物かもしれない。
「うおォォォッ!なんなんだ、この看護婦はァッ!!」
キレた京一が頭を抱え喚き散らした、その時。
――――ズシンッ
重い地響きが、待合室を揺るがした。
「な…なんだ、この音は?」
「ちょっとォー、なによッ地震?」
それにしては、ズシン、ズシン、と規則的に聞こえてくるのは不自然だ。第一、段々こちらに近づいてくるようでもある。
「地震っつーよりも…足音じゃないか、これ?」
「来るぞ…来るぞォッ!!」
顔面蒼白の京一が慌てて逃げ場所を求め、醍醐の後ろに隠れる。
いったい何事が起こるのか、と警戒する一行の中で、唯一ここの看護婦だけがぽややんと微笑んでいた。
「――うるさいよッ、この餓鬼どもッ!!ここは病院なんだッ、もうちょっと静かにおしッ!!」
大音量の怒鳴り声が、待合室に轟いた。あまりの声量に、窓ガラスや置かれていた花瓶がビリビリと震える。
「……す、スゴい声…」
「…桜井ちゃん、凄いのは声だけじゃないわよ…」
先ほどからの地響き――いや、足音の主たる女性が湧たちの前に姿を現した。
ソバージュのかかった、明るい色の長い髪。
気だるげに伏せられているように見えなくもない、つぶらな瞳。
すっと通った鼻筋と、その下にあるぼってりとした紅い唇。
白衣の下から覗く衣装は胸元も露わで、豊満な谷間のラインを強調している。
それらの事を一通り見て取ると、湧は隠れている(つもりの)京一に小声で囁く。
「(――お前の好きそうなタイプじゃないの。何でそんなに怯えてんだ?)」
「(…あのなッ、アレのどこをどう見たらそーゆー結論が出てくんだよッ!!)」
真顔で問うた友人に向かって、京一は「正気かテメェはッ!?」と歯を剥き出した。
分厚い皮下脂肪に埋もれた、つぶらな瞳。
小鼻と紅い唇は、首と顎の輪郭も判らないほどたっぷり付いた頬の肉に引っ張られ、横に長く伸びている。
180cm近い長身と、醍醐にも匹敵するほどの胸囲――怖ろしい事に、ウエストからヒップに至るまで同程度のサイズであるのが、服の上からも見て取れる。
体重は優に100kgを超えるだろう、規格外の巨漢…それが、目の前の女性であった。
『――京一。女性をそういう観点で評価するのは、失礼だぞ?』
後日、京一から懇切丁寧な説明を受けた湧は、真面目な顔でそうのたまった。
ちなみに、湧が東京に来てから出遭った女性への第一印象を抜粋すると…。
美里葵:きれいでかわいい。
桜井小蒔:げんきでかわいい。
遠野杏子:しっかり者でかわいい。
裏密ミサ:なんとなく底が知れない(嫌いではない)。
マリア・アルカード:きれいでやさしい。
天野絵莉:大人でかっこいい。
そして、目の前の女性に対する印象は「おおきい人だなあ…」というものである。
これらの認識を聞くにあたり、仲間たちの多くは軽い頭痛と眩暈に襲われたという。
その後、京一を初めとする数名のメンバーが湧の美的感覚を矯正しようと尽力し…あえなく玉砕したという微笑ましいエピソードもあるのだが、それはまた別の話である。
――――閑話休題。
「フンッ、なんだい?いい若いモンがぞろぞろと…」
「…………あ、あの…あなたが、ここの院長先生でしょうか?」
長い沈黙を振り切って、醍醐が漸う声を出した。…女性の迫力に、すっかり呑まれていたらしい。
「いかにも。わしが、この病院の院長の岩山たか子だ」
「ちなみにィ、わたしは看護婦見習いの高見沢舞子(で〜す。まだ看護学生なので、半人前でーッす」
「看護学生…?」
鸚鵡返しに訊いた杏子に、高見沢が律儀に答える。
「そうでーッす。新宿二丁目にある、鈴蘭看護学校に通ってまーッす」
「高見沢、お前は黙っといでッ」
「はーいッ」
話が進みやしない、と陽気な看護婦を黙らせた岩山は、改めて湧たちに振り返った。
「…で?この病院に何の用だい?」
何の用って…と呟く杏子に、岩山はあっさりと告げる。
「うちは産婦人科だよ。表に、そう書いてあっただろ?」
「「「「ゑッ!?」」」」
思わず硬直した一同を眺めやり、岩山は続けた。
「用があるのは、どっちだい?眼鏡のお前かい?それとも、そこのちっちゃいお嬢ちゃんかい?」
「あッ、あの…」
柄にもなく顔を赤らめた小蒔を庇うように、醍醐が進み出る。
「俺たちは、新宿真神学園の者です。実は、友人が倒れてしまって」
「ほォ…真神の。そうかい…どうりで、制服に見覚えがあると思ったよ…」
岩山は懐かしげに目を細めると、やがて……にたぁり、と笑った。
「ところで…あんた、いい身体してるねェ。名前は?」
「はッ…?」
なぜ自分が名を訊かれるのか解らない醍醐は、怪訝そうに訊き返した。
「名前だよ、名前。なんて名前なんだい、ボーヤ」
「はッ、醍醐雄矢といいます」
「わあ、醍醐くん!?強そうな名前〜。ねェ、院長先生?」
「うーむ、なにか武道をやってるね?よく引き締まっていて……美味しそうな、身体だねェ…」
粘りついた好色な視線で全身を舐め回すように見られ、醍醐の身体に悪寒が走る。
年長者への礼儀や友人への義務感から辛うじて持ち堪えてはいるが、そうでなければ即座に回れ右して病院を飛び出していただろう。
「そっちにいるのは、なんて名だい?」
今度は湧に視線が移り、解放された醍醐は大きく息を吐いた。もっとも湧とて、美的感覚は底なしに鈍くとも、こういう視線に晒されるのが平気なわけではない。
「い…石動、湧…です」
「あんたも何か、武道をやってるね。わしには身体つきを見ただけで判っちまうよ。ヒヒッ…あとで、ぜひ他の場所も見せてほしいもんだねェ?」
視線が身体を這い回るたびに、服を一枚一枚剥がされているような気がして、湧は引き攣った笑いを浮かべた。
そして――――遂に、ここに来るのを一番恐れていた男の番となる。
「ん…おや?そこの、デカイのの後ろに隠れているのは、京一じゃないかい?」
その言葉に、隠れていた京一がビクゥッ!!と大きく震えた。
「いえッ、ひ…人違いですッ」
往生際悪く、甲高い作り声までして誤魔化そうとした――無駄な努力だったが。
「久しぶりだねェ…ヒヒッ。隠れてないで、その愛らしい顔をよく見せておくれ。ヒヒヒッ、男ぶりがまた一段と上がって…ほれ、もっとこっちに来ておくれ?」
「い、いえッ、ボクはここで結構ですッ」
嫌々と子供のようにかぶりを振り、醍醐の背中で縮こまる京一。
「(…ここってのは、俺の後ろの事か?)」
「(いいじゃねェかッ。友達だろ、醍醐ッ!!)」
しばし、京一と醍醐の言い合いを楽しそうに眺めていた岩山は、やがてわざとらしく溜め息をついてみせた。
「まったく、お前もお前の師匠も、本当につれないねェ。昔は二人まとめて、あんなに可愛がってやったのに…」
「かッ、可愛がったァ!?」
素っ頓狂な声をあげる京一を、醍醐が興味深そうに見やった。
「師匠って…お前にそんな人がいたのか?」
「ん?…あァ、まァな」
「そういや、あいつは元気にしておるのかい?」
「さ、さァ…もう何年も会ってませんから」
醍醐と話すのとはうって変わって敬語になる京一…よほど岩山に対しては苦手意識が強いらしい。
「そうかい…残念だねェ。あれも、いい男だったのに」
「そッ、そんな事よりもッ!センセー、今日は友達を診てもらいに来たんですッ」
必死で話題をすり替えようと――元々はこちらが本来の目的だが――する京一に、岩山は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふんッ、わかっておる。そっちの女の子だろう?」
「先生、そうなん――」
「お黙りッ!わしは京一に訊いとるんじゃ」
勢い込んで説明しようとした矢先に怒鳴りつけられ、杏子はすごすご引き下がった。
「ゴメンね〜。院長先生って、女の子にはキビシーからッ」
「あッ…そうなの」
「どうりで。あたしたち、名前も訊かれてないもんね」
高見沢のフォローを聞いて、小蒔と杏子はしみじみと納得した顔で頷いた。
「ゴチャゴチャうるさいよッ。ほれ、さっさとこっちに連れておいでッ」
美里の傍に避難していた湧が彼女を抱き上げると、高見沢が近くに寄って来た。
「は〜い、それじゃあ診察室にご案内しますゥ。…あらァ?」
じっと湧の顔を見つめると、高見沢は興味深々で話し掛けた。
「よく見るとォ、あなたってカッコイーのねェ。ねェねェ、その子、あなたの彼女ォ〜?」
「いや?ただのクラスメイトだけど」
即答すると、彼女はにぱッ、と嬉しそうに笑った。
「な〜んだ、そうだったのォ。それならァ、今度は一人で遊びに来てね」
「…は?産婦人科へ、遊びに…?」
何か、ひどく違和感のある事を言われた気がして湧は目を瞬いた。
「高見沢、早くせい」
「は〜いッ。みなさん、こっちへどーぞォ」
問いただす間もなく急かされ、湧たちは溜め息をつくと診察室へ入って行った。
【四、 欺瞞】
――――学校ナンテ、大嫌イダッタ。
『…ん?なんだ、嵯峨野。また忘れたのか?』
授業で使おうとした教科書やノートが、いつの間にかなくなるくらいは毎日のことで。
『よォ、これ落ちてたから拾っといてやったぜッ。少しだけ汚れたけどなッ、はははッ』
放課後になると、落書きだらけだったり泥水に浸けられて返ってきた。
――――オ前ラガ、ヤッタクセニ。
『だいじょーぶかァ?わりィな、ワザとじゃねェんだから怒んなって』
階段の上から突き飛ばされて怪我をした時も、クラスの連中は揃ってボクが勝手に落ちたんだと言った。
『お〜ッ。嵯峨野チャン、もう立派なオトナじゃんか!みんなにも見てもらえよ、ほォらッ!』
体操服に着替える時、下着ごとズボンを下ろされたあげく、そのままの恰好で廊下に放り出された事もある。
結局そのまま体育の授業には出られず、後で返してもらったズボンは、カッターでズタズタに切られていた。
――――ダレモ、助ケテクレナカッタ。
『ぎゃははははッ。似合うぜ〜、お犬様の恰好だ!』
『犬だったら、飼い主の靴だって喜んで舐めるよなァ?』
『うわッ、ひでー奴ッ!もっとやってェー、あははッ』
もう、涙さえ出なかった――泣いたところで、奴らが喜ぶだけだった。
――――死ンデシマエ。
顔の前につき出された、奴らの靴にそろそろと舌を這わせる。
ざらりとした、泥の感触。
『うっげェッ、こいつホントーに舐めやがんの!?』
『気色悪ッ!信じらんねーッ!!』
――――ミンナ、死ンデシマエ。
死んでしまえば、この悔しさも…何もなくなる?
――――死ンデシマエ…………“ボク”モ。
「――この娘の氣のレベルが著しく低下しておる。外部から何者かが干渉しておるようだが…そいつの居場所を突き止める前に、氣を回復させることが先決だね」
そう告げると、岩山と高見沢は《気功治療》の準備を始めた。
癒しの《力》に加え、ヨーガの実践や西蔵(から取り寄せた秘薬を用いる、通常の医学とはかけ離れた神秘的な医術の集大成――それが《霊的治療》という奴らしい。
高見沢が忙しそうに動き回り、他の仲間たちが邪魔にならないよう部屋から出て行こうとする中、湧はベッドの傍にぼんやりと突っ立っていた。
寝かされている美里の額に、そっと手を当てる…いつもより白く少し汗ばんだ肌は、《氣》が弱まっているせいなのか、やけに冷たく感じられた。
…事件のキーワードが《夢》だというなら、彼女は今、夢の中にいるのだろうか?
ふと、霊研を出る時に裏密と交わした会話を思い出す。
『――ああ…そうそう。さっきは水晶玉、台無しにさせちゃってごめんな?』
『…役に立てなかったお詫びに〜、一つだけ教えてあげる〜』
頭を下げる湧に、裏密が言った言葉。それは、確か……。
『黒い《鎖》は、戒めの象徴〜。水晶に映ったのは〜ミサちゃんが“視た”イメージを具体化したものなの〜』
『……どういう意味だい、それ?』
『ミサちゃんが視たのは〜、あくまで精神世界のこと〜。そして〜、そこでは誰もが同じものを視ているわけじゃないの〜。“目に見えるもの”だけに囚われないよう〜気をつけた方がいいわ〜』
人それぞれ、ものの見方は違うという意味なのだろうか――どうも、もっと別の意味があるような気もするが。
(でも…そんな事、当たり前じゃないか…)
当たり前のこと…そして、普段は気にも留めないこと。
ともすれば、いつしか――――忘れてしまうこと。
『やめてくれ…頼むから。それ以上やるってンなら、オレ様はあンたを…』
――――ナゼ?
自分を睨みつけ、震える腕で、それでも槍を突きつけた雨紋。
――――ダッテ、彼ハ人ヲ殺シタ……。
『そんな事をしたら、この人の心は…』
――――放ッテオイタラ、コレカラモ殺シ続ケタ…。
美里の瞳にあったのは批難ではなく…怒りですらなく。それはただ、悲哀と――懇願。
――――当然ノ、報イナノニ。
失われるのは、記憶だけ…なにも、命を奪うわけじゃない。
――――死ヌワケデモ…ナイノニ…。
だったら、別に良いじゃないか――そう思ったのだ…“自分”は。
…それでも彼女は、哀しい瞳をするのだろうか?
「――湧…?どうした、湧。美里の傍にいたいのか?」
醍醐の声が、とりとめもない思考に陥っていた湧を現実に引き戻す。
「あ…いや……うん」
そういう訳ではない、と思う……多分。しかし正確に伝える事も出来ず、湧は曖昧に頷いた。
「…俺たちがここにいても、出来ることは何もないからな。後は、先生に任せるしかないだろう」
醍醐は言葉を濁した湧の肩に手を置いて、静かに出口へと押しやった。
「――ねェ、京一。あんた、さっき師匠がどうとか言ってたわよね?詳しく話してよ」
「冗談じゃねェよ。お前なんかに話したら、あッ、という間に大事だ」
待合室に戻ると、京一がさっき口を滑らせた件について杏子に訊かれていた。
「お〜、その話なら俺も知りたいね。もしかして、京一に剣を教えた人か?」
軽い口調で近づいてきた湧に、京一はしかめっ面でそっぽを向いた。
「そんなこたァ、べらべらと喋るようなこっちゃねェよ。――大喧嘩して別れてから、もう5年も会ってねェんだ。今頃どっかで、のたれ死んでるかもな」
そういう訳で、また今度…と誤魔化す京一に、ずるーいッ!と杏子が声を上げた。
湧が笑いながら「まあまあ、抑えて」と杏子を宥める。
その様子を見ながら、醍醐は僅かに眉を顰めた。
先ほど診察室で見た、まるで無感情な横顔と――今、笑って話している湧。
(……切り替えが早い…それだけか?)
醍醐の知る湧は、大概いつも笑っている。
それは、ある時は不敵で油断ならない笑みだったり、あるいは子供のように屈託ない満面の笑顔だったりするのだが。
今の湧は、まさにそのイメージ通りで……だからこそ、違和感があった。
友人が倒れて心配なのは解る。緊張や不安を紛らわすために、わざと明るく振舞うのも。
だが、湧のそれは自然すぎた。あまりにも“いつも通りすぎた”のだ。
(あれでは、まるで――)
しかし、醍醐が違和感の正体に気づくより先に、小蒔の沈んだ表情が視界に入った。
「――どうした、桜井?美里の事なら、先生に任せよう」
考えるよりも早く、彼の足は小蒔の傍に向かっていた。
俯いた小蒔が、微かに震える声で応える。
「うん…どうしようもないって、わかってるんだけど…。どうしよう…もし、このまま葵が…目を覚まさなかったら…」
「桜井……」
小蒔は不意に顔を上げた。今にも零れそうなほど涙を溜めて、醍醐を見上げる。
「ボク、怖いんだ…。どうして?どうして、こんなことになっちゃったの!?葵が何したっていうのさッ!!」
その声に驚いた他の三人が、話を止めて小蒔を見た。
「ボク、絶対に許さない…。葵をこんな目にあわせた奴!!絶対に、許さないよ…ッ」
最後は呟きになって口の中に消えた。堪えきれなかった雫が、一粒床に落ちる。
醍醐は軽く息を吐くと、再び俯いた小蒔の頭に、手のひらを乗せた。
「しっかりしろ、桜井…。こんな時に、俺たちが弱気になってどうする?今は…信じて待つしかないんだ…」
大きな手が、クシャリと小蒔の髪をかき回す。
暖かい手のひらに頭を預け、暫し目を瞑っていた小蒔は…ややあって、目を開け微笑んだ。
「…うん。わかったよ、ボクも信じる。もう大丈夫ッ。ヘンなこと言って、ゴメンね」
今、何を言っても月並みな慰めでしかないという自覚のある醍醐だったが、それでも小蒔の不安を少しでも軽く出来た事に安堵する。
だが一方で、湧に対して感じた僅かな違和感は、深く追求されないまま彼の脳裏から消えてしまったのだった。
「――まァ、大丈夫だって。あのセンセー、ああ見えても腕は相当なもんだからな」
「あれだけ来るのを嫌がってた京一がそこまで言うんだ、きっと何とかなるだろ」
安心させるべく言い添える京一と湧に、笑って頷く小蒔。
「ありがと、もう平気だよッ。葵はきっと、良くなるよッ」
「そういえば、結構時間経ってるけど……あッ」
杏子が腕時計を見ながら呟いたその時、診察室のドアが開いた。
「みなさァ〜ん、院長先生からお話があるので、聞いてくださァ〜い」
…残念ながら、湧たちを待っていたのは朗報ではなかった。
「とりあえず、治療は済んだ。だが――――娘の意識が戻らん」
表情を強張らせた湧たちに、岩山は現状を説明した。
――氣の回復処置は成功したが、何かが美里の深層意識に干渉して徐波睡眠(=眠りの最も深い段階に繋ぎ止めているため、覚醒の段階で障害が出た…との事らしい。
「じゃあ…じゃあ、葵は…?」
蒼白になった小蒔の問いに、岩山は淡々と答える。
「このまま目を覚まさないか…最悪の場合、衰弱して死ぬこともありうる――娘の意識を束縛している者を捜し、やめさせない限りはな」
視線を鋭くした京一が、不敵に笑った。
「つまりは、その《力》を持った奴をとっ捕まえりゃイイってわけだな?上等だぜ、どこにいようが必ず捜し出してやるッ」
「そうだな…。こうなったら闘うしかないか」
「ボクも、絶対に行くからねッ」
「…干渉の源を探る方法はありますか?」
湧の言葉に頷くと、岩山は高見沢の持っていた地図を受け取り、広げた。
「送られてくる氣の放射幅と方向を測定した結果……墨田区の、この辺りを中心にした半径500mに氣の乱れが検知されておる」
「白髭…公園っていうのかなァ?」
「やはり墨田か…」
しかし湧はもちろんの事、ここにいる五人の中に墨田区に詳しい者はいなかった。
と、意外な人物がここで名乗りをあげた――高見沢である。
「わたしィ、案内しましょうかァ?その辺りには、ちょっと詳しいしィ」
「いや、そりゃ案内がいればありがたいけど…いいの?」
「おいおい…遊びに行くわけじゃねェんだぜ?」
難色を示す京一に、岩山が口を挟んだ。
「京一、高見沢はこう見えても普通の人間にはない“もの”を持っている。他人とすぐ仲良くなれるというか…まァ、一種のコミュニケーション能力だな」
情報収集か何かの役には立つかも知れん、と半ばごり押しのように連れて行くことになった。
京一はかなりゴネたのだが、岩山の一喝には勝てなかったようである。
「――って、何でまたあたしが置いてきぼりなのよッ!?」
「遠野は、美里の傍にいてくれ。その方が、俺たちも安心して行ける」
「部長、俺も今回はやめといたほうがいいと…」
あくまで自分を置いて行こうとする男性陣に、杏子は噛み付いた。
「冗談じゃないわよッ!美里ちゃんが危ないって時に、あたしだけ安全な所で待ってろって言うのッ!?」
いくら、あたしに《力》がないからって…と言い募る彼女を諭したのは、珍しく京一だった。
「いいから、聞けって。俺たちみたいのは身体張って闘う。お前はその頭で、ペンで闘うんだ。人にはそれぞれ、役割ってもんがあるからな」
いつになく真剣な京一の眼差しに一瞬息を呑むと、杏子は思わず呟いた。
「……京一。――――なんだか、似合わないセリフ」
「うるせェなッ!駄目なもんは、駄目ってことなんだよッ!!」
「…わかったわよ、美里ちゃんに付いてる。その代わり…新聞のネタ、タダにしてよね」
二の句が告げない京一であった。
「アン子、葵をよろしくね」
「うん、桜井ちゃんも気をつけてね」
――病院を出る彼らを見送ると、杏子は空を見上げた。
「あーあ、よりにもよって京一に説教されるとはね…雨でも降らなきゃいいけど」
呟いた語尾が、少し震えた。眼鏡を取ると、彼女はグイと目を拭う。
「……わかってるわよ、あたしはあたしに出来ることを精一杯やる。だから――」
頑張りなさいよ、と小さく激励の言葉を投げ、杏子は美里の病室へ向かうのだった。
「――え〜とッ、京一くんと醍醐くんに石動くん、そちらのあなたのお名前は〜?」
よほど出かけるのが楽しいのだろうか、高見沢は相も変らぬ明るい笑顔で訊いてきた。
スキップでもするような歩調に、栗色の巻き毛が柔らかく弾む。
「真神学園三年、桜井小蒔だよ」
「わあッ、ぴったりのお名前ね。短い髪も、すごくお似合い〜ッ」
「ど、どうも…」
ストレートな褒め言葉に戸惑いつつも満更ではなかった小蒔だが、次の一言で口元が引き攣る。
「男らしいって感じで、憧れちゃう〜ッ」
「あのねェ…ボクに喧嘩売ってんの?」
「わあ、お出かけだ〜。うれし〜なッ」
「ちょ、ちょっと…」
「全然、人の話を聞いてねェな…」
状況の重さを理解しているのかどうなのか、高見沢の無邪気な子供めいた振舞いに呆れた一行が溜め息をついていると、門を出たところで驚いたような声が聴こえた。
「あッ…石動さん…?」
名前を呼ばれ振り向くと、見覚えのある栗色の髪をした少女が近くに立っていた。
「偶然ですね…。あの、わたしのこと……覚えてますか?」
「あァ、前に渋谷で遭ったよね。確か……あれ…?……えーと…」
数秒続く、不自然な沈黙。
「…………誰だっけ?」
笑顔を固まらせ間抜けな質問をした湧を、少し呆気にとられた表情で見つめると、彼女はクスクスと笑い出した。
「…ごめんなさい、そういえば自己紹介もしてませんでしたよね。わたし、品川区桜塚高校の二年生で比良坂紗夜(って言います。…でも、良かった。また、お会いできましたね」
「おい、湧。何してんだ……あッ。どうも…」
立ち止まった湧を訝しんで戻ってきた京一が、比良坂に気づいて頭を下げた。
「こんにちは」
愛想良く笑ってお辞儀する彼女に相好を崩して、京一は訊いた。
「なに?湧の知り合い?」
「えッ…いえ、わたしが勝手にそう思ってるだけで…ごめんなさい、引きとめたりして。どこかへ行かれるところだったんじゃないですか?」
その言葉で思い出したように、湧の脇腹を小突く京一。
「そうだった。おい、急ごうぜ…悪ィけど、また今度な」
「ハッ…ハイ。――あのッ、石動さん…」
一瞬、何かを伝えあぐねるように言い澱む。
「…………また今度、こんな風に偶然に会えると…いいですね。それじゃ…」
心持ち頬を染めてそう言うと、彼女はその場を駆け去った。
「……カワイイ娘だったなァ…」
「鼻の下が伸びてるぞ、京一」
「石動くんって、女の子の友達が多いのね〜」
いつから見ていたのか、高見沢が後ろでぷうッと頬を膨らませている。
怒っている…にしては目元が笑っているようなので、湧も「まァね」と軽く頷いて見せた。
「…ホントに友達〜?とっても仲良さそうで…誤解しちゃうよおッ?」
「お前も結構、侮れない奴だな…今度、俺にも紹介しろよッ」
そうこうしていると、醍醐と小蒔がイラついた顔で戻ってきた。
「こんなとこで、なに油売ってんのさッ!!早く行くよッ」
「「は〜い、わかりました〜」」
返事をハモらせた湧と高見沢に、小蒔は思わずこめかみを押さえる。
「ボク、頭痛い…」
「とにかく、事は一刻を争うんだ。グズグズしてないで、さっさと行くぞッ!!」
醍醐の一喝で、湧たちは小走りに駆け出した。
走り出した彼らの様子を、物陰から見ている者がいた。
先ほどまでの恥らう様子が嘘のように、凪いだ表情で立ち尽くす少女――比良坂紗夜。
「――偶然ですね…か。……馬鹿みたい」
嘲るように呟いた彼女の瞳は――――ひどく、寂しげな色を湛えていた。
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